第5話「欠けている“第四の終わり方”」

 夜になると、学校の匂いが家までついてくる。

 制服を脱いでも、指先のどこかに紙の匂いが残る。ワックスの甘い刺激が鼻の奥に引っかかる。洗っても落ちない薄い汚れみたいに、今日の音が耳に残る。放送のノイズ。鍵の音。資料室の無音の穴。

 それらに混ざって、焦げがある。

 焦げは、家の中にないはずの匂いだ。キッチンは使っていない。トースターも回していない。なのに、喉の奥に焦げが貼りついている。息を吸うたびに、その焦げが肺の奥に落ちていく。

 俺は机にノートを開いた。

 白い紙。黒い罫線。シャーペンの芯。現実の道具。現実の道具は、手触りで俺を支える。支えるのに、紙の白さが怖い。白すぎると、そこに何でも書ける。何でも書けるから、何でも消せる。

 ノートの一ページ目に、俺はすでに書いてある。

 一回目。

 二回目。

 三回目。

 数字と短い単語だけ。文章にすると、喉が詰まるからだ。文章にすると、世界が固定される。固定された世界は、終わり方も固定する。終わり方が固定すると、次の終わりが早く来る。

 俺はペン先を紙に置いた。

 紙が、ほんの少しだけ湿っている気がした。指先が吸い付く。今日、資料室で見た棚の空白が頭に浮かぶ。空白は綺麗すぎた。綺麗すぎる空白は、誰かが整えた跡だ。

 一回目の欄には、こう書いてある。

 学園消失。

 文字は四つ。なのに、その四つの裏側に音がない。音がない世界がぶつかってくる。声が消える。机が消える。人が消える。残るのは俺の呼吸だけ。呼吸だけがうるさい。

 二回目。

 都市焼失。

 焦げの匂い。熱で乾く目。赤い空。落ちてくる光。叫び声の形。叫び声が途中で途切れる。途切れたところに無音の穴が空く。

 三回目。

 彼女が笑って終わる。

 笑顔。音のない笑い。右手の赤い脈動。空が割れる線。線が図形になる。図形が重なり、世界の順番が崩れる。

 俺は、そこまで書いて、ペンを止めた。

 止めたまま、ノートの余白を見た。

 余白がある。

 余白が、気持ち悪い。

 終わり方は三つじゃない。

 そういう確信だけがある。

 確信の根拠は言葉にならない。言葉にしようとすると、喉の奥の焦げが濃くなる。右目の奥が熱くなる。頭の中で何かが削られる。

 俺は四つ目の欄を作った。

 四回目。

 そこに、何も書けない。

 書けないのは思い出せないからじゃない。思い出そうとすると、体が拒む。拒むのは恐怖ではない。恐怖なら、まだ扱える。これは拒絶だ。思考の入り口で扉を閉められる感覚。

 俺はペン先を紙に押し当てた。

 芯が折れそうになるほど力を入れた。力を入れて、痛みで現実に固定しようとした。痛みは便利だ。便利なものほど、奪われる。

 右目が疼いた。

 熱い針が、眼球の奥から外へ向かって押し出してくる。視界の端が白く滲む。蛍光灯の白ではない。焼けた空の白だ。

 俺は目を閉じた。

 閉じたまま、四つ目の終わり方を掴もうとした。

 何かがあった。

 音。

 匂い。

 誰かの名前。

 手袋の右手が光るより前に、別の終わりがあった。

 終わり方の入口だけがある。

 入口の手前で、床が抜ける。

 俺の胃がひっくり返った。喉が熱い。唾が飲めない。息が浅くなり、胸の上で止まる。指先が冷える。冷えるのに、右目だけが燃える。

 吐き気が来た。

 机の端を掴む。木の角が掌に食い込む。掌の痛みで、吐き気の波を止めようとする。止まらない。

 俺は椅子から立ち上がって、洗面所へ向かった。

 足元が少し遅れる。自分の影が、わずかに遅れて動く。遅れのせいで、廊下が長く感じる。長い廊下は、終末へつながっている気がする。

 洗面台に手をついた。

 冷たい陶器が、掌に貼りつく。貼りついた瞬間、背中に冷たい汗が出た。汗は冷える。冷えると現実が固くなる。固くなるのに、吐き気は消えない。

 鏡の中で、俺の右目が少し赤いのが見えた。赤いのは充血だと思いたい。思いたいだけで終わらない。

 俺は蛇口をひねった。水の音。水の冷たさ。水の匂い。水は現実だ。現実は冷たい。

 口をすすぐと、焦げが少し薄まった。薄まったところに、別の匂いが混じる。紙の焦げ。燃えた紙の匂い。資料室の空棚が頭に浮かぶ。空棚のラベルだけが残る。残るラベルは、燃えた紙の匂いを知らない顔をしていた。

