第9話「笑いが“解除”になる瞬間」
校庭の砂は、昼間の熱を抱えたまま冷えていた。
夕方に近い日差しがコンクリートを撫で、影の縁だけがくっきりしている。風はあるのに、木の葉が擦れる音が薄い。薄い音は、空気の層がどこかで削れている合図に似ている。
公開模擬戦。
学園祭ほど賑やかではないが、普段より人が多い。体育科のイベントとして外部の見学者も入っているらしく、グラウンド脇の観客席はぎっしり埋まっていた。スマホのレンズがいくつも光を拾っている。画面越しの世界は軽い。軽い世界は、欠けるときに音が出ない。
俺は人の波から少し外れた場所に立っていた。
視界の端で、放送設備のスピーカーが揺れている。風に揺れているだけのはずなのに、揺れが少しだけ遅れて見える。遅れがあると、右目がきしむ。歯車が噛み合わない感覚。噛み合わないまま回そうとすると熱が出る。
右目の奥が、嫌な温度を持ち始めていた。
まだ痛みというほどではない。指先が冷える前の、薄い予兆。予兆があると、呼吸が浅くなる。浅い呼吸は、喉の奥の焦げを引き上げる。
焦げ。
この学園には、焦げの匂いがあるはずがない。焼却炉は遠い。厨房の匂いも今は漂っていない。それでも、俺の中では焦げがいつでも戻ってくる。匂いが戻るたびに、終わりが近い気がする。
観客のざわめきが、少しだけ遠い。
遠いのは距離のせいじゃない。音が途中で抜け落ちている。抜け落ちた音の穴に、ジ、と短いノイズが混じる。ノイズは一度だけじゃない。等間隔で来る。規則的なノイズは、継ぎ目が整列し始めたときに聞こえる。
放送委員の声がスピーカーから流れた。
「次は、三年女子代表――」
声が二重になった。
一瞬だけ。誰も気にしない。笑い声が被さり、拍手が被さり、声の二重は観客の熱に溶ける。溶けるのに、俺の耳だけが拾う。拾うと、右目が熱を持つ。
人の流れの向こうに、彼女がいた。
入場口の白いラインを跨ぐだけで、周囲の空気が軽くなる。軽くなると床が沈む。沈む感覚は、俺だけじゃなく近くの生徒にも伝染しているのか、ざわめきが一段落ちた。
彼女は歩いてきた。
早くない。遅くない。歩幅が一定で、足音が必要な分だけしか鳴らない。足音が少ないのに、視線だけが集まる。集まった視線が、彼女の通る道を広げる。広がった道は、誰も文句を言わない。言わない空気が、彼女の強さを説明してしまう。
右手は黒い手袋。
手袋は今日も外さない。外さないことが当たり前になっている。当たり前の中に、危険が隠れる。
彼女は観客席の前で立ち止まり、軽く頭を下げた。
その瞬間、口角が上がった。
笑顔。
演じる笑い。
俺の右目が焼けた。
焼けた、という感覚が一気に来る。眼球の奥に熱い針が差し込まれ、視界の端が白く滲む。滲んだ白が、グラウンドの白線と重なる。白線が裂け目に見える。裂け目の向こうに、燃えた空の白がある。
俺は息を吐いたつもりだった。
吐いた息が喉で引っかかる。唾が飲めない。喉の奥が乾き、舌が上顎に貼りつく。貼りつく感覚と同時に、紙が机に貼りつく映像が頭に浮かぶ。映像が浮かぶのは、もう始まっているからだ。
開始の合図の笛が鳴った。
鳴った音が途中で欠けた。
欠けたところに、ジ、と短いノイズ。ノイズが規則正しく並ぶ。並ぶノイズは、糸が張られる音に似ている。糸は見えないのに、空気の中に線が引かれていく感覚がある。線が増えると、図形になる。
円。
割れ目。
保健室で見た赤い刻印の形が、視界の奥に重なる。
彼女が構えた。
竹刀を持つ姿は、体育館の模擬戦で見たときと同じ。重心がぶれない。肩が上がらない。呼吸が乱れない。乱れない呼吸が、どこか異質だ。人は緊張すれば息が変わる。変わらない息は、緊張が存在しない証拠か、緊張を抑える弁が別にある証拠だ。
対戦相手の男子が前に出た。
歓声。
拍手。
スマホのシャッター音。
音が多い。多い音は、欠けを隠す。欠けた音は、俺の耳だけに刺さる。刺さるたび、右目が熱を増す。
彼女は一歩踏み込んだ。
竹刀が触れる前に、男子の足が沈んだ。沈んだのは錯覚ではない。砂が少しだけ黒く濃くなる。濃くなる砂の色が、昨夜の影の飲み込みと似ている。似ていると、背中に汗が走る。
