第8話「封印刻印(右手)の正体」

 保健室の匂いは、薄い。

 消毒液の刺激と、漂白した布の白さが、鼻の奥に触れるだけで消える。医薬品の匂いがあるのに、生活の匂いがない。匂いが薄い場所は、現実が軽い。軽い現実は、上書きされやすい。

 ドアを閉める音が、遅れて追いかけてきた。

 きい、という蝶番の擦れ。音が途中で欠ける。欠けたところに、ジ、と短いノイズ。ノイズは耳に刺さらない。刺さらないのに、確実に残る。

 俺は手のひらを見た。

 昨夜、足首に巻かれた糸の冷たさの跡は、まだ薄く残っている。皮膚が少しだけ赤い。赤さは現実の証拠。証拠があるのに、現実が頼りない。

 ベッドの端に、彼女が座っていた。

 制服のスカートの裾が、白いシーツに触れている。触れているのに、布がシーツに馴染まない。白の中に、彼女だけが浮いて見える。浮いているのは、光のせいじゃない。空気が彼女の周りだけ違う。

 右手は、黒い。

 手袋。

 いつもと同じ黒。けれど、保健室の照明の下だと縫い目が見える。糸の線。細く、規則正しく並んだ線が、彼女の右手の輪郭を縛っている。

 彼女はその縫い目を、左手の指でなぞっていた。

 なぞる動きは、焦りではない。焦りなら速くなる。これは一定だ。一定の動きは癖になる。癖は反復する。反復は記号になる。彼女の右手は、そうやって記号として保たれている。