 俺は鏡に映る自分に、何も言わなかった。

 言えば固定される。

 固定されれば、次が来る。

 それから数分後、スマホが震えた。

 画面に表示されたのは日比谷の名前だった。出たくない。出ない理由を考えるより先に、指が勝手に出てしまう。こういうところが俺の弱さだ。

「もしもし」

「お前、今どこ」

 日比谷の声は、外だった。風の音が混ざっている。車の音。人の声。夜の街の音。

「家」

「今からちょっと来いよ。駅前。やばいの見た」

 やばい、という言葉の雑さが逆に怖い。雑な言葉で覆ったものの中身が重い。

「……行けない」

「いいから。マジで」

 日比谷は切って、位置情報だけ送ってきた。

 俺は息を吐いた。吐いた息が途中で止まった。喉の焦げが濃くなる。行かない選択肢が、頭の中で薄くなる。薄くなるのは、俺の意思が弱いからではない。世界が寄せてくるからだ。

 俺は上着を掴んで外へ出た。

 夜の空気は冷たい。冷たい空気が肺に入ると、焦げが少しだけ薄まる。薄まった瞬間が、危ない。油断する。

 駅前へ向かう道は明るかった。コンビニの光。街灯の光。車のヘッドライト。光が多いのに、俺の目には白が混じる。焼けた空の白が、街灯の白に重なる。

 日比谷は駅前の自販機の前にいた。缶コーヒーを持っている。指先が赤い。寒さで赤いのか、別の理由で赤いのか分からない。

「遅い」

「……何を見た」

 俺は距離を詰めすぎないように、二歩分離れて止まった。二歩は、逃げる余地だ。逃げる余地は、最後の保険だ。

 日比谷は顎で道路の方を示した。

「さっき、変なやつがいた。スーツみたいな格好で、ずっとこっち見てて。俺が気づいたら、消えた」

 消えた、という言葉に、背中が冷える。消えるのは、学園だけじゃない。

 俺は道路の向こうを見た。人は多い。学生。会社員。買い物袋。誰もが自分の目的だけを持って歩いている。そこに混ざる異物は、見つけにくい。見つけにくい異物ほど危ない。

 右目が微かに疼いた。

 疼いた方向に、視線が引かれる。引かれた先で、ビルの影が一つだけ濃く見えた。影が濃いのは照明の角度だ。そう思いたい。思いたいだけで、影は動く。

 影が、滑るようにこちらへ寄る。

 人の流れに逆らわず、逆らうように。

 俺は喉が乾く。唾が飲めない。指先が冷える。冷えると、竹刀のざらつきの記憶が戻る。現実の痛みがあると、現実に縛りつけられる。縛りつけられると、逃げるのが遅れる。

「日比谷、帰れ」

「は?」

「今すぐ」

 説明をしたくない。説明すると世界が固定される。固定されたら、ここが終わりの場所になる。

 日比谷は俺の声の低さに一瞬固まり、次に笑った。

「何だよそれ。お前、急に」

 笑い声の途中で、音が途切れた。

 日比谷の笑い声が、途中で切れて無音の穴になる。穴の向こうから、遅れて笑い声が戻る。戻った笑い声は、別の音色になっている気がした。違う日比谷の声。違う世界の音。

 俺の背中に冷たい汗が走った。

 影が近い。

 影の中から、男が一人出てきた。背の高さは普通。服装も普通。顔は、覚えられない。覚えられない顔ほど、目が離せない。目が離せないのに、特徴が掴めない。

 男は俺の前で立ち止まった。

 距離は三歩。近い。

 男の目が俺を見る。次に日比谷を見る。視線の移動が滑らかすぎる。人間の目の動きには、微妙な迷いがある。迷いがない目は、カメラに似ている。

「矢野蓮」

 男が俺の名前を呼んだ。

 呼ばれた瞬間、右目が焼けた。熱い針が奥から外へ押し出す。視界の端が白く滲む。焦げが濃くなる。吐き気が来る。喉が塞がる。息が浅い。胸が詰まる。

 男は腕を伸ばしてきた。伸ばす動作が無駄なく短い。掴む位置が正確。狙いは俺の手首。手首を取られると、体が引けない。引けないと、連れて行かれる。

 俺は反射で手を引いた。引いたはずなのに、足が遅れる。影が足首に貼りつくように絡む。糸だ。糸みたいなものが床から伸びている錯覚。錯覚でも、体が動けない。

 日比谷が叫んだ。

「おい、何だよ!」