男子は体勢を崩した。
崩した瞬間、彼女の竹刀が止まった。止まった竹刀は、相手の喉元の数センチ手前で止まる。止まる距離が正確すぎる。正確すぎる距離は、測っている距離だ。測っているのは、相手の体ではなく、世界の許容量かもしれない。
観客席が湧いた。
歓声が大きいのに、風の音が聞こえない。
風は吹いているはずなのに、旗が揺れる音が薄い。薄い音の穴に、ジ、と短いノイズ。ノイズがまた等間隔。規則的。
俺はスピーカーを見た。
スピーカーの金網の向こうで、振動板が小刻みに震えている。震えが、声の波形とズレている気がした。ズレは、放送のノイズと同じ。放送室の継ぎ目が、ここまで伸びてきている。
彼女が二戦目に入る。
相手は二年の女子。実力者らしく、観客の期待が上がる。期待が上がるほど、彼女は笑う必要が出てくる。笑いは抑制弁。抑制弁が開くと、解除が来る。
解除。
俺の喉が締まった。
その言葉を口に出せない。口に出せないのに、体は知っている。彼女が笑うと、楽になる。楽になると、薄くなる。薄くなると、溢れる。溢れたら終わる。
終わりを、俺は三回見ている。
四回目は欠けている。
欠けている終わり方が、ここに繋がっている可能性がある。
彼女が相手の攻撃をいなした。
竹刀の音が、遅れて鳴った。遅れて鳴った音は途中で欠けた。欠けたところに、ジ、と短いノイズ。ノイズが糸みたいに細く、空気の中に線を引く。線が増えると、グラウンドの上に見えない格子が敷かれた気がした。
格子。
図形。
円と割れ目。
俺は無意識に右目を押さえそうになって、やめた。押さえる動作は、痛みを確定させる。確定は条件になる。条件は増やしたくない。
観客席の前列に、見慣れない顔がいた。
制服ではない。私服。黒いパーカー。顔の造形が覚えられない。覚えられない顔は特徴がないのではなく、特徴が滑る。滑る顔は、回収班と同じだ。
その男が、拍手に混じって声を投げた。
「器のくせに」
声は小さい。小さいのに、彼女の耳に届く位置を選んでいる。選んだ位置が、彼女の抑制弁を狙っている。
彼女の動きが、一瞬だけ止まった。
止まったのに、観客は気づかない。止まりが短いからだ。短い止まりの中で、彼女の口角が上がった。
笑う。
演じる笑い。
俺の右目が灼けた。
灼けた熱が視界を白くする。白い滲みの中で、彼女の右手袋の縫い目だけが黒く浮く。黒い線は糸に見える。糸が手袋から外に伸び、空気を縫っていく感覚がある。
放送が変わった。
応援のBGMが流れているはずなのに、音が規則正しく欠ける。欠ける間隔が一定だ。一定の欠けは、意図だ。意図がある欠けは、世界が調律されている。
風が逆流した。
逆流した、と体が先に感じた。砂が舞う方向が一瞬だけ反転する。観客の髪が揺れる方向が違う。違うのに、誰も驚かない。驚かないのは、視覚情報が遅れて届いているからだ。
机の上の紙が貼りつく感覚が、現実に現れた。
観客席のパンフレットが、膝に貼りついたままめくれない。自販機のチラシが風に舞わず、空中で止まる。止まった紙が、ゆっくりと机に吸い寄せられるみたいに貼りつく。貼りつく紙の縁が、黒い線で縁取られたように見える。線は糸。糸は図形。
彼女の右手袋の上から、光が漏れた。
最初は、夕陽の反射に見える。
観客もそう思った。スマホが一斉に向く。歓声が上がる。「演出だ」と誰かが笑う。笑い声が、欠けた音の穴に落ちていく。
俺だけが匂いを嗅いだ。
焦げ。
喉の奥にある焦げが、外からも来る。外の空気が焦げを持っているはずがないのに、鼻の奥に刺さる。幻臭。幻の匂い。匂いが来ると、終末が近い。
彼女は笑っていた。
笑いの形は綺麗だ。綺麗すぎる。綺麗すぎる笑いは、演じた笑いだ。演じた笑いは、内側の弁を開くための鍵になる。
鍵。
彼女の刻印が、布の下で脈打つ。
赤い円が、開く。
その瞬間、校庭の一部が欠けた。
欠けるのは爆発じゃない。崩落でもない。抜ける。地面が黒く抜ける。黒い穴が、突然そこにある。穴は形を持たない。形を持たないのに、縁だけがくっきりしている。縁は図形の輪郭みたいだった。円に似た曲線。割れ目に似た切れ込み。