 指が縫い目を擦る音がした。

 さら、さら、と布と糸が擦れる音。静かな音なのに、俺の耳には大きい。保健室は音が薄いから、薄い音が浮く。浮いた音は、継ぎ目を刺激する。

 彼女は俺を見なかった。

 鏡を見ているわけでもない。天井を見ているわけでもない。ただ、右手の黒だけを見ている。黒を見ている視線は、自分の内側を見ている視線に近い。

「来たんだ」

 彼女が言った。

 声は小さい。小さいのに、空気が従う。従った空気が、俺の足を止める。止まると、喉の奥の焦げが濃くなる。焦げが濃いと、思い出しやすくなる。思い出したくない。

「呼ばれた」

 俺は短く答えた。

 呼ばれたのは、俺だ。呼んだのは、彼女じゃない。養護教諭からの連絡。昨夜の件。昨夜の回収班。回収班の言葉。核。喉が締まる。

 ベッド脇の椅子に腰を下ろすと、椅子の脚が床に擦れた。

 ぎ、と音が出るはずなのに、音が欠けた。欠けたところに、ジ、と短いノイズ。ノイズが糸みたいに細く、空気を引っ張る。

 彼女の指が縫い目をなぞるのをやめた。

 やめた瞬間、右手の黒がさらに黒く見えた。黒が深いと穴に見える。穴は世界の底に繋がっている。繋がっていると感じるだけで、右目が熱くなる。

 保健室の奥のカーテンが揺れた。

 風はない。エアコンの音も薄い。揺れたのは空気の層がずれたからだ。ずれると、そこに誰かがいる。

「入っていいよ」

 養護教諭の声。

 白衣ではない。けれど白いカーディガン。髪を後ろでまとめていて、顔に影が少ない。影が少ない人は、何かを隠すのが上手い。

 彼女は何も言わずに、ベッドの端から少しだけ体をずらした。

 ずらした瞬間、空気が軽くなる。軽くなると床が沈む。沈む感覚が、昨夜の終末の入口に似ている。似ているのに、今は保健室だ。保健室は日常のはずだ。

 養護教諭はベッドの横に立ち、俺と彼女を交互に見た。

 視線が揺れない。揺れない視線は事務的だ。事務的な視線は、異常を異常として扱わない。扱わないのに、知っている。

「昨夜、また来たのね」

 彼女に向けた言葉。彼女は頷かない。頷かないのに肯定と同じ空気が出る。

 養護教諭は俺に目を向けた。

「君も巻き込まれた?」

 巻き込まれた、という言い方は軽い。軽い言い方で重いものを扱うと、重い方が浮く。

 俺は喉が鳴りそうになって、飲み込んだ。

「……糸が」

 言葉がそこまでしか出ない。糸、という単語の後に続ける説明が喉で潰れる。説明しようとすると、昨夜の「核」が引っかかる。引っかかった言葉は、声になる前に消える。

 養護教諭は「そう」とだけ言った。

 その「そう」は、俺の説明を必要としていない。最初から知っている側の「そう」だ。

 彼女が、右手の手袋を押さえた。

 押さえる力が少しだけ強くなる。縫い目が白く浮く。糸の線が、皮膚を縛る縄に見える。

「少しだけ見せて」

 養護教諭が言った。

 見せて、という言葉は優しい形をしている。形が優しいほど、拒否しづらい。拒否すると、その場の空気が割れる。割れた空気は継ぎ目になる。継ぎ目は終末に繋がる。

 彼女は動かなかった。

 動かないまま、左手の指が右手袋の端に触れた。端を持つ動きが、静かだ。静かすぎて、怖い。怖いという言葉は使わない。喉が乾く。息が浅くなる。指先が冷える。冷えた指先が、椅子の縁を握る。

 さら、と手袋の布が擦れる音。

 縫い目の糸が、シーツの白に触れる。触れた糸は、白の上で黒い線になる。黒い線が、図形の輪郭みたいに浮く。

 手袋が、一瞬だけずれた。

 右手首の内側。

 そこに赤いものが見えた。

 赤い刻印。

 焼けた痕の赤。火傷の赤とは違う。皮膚の下で光る赤。円があり、その円に割れ目が走っている。割れ目は一直線ではない。少しだけ歪んでいる。歪みは欠けに似ている。欠けは、俺の記憶の欠けと同じ形をしている。

 刻印が、脈打っていた。

 色が変わる。濃くなる。薄くなる。濃くなる瞬間、周囲の空気が軽くなる。軽くなると、机の上の紙がほんの少しだけ浮く。浮いた紙が、遅れて落ちる。落ちる音が、途中で欠ける。欠けたところに、ジ、と短いノイズ。

