第7話「回収される“核”」
夜の帰り道は、昼間よりも輪郭がはっきりしている。
街灯の白、アスファルトの黒、看板の光。色の差が単純で、目に入る情報が少ない。少ないほど、欠けが目立つ。欠けは、いつも音から来る。
俺は駅から住宅街へ入る角で、一度立ち止まった。
車の音が遠い。遠いのに、遠さが不自然だ。距離があるから遠いのではなく、音が途中で抜け落ちたような遠さ。遠さの手前に、薄い膜がある。放送室で感じた、あの膜。
右目がきしんだ。
眼球の奥に歯車があるみたいに、ギ、と小さく擦れる感覚。擦れたところが熱を持つ。熱が広がると、喉の奥に焦げが戻ってくる。焦げはこの街の匂いじゃない。夜の空気は冷たいだけで、燃える匂いはない。それでも、俺の内側にはある。
視線が増えている。
増えていると分かるのは、見られているからじゃない。影が増えるからだ。街灯の下に立つと、俺の影が一つ増える。増えた影は俺の動きより少し遅い。遅れた影は、ついてくるのではなく、引っ張る。
俺は歩き出した。歩幅は変えない。変えると、追いかける側が答え合わせをする。答え合わせをさせたくない。させたくないのに、足元の空気が重い。
冷える。
首筋が冷える。冷えが衣服の中へ滑り込む。滑り込んだ冷えが背中を撫でて、汗を引き出す。汗が出ると、さらに冷える。冷えの循環は、終わりの前と同じだ。
次の街灯の下で、音がもう一段落ちた。
遠くの車の音だけじゃない。自分の靴音も薄い。靴底が地面を叩く感触だけが残り、音が遅れてついてくる。遅れの中に、ジ、と短いノイズが混じる。耳に刺さらない薄さで、確実に残る種類のノイズ。
俺は右手をポケットに入れた。
スマホを掴むためじゃない。手を握って、指の動きを止めるためだ。指が勝手に動くと、選択が増える。選択が増えると、終わり方が増える。俺は四つ目の終わり方をまだ書けないままでいる。増やしたくない。
街灯の白が途切れた瞬間、足首に冷たいものが触れた。
触れたのは風ではない。風なら毛が立つ。これは滑る。皮膚の上を細いものが滑る。薄い金属か、濡れた糸か。糸にしか思えない。
俺は叫ばなかった。
叫べなかった。
喉が鳴らない。喉の奥が乾いて、音の出口が塞がる。唾が飲めない。息が胸の上で止まる。止まった息が熱くなる。熱くなると焦げが濃くなる。
糸はくるぶしに絡んだ。
一巻き。二巻き。
巻かれるたびに、皮膚が締め付けられるのではなく、温度が奪われる。冷たさが足首から膝へ上がっていく。冷えが上がると、足が自分のものではなくなる。自分のものではなくなると、動けない。
俺は足元を見た。
暗いアスファルトの上に、細い線が走っている。白くも黒くもない。光を拾わない線。線があるのに、そこに「もの」が見えない。見えない線が、俺の足首から道路脇の影へ伸びている。
影が、増えている。
影の中に、人がいる気配がいくつも重なっている。気配が重なっているのに、足音がしない。足音がしない人間は、人間じゃないか、あるいは人間のふりが上手い。
「動くな」
声がした。
声は低い。低いのに感情がない。感情がない声は命令を命令として扱う。扱われると、体が従う。従うことに慣れると、戻れない。
俺は歯を食いしばった。
食いしばった歯の奥が痛い。痛みがあると現実に縫い止められる。縫い止められる感覚は嫌いじゃない。嫌いじゃないことが、もう危ない。
糸がもう一本伸びた。
今度は膝の裏へ絡む。肌の上を冷たいものが滑る。滑りながら、皮膚に薄い痕を残す。痕が残ると、そこが次に狙われる。狙われた場所は、次の世界でも痛むことがある。
俺は声を出そうとして、出せなかった。
喉が乾きすぎて、言葉の形が作れない。代わりに、息が漏れた。漏れた息は音にならない。音にならない息は、無音の穴に吸い込まれる。
影から、人が出てきた。
スーツ姿が二人。顔が覚えられない。覚えられない顔は特徴がないのではなく、特徴が滑る。目が止まらない。止まらないから、脳が記録できない。
その二人の間に、もう一人。
制服に似た上着。学園のものではない。紺色の布が、街灯の白に薄く照らされている。胸元に小さな札が揺れている。紙の札。式札みたいなもの。札の端に、見覚えのある図形がある。
校章に似た意匠。
俺の右目が熱くなった。
熱が来ると、世界が一瞬だけ色を変える。白が増える。黒が深くなる。線が浮く。浮いた線は図形になる。図形は印になる。印は、縛る。