穴に向かって、小石が落ちた。
落ちる音が途中で途切れた。
途切れた音の向こうに、無音がある。無音は穴の底に繋がっている。穴の底は世界の外側かもしれない。外側へ落ちた音は戻らない。
観客の一部が悲鳴を上げた。
上げた悲鳴が途中で欠けた。欠けたところに、ジ、と短いノイズ。ノイズが今度は太く聞こえる。太いノイズは、糸が張り詰めた音だ。
彼女はまだ笑っている。
笑いは止まらない。止まらない笑いは、解除が進んでいる証拠だ。解除が進むと、溢れる。溢れたら終わる。
俺は前に出た。
走るという選択はしなかった。走ると音が増える。音が増えると欠けが隠れる。欠けが隠れると、終わりが気づかれないまま進む。進むのが一番危ない。
歩く速度で近づく。
近づく間、右目が焼け続ける。焼ける熱が涙を引き出す。涙が出ると視界が滲む。滲む視界の中で、彼女の手袋から漏れる光だけが鋭い。鋭い光は、刃みたいに空気を切る。
誰かが叫んだ。
「止めろ!」
俺じゃない。教師か、運営の誰かだ。止めろという言葉は乱暴だ。乱暴な言葉は彼女に届かない。届かないから、世界に届く。世界に届いた止めろは、余計に糸を張る。
彼女の笑いが少しだけ大きくなった。
大きくなった瞬間、穴の縁が広がった。広がる縁は、紙を破るみたいに広がるのではない。線が一本増えるように広がる。線が増えると図形が変形する。変形は規則に沿う。規則に沿う変形は止めにくい。
俺の喉が締まった。
止める言葉が見つからない。
笑うな、と言えば彼女が壊れるかもしれない。笑え、と言えば世界が欠ける。どちらも選べない。選べないとき、体で選ぶ。
彼女の右手へ伸ばす。
素手で触れるのは危険だ。保健室で養護教諭が言っていた。触れ続けるのは負担が増える。けれど、今は負担の話ではない。今は穴だ。穴が広がれば、落ちるのは生徒だ。生徒の叫びが欠けたまま消える。
彼女の手袋の上から、俺は右手を両手で包んだ。
布越しに感じる温度は、思ったより高い。熱いのではない。内側が動いている。動いているものが、笑いで解放されようとしている。解放されると、溢れる。
俺の掌が、縫い目の糸に当たる。
糸の線が指先に引っかかる。引っかかりは現実の感触だ。感触があるなら、ここはまだ現実だ。現実で止められるなら、止める。
彼女の笑いが引きつった。
笑いの形が崩れる。崩れると、空気が重くなる。重くなると床が戻る。戻る床の感覚が、穴の縁を押し返す。
刻印の光が弱まった。
弱まる光に合わせて、放送のノイズの規則が乱れる。乱れたノイズは、ただの雑音になる。雑音は整列していない。整列していないなら、継ぎ目は固定されていない。
穴の縁が止まった。
止まったところで、砂がふわりと落ちる。落ちる音が、今度は欠けずに届いた。欠けない音は、まだ戻れる証拠だ。
彼女は俺の手の中で、右手を押さえたまま固まっていた。
固まった指が、布の上から俺の掌に沈む。沈む圧が小さい。小さい圧は、彼女が自分を抑えている証拠だ。抑える力があるなら、まだ間に合う。
俺は言葉を出さなかった。
言葉にすると固定になる。固定は次の終わり方を増やす。増やしたくない。だから、握るだけ。
観客のざわめきが戻った。
戻るざわめきの中で、泣き声が混じる。泣き声が途中で欠けない。欠けない泣き声は、怖いけれど生きている証拠だ。
教師が走ってきた。
走る足音がちゃんと鳴る。鳴る足音は現実の重さだ。重さがあるなら、穴は完全ではない。
「全員、下がれ!」
教師の声は震えている。震えがある声は人間の声だ。人間の声が戻ると、世界は少しだけ人間のものに戻る。
彼女は、俺の手の中で息を吐いた。
吐いた息が熱い。熱い息が、俺の指先を濡らす。濡れた指先が冷える。冷えた指先が震えそうになる。震えを抑える。抑えると、掌の圧が一定になる。一定の圧は、手順になる。
手順。
代替の手順。
笑いの代わりの放出口。
それを、俺の体が探し始めている。
彼女が小さく言った。
「……やめられない」
声は平らだ。平らなのに、喉の奥が乾いているのが分かる。乾いた声は、崩れの手前にある。