 俺の右目が焼けた。

 熱が奥で跳ねる。視界の端が白く滲む。蛍光灯の白が、燃えた空の白に重なる。喉の焦げが濃くなる。

 彼女の右手が光る。

 いや、光った記憶が吐き戻される。

 短い閃光。

 夜。割れる空。音のない裂け目。糸のような線が空を縫っている。縫い目がほどけ、光が漏れる。

 彼女が笑う。

 笑いは音がない。音がない笑いの瞬間、円の刻印が赤く脈動し、割れ目が開く。開いた割れ目の向こうに、白がある。

 白が世界を吞む。

 閃光は数秒で終わる。

 終わった瞬間、俺は椅子の肘掛けを強く掴んでいた。掴んだ手のひらが汗で湿っている。湿りが冷える。冷えが背中を撫でる。背中に汗が出る。汗が冷える。循環。

 俺は息を吐いたつもりだった。

 吐いた息が喉に引っかかり、音にならない。音にならない息は、無音の穴に吸い込まれる。吸い込まれると、現実が軽くなる。軽い現実は危ない。

 養護教諭は手袋のずれを、静かに元に戻した。

 手袋が戻ると、赤は隠れる。

 隠れたのに、赤の残像だけが俺の視界に残る。残像は、記憶を固定する。固定された記憶は、次の世界でもついてくる。

「見えた?」

 養護教諭が俺に聞いた。

 俺は頷けなかった。頷けば、それが確定になる。確定は、条件になる。

 代わりに、視線を逸らさなかった。

 逸らさないのも、ひとつの返事だ。

 養護教諭は彼女を見た。

「痛む?」

 彼女は首を横に振った。振り方が小さい。小さい否定は、否定しきれないときの動きだ。

「痛いんじゃない」

 彼女が言った。

 声が平らだ。平らな声ほど、内側が騒がしい。

「楽になる」

 その言葉の後、少しだけ間が空いた。

 間が空くと、空気が薄くなる。薄い空気は、継ぎ目を呼ぶ。継ぎ目の気配が、耳の奥を撫でる。

「だから、怖い」

 彼女が言った。

 怖い、という言葉が出たのが意外だった。彼女は普段、感情語を使わない。使わないのに、今は使った。使わざるを得ないところまで来ている。

 俺は喉が乾いた。

 言いたい言葉が一つある。

 笑わなくていい。

 昨夜も、放課後も、それを言った。言った瞬間、世界が止まりかけた。止まりかけた世界は、また動き出した。動き出したから、今がある。

 けれど、その言葉は便利すぎる。

 便利な言葉は、穴を作る。

 穴に何が入るか、俺は知っている。穴には終末が入る。

 養護教諭が口を開いた。

「これは封印じゃない」

 封印じゃない、という言い方が、封印より重い。

「器よ」

 器、という単語が落ちる。

 落ちた単語は床に当たる音がしない。音がしないのに、重さだけが残る。重さは体の中に沈む。沈むと、呼吸が浅くなる。浅くなると焦げが濃くなる。

 養護教諭は続けた。

「溢れたら終わる」

 終わる、という言葉を、彼女は日常の声で言う。

 日常の声で終末を言うと、終末が日常の延長に見える。見えると、逃げ場がなくなる。

 彼女は黙ったままだった。

 黙りの中で、右手の手袋の上から手首を押さえる。押さえる指が白い。白い指は、力が入っている証拠。証拠があるのに、言葉がない。

 俺は視線を彼女の右手から離せなかった。

 縫い目の糸。

 糸は縛る。縛るだけじゃない。縫い合わせる。縫い合わせると、割れ目が閉じる。閉じると、脈動が収まる。収まると、終わらない。

 終わらせないために、彼女は縫われている。

 養護教諭は、説明を増やさなかった。

 必要な言葉だけを落とす。落とされた言葉は、拾う側に任せる。任せられた方は、拾うしかない。

「笑いが抑制弁」

 養護教諭が言った。

 抑制弁、という機械の言葉が、彼女の体に当てはめられる。人間が機械になる。機械になると、扱いが簡単になる。簡単になると、回収班みたいなのが増える。

 喉が締まった。

 核。

 回収。

 昨日の言葉が、ここで繋がる。繋がった瞬間、俺の右目がまた熱を持つ。熱が広がると、さっきの閃光が薄く戻る。空が裂ける。音が消える。白が吞む。

 彼女は手袋を押さえるのをやめた。

 やめた途端、右手首の下で何かが動いた気がした。布の下で、赤い円が脈打つ気配。気配だけで、室内の温度が一段下がる。下がった温度が、俺の指先を冷やす。冷えた指先が、また椅子の縁を握る。