男が近づいてきた。
近づく距離が正確だ。二歩で止まる。二歩は、手が届く距離。届く距離で止まるのは、相手が逃げられないことを知っているからだ。
「回収班だ」
男が言った。
名乗りというより、分類。分類は人を物にする。物にされると、寒い。
「核が目覚める前に回収する」
核、という言葉が耳に入った瞬間、喉が締まった。
締まったのは恐怖ではない。もっと直接的な拘束だ。言葉が喉の内側から引っ張られて、音になる前に潰れる。核が何を指すか、頭は理解している。理解しているのに、それを口に出せない。出した瞬間に、何かが壊れる気がした。
彼女。
その単語が頭の中で浮かぶだけで、右目が焼けた。熱い針が、思い出すな、と刺す。刺されると、記憶の扉が閉じる。閉じた扉の向こうに、終末の白がある。
男は俺を見た。
次に、俺の右目を見た。
右目を見られると、奥の熱が増す。増す熱が、吐き気を引き上げる。胃が重い。喉が熱い。唾が飲めない。指先が冷える。冷えた指先が、ポケットの中で拳を作る。
「抵抗は不要だ」
男が言った。
不要、という言葉は冷たい。冷たい言葉は、相手を人間として扱わない。
俺は足を動かそうとした。
動かない。
糸が足首と膝を固定している。固定は力ではない。糸が皮膚の上にあるだけなのに、骨の中まで縛られている感覚がある。糸は現実に見えるのに、現実の法則でほどけない。
式だ。
式札の端が揺れるたび、空気の密度が変わる。変わった密度が、俺の呼吸を押さえる。押さえられると、息が浅くなる。浅い息は、焦げの匂いを濃くする。
男が手を伸ばした。
手の動きは早くない。早くないのに、避けられない。避けられないのは、俺が縛られているからじゃない。世界が男の手を正しいと判定しているからだ。
そのとき、風が一段遅れて届いた。
夜風が頬を撫でる。撫でた風が、次の瞬間にもう一度撫でる。風が二重になる。二重になったところに、薄いノイズが混じる。ジ、と短い。
街灯の光が少しだけ揺れた。
揺れたのは電気のせいではない。空気が揺れた。空気が揺れると、音が遅れる。遅れた音の向こうに、別の足音がある。
足音は小さい。
小さいのに、周囲の音が黙る。黙るのは、音が消えたのではない。音が彼女の側に従ったからだ。従う音は、遅れてしか届かない。
彼女がいた。
街灯の外側、影の境界に立っている。立っているだけで空気が軽くなる。軽くなると床が沈む。沈む感覚が、終末の入口に似ている。似ているのに、今は終末ではない。彼女が立っているからだ。
黒い手袋の右手。
彼女はその右手首を、手袋の上から押さえていた。押さえる指が白い。力が入っている。力が入っているのに、顔は動かない。
無表情。
笑わない。
笑わない彼女は、昼間の彼女より危うい。危ういのに、止めたいという衝動が先に来る。衝動が来ると、喉が乾く。乾きが増す。
「離して」
彼女が言った。
声は小さい。小さいのに、空気が従う。従った空気が、男たちの肩をわずかに沈める。沈められた肩は、息を一瞬止める。止めた息が、彼女を見た。
男たちの目が揺れた。
揺れたのは恐怖ではない。計算が崩れた揺れ。計算で動く者は、計算外に弱い。
「関係ない」
回収班の男が言った。
関係ない、という言葉は切り捨てる。切り捨てる言葉の刃は、対象を物として扱う。
「核は回収する」
核、という単語がもう一度出た瞬間、俺の喉がまた締まった。締まりは、声を殺す。殺された声は、言葉にならない。言葉にならないまま、胃が熱くなる。
彼女は動いた。
動いた、と認識したときには、すでに男の体がずれていた。
折れた音がした。
乾いた音。骨が折れた音か、空気が裂けた音か。判別できない短さ。短い音の後に、遅れて男のうめき声が来た。うめき声は途中で途切れた。途切れたところに無音の穴が空く。穴の向こうから、遅れてうめき声が戻る。戻った声は、少しだけ高い。
世界が二重になっている。
彼女の動きは速さではない。速いと音がつく。彼女の動きは、音を置き去りにする。置き去りにされた音は、遅れて追いかける。追いかける音は、ノイズに混じる。
もう一人の男が構えた。
構える前に、彼女の指先が空気を切った。切った瞬間、男の足が沈む。沈んだ足は動けない。動けない体は、次の瞬間に倒れる。倒れる音が遅れて来る。遅れて来た音が、また途中で欠ける。