 叫び声は途切れなかった。途切れなかったのが逆に不自然だった。叫び声が途切れない世界は、終わりの前の世界じゃない。終わりの世界では、音が切れる。

 男が俺の肩に手を置いた。

 手は冷たい。金属みたいに冷たい。冷たいのに、触れられたところだけ熱くなる。熱くなると、焦げの匂いが強くなる。強くなる焦げは、記憶を呼ぶ。

 俺は男の手を振り払おうとした。手が動かない。肩が重い。重さが糸に引かれているみたいだ。

「動くな」

 男が言った。声は低い。低いのに、感情がない。感情がない声は、命令を命令として扱う。扱われると、体が従う。

 終わる。

 そんな確信が、体に先に来た。確信が来ると、右目がさらに痛む。痛みは、選択を迫る。

 ここで止めるか。

 止めないか。

 止めないなら、終わる。

 終わり方がまた一つ増える。

 四つ目が、ここなのか。

 その瞬間、胃がまたひっくり返った。吐き気が喉まで上がる。俺は歯を食いしばった。口から出したら、固定される。固定されたら、この終わり方が四つ目として刻まれる。

 男が俺を引いた。

 引かれる力は強くない。強くないのに、抗えない。抗えないのは、力の問題じゃない。世界が男の側に傾いている。

 そのとき、空気が変わった。

 音が遅れる。

 街の喧騒が一瞬遅れて聞こえる。車の音が遠くなる。人の話し声が薄くなる。無音の穴が開く直前の、あの膜。

 男の動きが止まった。

 止まったのは男の意思ではない。空気の圧が変わったせいだ。重力の向きが、ほんのわずかに変わる。足元が沈む。沈むのに、空気が軽い。

 彼女がいた。

 いつ、どこから現れたのか分からない。分からないのに、彼女の存在だけは確かだ。確かすぎる。

 黒い手袋の右手。夜の街の光の中で、黒が一点、はっきり見える。彼女の視線は男に向いている。男の目が、初めて迷った。迷いが生まれた瞬間、男は人間に見えた。

「離して」

 彼女が言った。

 言葉は短い。声は小さい。小さいのに、空気が従う。従う空気は、男の指を緩ませる。

 男は一瞬、笑ったように見えた。口角が上がるだけ。目は笑っていない。目が笑わない笑いは、仮面だ。

「回収するだけだ」

 男が言う。回収、という言葉が、人間に使う言葉ではない。物に使う言葉だ。物として扱われると、背中が冷える。背中が冷えると、焦げが濃くなる。

 彼女は、右手を少しだけ持ち上げた。

 その動きが、静かすぎた。

 速いのではない。速いと音がつく。彼女の動きには音がない。音がない動きは、見える前に終わる。

 次の瞬間、男の腕が弾かれた。

 弾かれた音がない。音がないまま、男の体だけが後ろへ飛ぶ。靴がアスファルトを擦って火花が散る。火花の音も遅れる。遅れて、ジ、と薄いノイズが耳に刺さった。

 俺の肩から、冷たい手が離れた。

 離れた瞬間、息が戻る。戻った息が痛い。肺が痛い。喉が痛い。喉の焦げが熱くなる。吐き気がまた来る。俺は膝に手をついた。膝が震える。震えは寒さのせいにできない。

 男は体勢を立て直した。立て直す動きが早い。早いのに、さっきより少し乱れている。乱れは、彼女が押し込んだ証拠だ。

「……最強か」

 男が呟いた。呟きは、夜の音に溶けない。溶けない言葉は、結晶みたいに残る。

 彼女は答えなかった。答えないまま、男へ一歩近づいた。

 距離が縮むと、空気がさらに軽くなる。軽くなると、俺の足元が沈む。沈む感覚が、終末の入口に似ている。似ているのに、今は終末じゃない。彼女がいるからだ。

 男が舌打ちした。

 舌打ちの音が途中で途切れた。途切れたところに無音の穴が空く。穴の向こうから、遅れて舌打ちが戻る。戻った音が少しだけ高い。世界が二重になっている。

 男はポケットに手を入れた。何かを出す動作。出す前に、彼女が右手を振った。

 振ったというより、指先が空気を切った。

 男の手が止まった。止まったまま、男の体が沈む。沈むのに、倒れない。倒れないまま、膝が折れる。折れた膝が地面に触れる直前、男の表情が歪んだ。歪んだのは痛みのせいではない。何かが縛られた顔だ。