「笑うと楽になる」

 彼女が言った。

 楽になる、という言葉が、逃げに聞こえる。逃げは必要だ。必要な逃げが、世界の終わりに繋がっている。

「笑うと、軽くなる」

「軽く?」

 俺は短く返した。質問というより確認。確認をすると、現実が少しだけ固定される。

 彼女は頷いた。

「息が、通る」

 息が通るという表現が具体的で、胸が冷えた。息が通らない状態が、彼女の日常なのだと分かる。分かった途端、喉の奥がさらに乾く。乾きは彼女に引っ張られている。

「だから、怖い」

 彼女は繰り返した。

 俺は言葉を選べなかった。

 笑わなくていい、と言えば、彼女の逃げ道を塞ぐ。笑っていい、と言えば、終末を許す。どちらも選べない。選べないとき、体が勝手に選ぶ。

 養護教諭が机の上の紙を一枚取った。

 紙が擦れる音。音が途中で欠ける。欠けたところに、ジ、と短いノイズ。ノイズは糸みたいに細く、机の縁をなぞる。

「代替が必要」

 養護教諭が言った。

 代替、という言葉は冷たい。冷たい言葉が、救いの方向を示すこともある。

「抑制の代替。笑いの代わりに、別の放出口」

 放出口、という単語が、彼女の体を機械にする。けれど、機械なら手段がある。手段があるなら、動ける。

 動ける、という感覚が胸の奥に刺さった。

 刺さった感覚は、俺の右目の熱と重なる。熱が、さっきより確かな形を持つ。形を持つ熱は、何かの役割を持っているように感じる。

 養護教諭は俺を見た。

 見る目が、観察の目だった。生徒を見る目ではない。部品を見る目でもない。役割を見る目。

「君、右目」

 右目、という単語を言われるだけで、眼球の奥がきしむ。きしみは歯車の擦れ。擦れた歯車は、噛み合う相手を探す。

「見えてるんでしょう」

 見えてる。何が、と聞き返したいのに、喉が締まる。締まるのは、答えを言葉にしたくないからだ。答えは固定になる。固定は終わり方を増やす。

 俺は黙った。

 黙りは肯定に近い。

 養護教諭はそれ以上聞かなかった。必要なのは説明じゃない。必要なのは、次の一手だけだ。

「君のそれが、代替になる可能性がある」

 可能性という言葉が、少しだけ柔らかい。

 柔らかい言葉の中に、鋭い刃がある。可能性に縋るしかない、という刃。

 彼女が俺を見た。

 目が、少しだけ揺れている。揺れの中に、疑いではなく期待が混じっている。混じっているのが分かるのは、俺が見ているからだ。見てしまうからだ。

「……できるの?」

 彼女が言った。

 できる、と言えば条件になる。できない、と言えば終わる。

 俺は短く息を吐いた。

 吐いた息が喉を通るとき、焦げが濃くなる。焦げは記憶の味だ。記憶があるなら、やるしかない。

「分からない」

 俺はそう言った。

 分からない、は逃げではない。固定を避けるための言葉だ。固定を避けている間に、体は動ける。

 養護教諭は彼女の右手を見た。

「今日、ずっと脈が上がってる」

 脈、という言い方が、刻印の脈動と重なる。重なると、赤い円が布の下で動く気がする。気がするだけで、室内の音が薄くなる。

「その状態で笑うと、楽になる」

 養護教諭が言う。

「楽になる代わりに、溢れる」

 溢れる、という言葉が濡れて聞こえた。溢れるのは血ではない。力だ。力が溢れると、空が裂ける。白が吞む。音が消える。

 彼女は唇を噛んだ。

 噛んだ唇が白くなる。白さが、手袋の縫い目の白さと似ている。似ている白さは、耐えている証拠だ。

「笑わなければいい」

 俺は言いかけて、止めた。

 止めた瞬間、喉が乾く。言葉を止めると、空気が薄くなる。薄い空気は継ぎ目を呼ぶ。ジ、と短いノイズが耳の奥を撫でる。

 彼女は俺を見ている。

 見ている目が、さっきより近い。距離が近いと、言葉が刺さる。刺さる言葉は、彼女を壊す。壊すのは避けたい。

 俺は代わりに、視線を彼女の右手から外して、左手に移した。

 左手は素手だ。指先が少しだけ赤い。さっき手袋を触ったせいかもしれない。赤い指先は温度の証拠だ。温度があるなら、まだ人間だ。

 養護教諭が言った。

「試す?」

 試す、という言葉は軽い。軽い言葉で、世界の終わりを扱う。

 俺は返事をしなかった。

 返事をする前に、彼女が動いた。

 ベッドから降りて、一歩だけ俺に近づいた。近づくと空気が軽くなる。軽くなると床が沈む。沈む感覚が強い。強いのに、まだ穴までは行かない。彼女が笑っていないからだ。

 彼女は俺の右手を見た。

 右手の指先。昨夜の冷えの跡。汗の乾き。机の縁を握った圧で白くなった跡。

 彼女の左手が伸びる。

 伸びる動きは迷いがない。迷いがない動きほど、危ない。危ないのに、避けられない。避けたら、次がない。

 彼女の指が、俺の指先に触れた。