俺は短く息を吸った。
吸うと焦げが濃くなる。焦げは幻臭。幻臭は終末の残り香。残り香を消せないなら、別の匂いで塗りつぶすしかない。匂いではなく、触覚で。
「今は、止めてる」
俺はそれだけ言った。
止めてる、は命令じゃない。事実だ。事実だけなら固定が少ない。
彼女の肩がほんの少しだけ下がった。
下がると、空気が少しだけ落ち着く。落ち着くと、スピーカーのノイズが弱くなる。弱くなるノイズの隙間に、遠くの鳥の声が聞こえた。鳥の声は欠けない。欠けない鳥の声は、世界がまだ繋がっている証拠だ。
彼女は俺の手の中で、右手を少しだけ動かした。
動かす動きは、逃げる動きではない。確かめる動きだ。俺の掌が触れている場所を、彼女の指が確認する。確認は、抑制になる。抑制の代替は、笑いじゃなくてもいいのかもしれない。
観客席の前列にいた男が、後ろへ下がっていくのが見えた。
顔が滑る男。
回収班の匂いの男。
男は人の流れに紛れた。紛れ方が自然すぎる。自然すぎる紛れ方は、最初からそこにいたように見える。最初からいたように見える存在は、学園の中にいる。内通者。空棚。消された歴史。
俺の右目が、もう一度きしんだ。
きしみは熱を伴わない。熱を伴わないきしみは、歯車が噛み合い始めた合図に似ている。噛み合えば、俺の右目はただの痛みじゃなくなる。
彼女が、俺を見上げた。
見上げる目が、さっきと違う。違うのは光のせいじゃない。焦点が俺に合っている。合っている焦点は、逃げ先を決めた目だ。
彼女が囁いた。
「……あなた、私の鍵なの?」
鍵。
その言葉は、軽いようで重い。鍵は開ける。開けるのは抑制弁かもしれないし、封印かもしれない。開け方を間違えれば、終末が来る。終末は三回で足りた。
俺は答えなかった。
答えると固定になる。固定は危ない。
代わりに、彼女の右手を包む圧を一定に保った。
一定の圧は、手順の最初の一つだ。手順を作れば、笑い以外の放出口が作れる。作れれば、彼女は笑わずに息が通るかもしれない。息が通れば、楽になる。楽になるのが、終末に繋がらない形で。
穴の縁の黒は、まだそこにあった。
黒は消えていない。消えていないのに、広がっていない。広がっていないなら、止められる。止められるなら、次がある。
教師が近づいてきて、俺たちを庇う位置に立った。
「医務室!」
誰かが叫ぶ。
医務室の匂いは薄い。薄い匂いは現実が軽い。軽い現実は危ない。けれど、今の校庭はもっと危ない。選択は二つしかない。止まるか、移動するか。
俺は彼女の手を包んだまま、半歩だけ後ろへ引いた。
引くと、彼女も付いてくる。付いてくる動きが遅れない。遅れない動きは、空気が繋がっている証拠だ。
スピーカーから、ジ、と短いノイズが一度だけ鳴った。
規則的ではない。
規則的ではないノイズは、まだ整列していない継ぎ目の音だ。整列する前に、手順を作らなければならない。
彼女がもう一度、息を吐いた。
吐いた息が、今度は少しだけ軽い。軽い息は危ない。軽い息は笑いに近い。笑いに近いと、解除が戻る。
俺は包む手を少しだけ強くした。
強くしすぎない。強すぎる圧は、別の鍵になるかもしれない。鍵は一つとは限らない。複数の鍵は、複数の終わり方に繋がる。
彼女が目を伏せた。
伏せた睫毛の影が頬に落ちる。影が落ちるのに、影の縁がずれていない。ずれていない影は、世界がまだここにある証拠だ。
焦げの匂いが、少しだけ薄れた。
薄れたのは、消えたのではない。俺の呼吸が戻ったからだ。呼吸が戻ると、匂いはただの記憶に戻る。記憶はまだ痛む。痛むけれど、今は現実に触れている。
彼女の囁きが、もう一度だけ耳に残った。
鍵。
俺は心の中でだけ返事をした。
鍵なら、開けない。
開けるのは終末だ。
鍵なら、閉じる。
閉じるための手順を作る。
彼女の右手の縫い目が、俺の掌に引っかかったまま、さら、と小さな音を立てた。
糸の音。
糸は縛る。
縛るのに、今は繋ぎ止める。
俺は彼女の手を離さず、医務室の方へ歩き出した。
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