欠ける音は、終末の予告だ。
彼女は笑わないまま、右手首を押さえている。
押さえているのに、暴力は止まらない。止まらない暴力は美しい。美しいのに、見てはいけないものに見える。見てはいけないものほど、目が離れない。
回収班の男が、式札をひるがえした。
紙が空気を切る音。音が途切れる。途切れたところに、冷たい糸が増える。糸が地面から立ち上がり、蜘蛛の巣みたいに空間を切り分ける。切り分けられた空間は図形になる。図形が重なると、足元が沈む。沈む感覚が強くなる。
糸が彼女にも伸びた。
伸びたはずなのに、糸は途中で止まった。止まった糸が、空中で震える。震えた糸が、ぷつ、と短い音を立てて切れた。切れた音は遅れて来る。遅れて来た音はノイズに混じる。
彼女はそのまま一歩踏み込んだ。
踏み込むと、男の式札が揺れた。揺れた札の端が燃えたように黒ずむ。焦げの匂いが、俺の喉の奥の焦げと重なる。重なる焦げは、世界の記憶を引き出す。
男の手が止まった。
止まった手の指が、不自然に開く。開いた指の間から、式札が落ちそうになる。落ちる前に、彼女の手が男の手首に触れた。
触れたのは左手だった。
右手は押さえたまま。押さえる右手は封印だ。封印を外せば、抑制が外れる。抑制が外れると、笑いが来る。笑いが来ると、終わる。
終わるのは、世界。
その記憶が、俺の背中を冷やした。
俺は言葉を出そうとした。
殺すな。
止めろ。
そのどちらも言ってはいけないと、体が知っている。言えば彼女が壊れる。壊れるのは彼女か、世界か。どちらにせよ、戻れない。
喉が締まる。
声が出ない。
代わりに、足だけが動いた。
糸が絡んでいるのに、一歩だけ前に出る。前に出た瞬間、足首の糸がきしむ。きしんだ糸が皮膚に食い込む。痛みが走る。痛みが走ると現実になる。現実になった俺の一歩は、彼女の視線を引く。
彼女が俺を見た。
無表情のまま、目だけが動く。目の動きが、何かを確かめるように俺の顔をなぞる。なぞられると、俺はそこで固定される。
固定された俺は、言葉ではなく動きで選ぶ。
俺は彼女の視界に入る位置へ、もう半歩寄った。
彼女の視線が、回収班の男から俺へずれる。
ずれた瞬間、男の体が地面に落ちた。落ちる音が遅れて来る。遅れて来た音が、今度は途切れなかった。途切れない音は、まだ終末ではない証拠だ。
彼女は男を見下ろしている。
見下ろす目は冷たい。冷たいのに、手袋を押さえる指が震えている。震えが小さい。小さい震えが危ない。小さい震えの向こうに、大きい崩れがある。
回収班の男は歯を食いしばっていた。
歯の隙間から、低い声が漏れる。
「回収は失敗だ」
男が言った。
失敗、という言葉は処理だ。処理する言葉は、次の手順を呼ぶ。
「だが、印は残る」
印。
その言葉が、資料室の空棚のラベルと結びついた。ラベルは印だ。印は残る。残った印だけが、世界の上書きの痕になる。
男はポケットに手を入れた。
入れた手が何かを掴んだ。掴んだものが、彼女の目に入る前に、男はそれを地面に落とした。
小さな金属片。
街灯の白を拾って一瞬だけ光る。光った表面に、刻印がある。丸い線。交差する直線。校章に似た意匠。意匠が図形に見える。図形が印に見える。印が、校内のどこかと繋がっている気がした。
俺の右目が熱くなった。
熱が来ると、図形が濃く見える。濃く見える図形は、空間の位置を指す。指された位置が、頭の中で勝手に「資料室の空棚」と重なる。空棚は、消された歴史。消された歴史は、内側から消された。外から消すなら、痕が残る。内側から消すなら、空白が最初からあったように見える。
男は体を引きずり、影へ滑り込むように後退した。
後退する動きが、人混みへ紛れる動きではない。影へ戻る動き。影が増え、男を飲み込む。飲み込む瞬間、車の音が一度だけ遠のく。遠のいた音の中に、ジ、と短いノイズ。
男は消えた。
消えたというより、そこにいなかったことにされた感覚。街は何事もなかったように続いている。遠くの犬の鳴き声。自転車のベル。コンビニの自動ドア。音は戻る。戻るのに、少し遅い。遅れが残る。
糸が、俺の足首からほどけた。
ほどけるのに、糸が見えない。見えないまま、冷たさだけが消える。消えた冷たさの跡に、痛みが残る。痛みは現実の証拠だ。証拠が残るなら、今は夢じゃない。