 触れた瞬間、温度が移った。

 彼女の指は冷たいわけじゃない。俺の指が冷えているだけだ。冷えた指に温度が触れると、皮膚が薄く感じる。薄い皮膚の下に、血がある。血があるなら現実だ。

 触れた瞬間だけ、室内の音が戻った。

 遠くの体育館の方からの声。廊下を歩く足音。時計の秒針の小さな音。音がちゃんと繋がっている。繋がった音は、継ぎ目がない証拠。

 同時に、布の下で何かが弱まった気がした。

 脈動。

 赤い円が、薄くなる。薄くなる気配。気配だけで、空気の重さが戻る。戻る重さは、終末から遠ざかる重さだ。

 彼女は、目を伏せた。

 伏せた睫毛が影を落とす。影が落ちると、彼女の顔が少しだけ普通になる。普通になると、世界が日常に戻る。

「……今」

 彼女が言った。

 言葉が途中で止まる。止まったところに、喉の乾きが混じる。乾きは、彼女も同じだ。

「少し、楽」

 彼女は短く言った。

 楽、という言葉が、今度は軽く聞こえた。軽く聞こえるのが怖い。怖いという言葉は使わない。代わりに、背中に汗が出る。汗が冷える。息が浅くなる。

 養護教諭が目を細めた。

「反応した」

 反応、という単語は冷たい。冷たいのに、希望の形をしている。

 彼女は俺の指先から手を離さなかった。

 離さない手は、縋っている手だ。縋っているのに、彼女は笑わない。笑わないことで耐えている。

 俺の右目が、微かにきしんだ。

 きしみは熱を伴わない。熱を伴わないきしみは、歯車が噛み合い始めた合図みたいだった。噛み合えば、代替になれる。代替になれれば、笑いを奪わずに済む。

 彼女の左手の指が、俺の指の関節をなぞった。

 なぞると、骨の形が分かる。骨の形が分かると、人間だと確かめられる。確かめることが、彼女の抑制になっているのかもしれない。

「……ねえ」

 彼女が言った。

 ねえ、という呼びかけは柔らかい。柔らかいのに、逃げられない。

「笑うと、楽になるの」

 彼女は繰り返した。

 繰り返すのは、確認だ。自分の中の真実を言葉にして確かめている。

「楽になると、嫌なものが薄くなる」

 嫌なもの。彼女は具体的に言わない。言わないことで固定を避けている。固定を避ける癖が、彼女にもある。

「薄くなると、息が通る」

 息が通る。さっきも言った。息が通らない日常。日常がそれなら、笑いは麻酔だ。麻酔は切れる。切れる前に追加したくなる。追加したら、溢れる。

「だから、怖い」

 彼女は三度目に言った。

 俺は、ようやく言葉を探した。

 慰めじゃない言葉。命令じゃない言葉。固定を増やさない言葉。

「……今は」

 俺はそう言って、そこで止めた。

 止めると喉が乾く。乾きは彼女の指先の温度で少しだけ和らぐ。和らぐと、言葉の形が作れる。

「今は、笑わなくていい」

 俺は言った。

 言った瞬間、世界が止まらなかった。

 止まらなかったことに、少し驚いた。驚きは胸の奥でだけ起きた。表に出すと条件になる。条件は増やしたくない。

 彼女は俺を見た。

 見て、何も言わない。何も言わないまま、指先の力が少しだけ弱まる。弱まると、布の下の脈動も弱まる気がした。

 養護教諭が言った。

「君の右目が、ただの観測じゃない可能性がある」

 観測、という単語が胸に刺さる。刺さると、昨夜の光景がまた一瞬だけ戻る。糸。式札。折れる音。無音の穴。白い終末。

 戻った映像は、今度は短い。閃光ではなく、影のような輪郭。

 俺は視線を落とした。

 彼女の指先が、俺の指を触っている。その接触が、赤い円の脈動を弱めている。弱めているなら、これは偶然じゃない。偶然ではなく、機構だ。機構なら、手順が作れる。

「手順……」

 俺の口から小さく漏れた。

 養護教諭は頷かなかった。けれど、否定もしない。否定しないのは、手順が必要だと知っているからだ。

「触れるのが鍵かもしれない」

 養護教諭が言う。

「触れ続けるのは危険もある。君の負担も増える」

 負担、という言葉が現実的だった。現実的な言葉は、少しだけ落ち着く。落ち着くと、喉の焦げが薄まる。薄まると、右目の熱も落ち着く。

 彼女は指先を離した。

 離した瞬間、空気が少しだけ軽くなる。軽くなると床が沈む。沈む感覚が戻る。戻るのが速い。速い戻りは危ない。

 彼女は右手首を、手袋の上から押さえた。

 押さえると、沈みが止まる。止まると、音が戻る。戻った音の中に、まだ薄いノイズが残っている。ノイズは消えない。消えないのが、この世界の癖だ。

「……私」

 彼女が言いかけて止まった。

 止まったところで、喉が乾く音が聞こえた気がした。実際に音がしたわけじゃない。彼女の体の反応を、俺が想像した。想像は危ない。危ないのに、目の前で起きていることは、想像に近い現象ばかりだ。