 糸。

 俺の目には、男の周りに細い線が見えた気がした。見えた気がしただけ。けれど、男の動きがそれに縛られている。

 彼女は男の前で止まった。

 止まっただけで、男の息が乱れる。乱れる息が白く見えた。夜の冷えが、ようやくここで現実になる。

 彼女は男を見下ろし、短く言った。

「帰って」

 命令ではない。事実の決定。

 男は歯を食いしばった。歯の隙間から、低い声が漏れる。

「“核”が目覚める前に回収する」

 核。

 その言葉が耳に入った瞬間、俺の背中に冷たい汗が出た。汗がシャツに貼りつく。布が皮膚に重く当たる。重さが現実の証拠になるのに、証拠が増えるほど世界が薄くなる。

 彼女の右手の手袋が、微かに震えた。

 震えを、彼女は押さえなかった。押さえない震えは、内側の何かが動いている証拠だ。

 男は何かを噛み砕くような顔をしてから、空気の薄い穴へ滑り込むように後退した。人混みに紛れるのではない。影へ戻る。影へ戻る動きに迷いがない。

 そして、男はいなくなった。

 消えた、というより、そこにいなかったことにされた感じ。人の流れが、何事もなかったように続く。コンビニの自動ドアが開いて閉じる。車が通り過ぎる。誰も振り返らない。

 日比谷だけが、呆然と立っていた。口が開いたまま。息が止まっている。止まった息が、やっと戻る。

「……何だよ、今の」

 日比谷の声は震えていた。震えを、彼は笑いでごまかそうとする。ごまかしきれない。

「帰れ」

 俺はもう一度言った。言い方は硬い。硬くしないと、日比谷は動けない。

 日比谷は何か言い返そうとして、やめた。やめた瞬間に、彼は目を逸らした。彼女から目を逸らす速度が、人間の本能の速度だった。

 日比谷は走って消えた。走る足音が、途中で一度だけ遅れて聞こえた。遅れは短い。短いのに、俺はその遅れを見逃さない。

 残ったのは、俺と彼女だけだった。

 夜の街の光の中で、彼女の輪郭が浮く。浮くのに、現実に足がついている。彼女は現象でありながら、人間の顔をしている。その矛盾が、喉の焦げを濃くする。

 彼女は俺へ向き直った。

 笑顔が戻っていた。

 戻った笑顔は、さっきの静けさを隠す。隠す笑顔ほど危ない。危ないのに、目が離せない。

 俺の背中に冷たい汗がまた出た。汗が出る場所が、いつも同じだ。肩甲骨の間。そこが冷えると、終末の記憶が開く。

 彼女が近づく。

 距離が詰まる。

 空気が軽くなる。

 俺は一歩引きたかった。引く動作が遅れる。遅れた分だけ、彼女の声が近い。

「大丈夫?」

 彼女が言った。

 大丈夫、という言葉は便利だ。便利な言葉は、何も説明しない。説明しない言葉は、穴に似ている。穴は、後から埋まる。

 俺は答えなかった。答えられなかった。喉の奥の焦げが、言葉の出口を塞いでいる。

 彼女は少しだけ笑った。

 音のない笑い。

 笑いの瞬間、右手の手袋の縫い目が光を拾い、糸みたいに見えた。

 俺はその糸を見た。

 見た瞬間、四つ目の終わり方が喉の奥で形を取りかけた。

 形を取る前に、右目が焼けた。

 熱い針が、思い出すな、と刺す。

 思い出せない。

 思い出せないのではなく、思い出させない。

 彼女は俺に微笑みかけたまま、少しだけ首を傾けた。

 その仕草が、学園で見た笑顔と同じだった。

 同じなのに、今は夜の街だ。終わりが来るなら、ここでも来る。

 俺は背中の汗が冷えるのを感じながら、口の中で何も言わずに繰り返した。

 四つ目が、欠けている。

 欠けているのは、記憶なのか。

 それとも、世界なのか。

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