俺は膝に手をついた。
息が戻る。戻った息が痛い。喉が焼けたみたいに熱い。焦げが濃い。吐き気が、ようやく引く。引いたところに、冷たい汗が残る。
彼女は俺の前に立っていた。
無表情のまま、右手首を押さえている。押さえた指の白さが少しだけ戻る。戻る白さが、まだ危ないことを示している。押さえる力が弱まると、封印が緩む。緩むと、笑いが来る。
俺は金属片を見た。
地面に落ちた小さな欠片。校章に似た意匠。夜の光の中で、嘘みたいに綺麗だ。綺麗なものほど、罠だ。
俺はそれを拾おうとして、止めた。
拾うと固定される。固定されれば、次の世界でもここで拾う。拾う行為が、何かの条件になる。条件になることは避けたい。
彼女が、金属片の方へ視線を落とした。
視線が落ちた瞬間、彼女の右手の手袋が微かに震えた。震えが、縫い目の線を浮かび上がらせる。糸の線。糸の線が、金属片の刻印の線と重なる。重なった線が、一瞬だけ繋がって見えた。
俺の右目が焼けた。
熱い針が奥から外へ押し出す。視界の端が白く滲む。焼けた空の白が、街灯の白に混じる。喉の焦げがさらに濃くなる。
彼女が、俺を見た。
そして、ほんの少しだけ笑った。
音のない笑い。
その笑いの瞬間、空気が軽くなる。軽くなると床が沈む。沈む感覚が強くなる。強くなる沈みは、終末の入口の沈みだ。
俺の背中に冷たい汗が走った。
汗が走ると、体が勝手に一歩引きそうになる。引くと、彼女は追う。追われると、もっと終わりが近づく。
右目が焼ける。
焼ける痛みの中で、俺は選択だけを残す。
止める。
止めない。
止めたいのに、言葉が出ない。出すと彼女が壊れる記憶が疼く。疼く記憶は、喉を縛る。
だから俺は、言葉ではなく手を伸ばした。
伸ばしたのは彼女の右手へではない。
右手に触れたら、封印に触れる。封印に触れたら、抑制が外れる。外れたら終わる。
俺は彼女の左手の袖を、指先でつまんだ。
つまむだけ。
引っ張らない。
つまんだ袖の布は温かい。温かさが現実だ。現実の温かさが、沈みそうな床を少しだけ戻す。戻ると、音が少しだけ戻る。戻った音の中に、まだノイズが残る。
彼女の笑いが止まった。
止まった瞬間、彼女の目がわずかに揺れた。揺れは短い。短い揺れは、危うさの証拠だ。
「……大丈夫」
彼女が言った。
大丈夫という言葉は便利だ。便利な言葉は穴を作る。穴は埋まる。埋まるとき、都合のいいものが入る。
俺は答えなかった。
答えれば固定される。
彼女は袖をつままれたまま、右手首を押さえる指にもう一度力を入れた。指が白い。白さが戻る。戻った白さが、危機を先送りにしている。
彼女が小さく言った。
「帰ろ」
帰る、という言葉は日常の言葉のはずなのに、彼女が言うと命令になる。命令は、世界を動かす。
俺は頷いた。
頷くと、喉の焦げが少しだけ薄まる気がした。薄まる気がする瞬間がいちばん危ない。油断するからだ。
俺たちは歩き出した。
歩き出した途端、街の音がまた一段遅れた。遅れの中に、ジ、と短いノイズが混じる。ノイズは糸みたいに細く、確実に残る。
地面の金属片は、まだそこにある。
拾わないままにした。
拾わない選択は、逃げではない。固定を避けるための選択だ。けれど、拾わないことで別の固定が生まれる可能性もある。
彼女の背中は小さく見えた。
さっきまで男たちを折っていた背中なのに、今は制服の背中だ。制服の背中の右側だけが、黒く沈んでいる。手袋の黒。黒は穴に見える。穴は、世界の底に繋がっている。
彼女が振り返らずに言った。
「さっきの人たち、また来る」
断定。断定は、彼女にしては珍しい。
俺は喉が締まった。返事をしようとすると、言葉が喉の内側で潰れる。潰れるのは、核という言葉のせいだ。核の正体を口に出したら、何かが壊れる。
彼女が、歩きながら小さく笑った。
音のない笑い。
笑いの瞬間、俺の右目が焼けた。
熱い針が奥で跳ねる。視界の端が白く滲む。喉の奥の焦げが濃くなる。背中の汗が冷える。冷えが、終末の入口の冷えに似ている。
俺は心の中でだけ繰り返した。
核。
回収。
校章に似た刻印。
学園の中に、誰かがいる。
言葉にしない。
言葉にした瞬間に、次の終わり方が増えるからだ。
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