 彼女は視線を逸らさずに言った。

「笑うと、楽になる」

「うん」

 俺は短く返した。

「楽になると、嫌なものが薄くなる」

「うん」

「薄くなると……」

 彼女はそこで言葉を探すように唇を動かした。唇の乾きが見える。乾きは、言葉が詰まっている証拠だ。

「……一人じゃなくなる感じがする」

 一人じゃなくなる。

 その表現は、器の話と繋がった。器の中に、彼女だけではない何かがいる。いるから、一人じゃなくなる。なるほど、それは楽だ。楽だから怖い。

 俺は喉が鳴りそうになって、飲み込んだ。

「だから、笑いたくなる」

 彼女が言った。

 笑いたくなる、という言葉は、欲求だ。欲求は止めにくい。止めにくいものを止めようとすると、反動が来る。反動が来ると、溢れる。

 俺は言葉を削った。

「代わりを作る」

 それだけ言った。

 彼女は瞬きをした。瞬きが多い。目が乾いている。乾いているのに涙は落ちない。落ちないのは、抑えているからだ。抑える癖が、彼女の命綱になっている。

 養護教諭が机の上の紙を指で叩いた。

 叩いた音が、きちんと鳴った。鳴る音は、この瞬間の現実の強さだ。

「今日のところはここまで」

 養護教諭が言った。

「君たち、放課後は二人きりでいないで。外で会うなら、校内」

 校内、という言葉に、俺は昨夜落ちた金属片を思い出す。校章に似た意匠。学園内部に内通者。内側から消される歴史。空棚。

 喉が締まった。

 言えない。言おうとすると、言葉が潰れる。潰れるのは、記憶の縛り。縛りがあるなら、別の形で伝えるしかない。

 俺は椅子から立ち上がった。

 立ち上がると、彼女も立ち上がった。彼女が立ち上がると空気が軽くなる。軽くなると床が沈む。沈みが、さっきより小さい。小さい沈みは、抑制が効いている証拠だ。

 彼女は俺の方へ一歩近づいた。

 近づく距離が、さっきより慎重だ。慎重な距離は、怖さを知っている距離。

 彼女は俺の指先に、もう一度触れた。

 触れた瞬間だけ、布の下の脈動が弱まる気配がした。弱まる気配と同時に、俺の右目の熱が少しだけ落ち着く。落ち着く熱は、役割を受け入れている熱だ。

 彼女は小さく言った。

「……また、来る?」

 来る、という言葉は、次を求める言葉だ。次を求めるのは生きるためだ。生きるための次が、世界の終わりに繋がっている。

 俺は言葉を選んだ。

 肯定は固定になる。否定は嘘になる。嘘は彼女の手を離す。

 だから、事実だけ。

「必要なら」

 必要なら、という言葉は条件になる。条件は危ない。危ないのに、条件がなければ動けない。動けなければ、回収班が来る。回収班が来れば、彼女は回収される。回収されれば、終末は別の形で来る。

 彼女は頷いた。

 頷きは小さい。小さい頷きは、まだ揺れている証拠だ。

 その瞬間、彼女の口角が、ほんの少しだけ動いた。

 笑いかける動き。

 俺の背中に冷たい汗が走った。

 汗が走ると、右目がきしむ。きしみが熱を呼びそうになる。呼びそうになる熱を、俺は指先の感覚で押さえた。彼女の指先の温度。皮膚の薄さ。触れている現実。

 彼女の笑いは、途中で止まった。

 止まって、彼女は息を吐いた。吐いた息が、ちゃんと音になる。音になる息は、まだ継ぎ目が開いていない証拠だ。

 養護教諭がカーテンを引いた。

 さら、と布が動く音。音が欠けない。欠けない音は、今この瞬間だけの安定だ。

 俺はドアノブに手をかけた。

 金属が冷たい。冷たい金属は現実の重さだ。重さを確かめるように握ると、彼女が背後で小さく言った。

「笑うと、楽になる」

 また、繰り返す。

 繰り返すのは、戒めだ。自分の中の危険を言葉にして、外に置こうとしている。

 俺は振り返らずに答えた。

「代わりを作る」

 それだけ。

 ドアを開けると、廊下の空気が少しだけ温かかった。温かさがあるのに、喉の奥の焦げは消えない。焦げは、終末の予告だ。

 背後で、彼女の手袋の縫い目が擦れる音がした。

 さら、さら。

 糸の音。

 糸は縛る。縛るのに、今は縋りでもある。

 俺は廊下へ出た。

 出た瞬間、遠くの部活の声が少し遅れて届いた。遅れの中に、ジ、と短いノイズが混じる。ノイズは消えない。消えないなら、手順が要る。

 代替の手順。

 笑い以外の放出口。

 そして、俺の右目が、その弁になれるかもしれない。

 右目の奥が、静かにきしんだ。

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