第4話「資料室の空棚」
昼休みの終わり際、生徒会から呼び出しが来た。
教室の扉の前に立っていたのは、生徒会の一年だった。名札の文字が、どこか薄く見える。薄いのは俺の目のせいかもしれない。右目の奥が、朝からずっと熱を持っている。熱いくせに、冷たい針が刺さったままみたいに、じくじくする。
「矢野先輩。会長が呼んでます」
理由は言わない。言わないところに、形がある。形のない言葉は、穴だ。穴は、後から勝手に埋まる。埋まるとき、都合のいいものが入る。
俺は教室の窓際を見た。冬の光が白い。焼けた空の白さに似ている。似ていると言葉にした瞬間、喉の奥の焦げが濃くなるから、似ていると思うだけで止めた。
廊下へ出ると、空気が一段冷える。冷えると輪郭が戻る。輪郭が戻ると、世界が本物に見える。本物に見えるのが危ない。本物に見えるものほど、次の瞬間に薄くなる。
生徒会室は校舎の奥にあった。階段を上がるたびに、靴底が床を叩く音が少し遅れて聞こえる気がする。遅れは微細だ。周囲の誰も気にしない。俺だけが、遅れの縁を指先で撫でるみたいに感じ取ってしまう。
生徒会室の前で、俺は一度だけ深く息を吸った。吸った空気は冷たいはずなのに、胸の奥で焦げの匂いに変わる。匂いは、いつも遅れてくる。遅れてくるものが本物だ、と体が覚えてしまっている。
扉を叩くと、中から「どうぞ」と声がした。
生徒会長の声は、乾いている。乾いているのに、角がない。耳に刺さらない。刺さらないものは、抜けない。
中に入ると、室内は暖かかった。暖房の風が足元を撫でる。紙とインクの匂い。ファイルの樹脂の匂い。生徒会室の匂いは、学校の中でも「管理」の匂いが濃い。
会長は机の向こうで書類を見ていた。制服の襟が整っている。目線だけを上げて、俺を見た。
見方が、観察だった。
笑いもしない。驚きもしない。敵意もない。代わりに、温度が一定。水面のように平らな目。
「矢野だね」
「……はい」
返事をすると、喉がざらつく。焦げが喉に貼りついて、声の出口を狭める。
会長はペンを置いた。ペンの先が机に触れる音が小さいのに、やけに明確に聞こえる。室内の音が整理されているからだ。余計なざわめきがない。だから、小さな音が浮く。
「君、最近、生徒会の周辺をうろうろしてる」
責める調子ではない。事実の列挙。事実の列挙は刃物に似ている。切り口が綺麗なほど、痛みが遅れてくる。
「……用事があって」
「用事は、何」
短い問い。逃げ道を作らない。
俺は言葉を探した。放送室。ノイズ。継ぎ目。手袋。右手。屋上。視線。今夜。そういう断片が頭の中で並ぶ。並んだだけで、筋肉が固くなる。息が浅くなる。言葉が喉まで上がって来て、そこで止まる。
「……分からないことがある」
それが精一杯だった。
会長は、目を細めもしない。頷きもしない。変化がないまま、机の引き出しから鍵を取り出した。鍵束ではなく、単独の一本。金属が机に触れる音がした。カチ、と乾いた音。
「資料室、行こう」
会長が立つ。立つ動作に無駄がない。手をポケットに入れない。目線は前。俺を先導する形になると、空気が「従え」と言ってくる。従う空気は、息を薄くする。
廊下へ出ると、会長の歩幅は一定だった。早くも遅くもない。一定の歩幅は、機械のように見えることがある。機械のような人間は、何かを知っている側に見える。
資料室は、図書室よりも奥まった場所にある。普段は鍵がかかっている。扉の前のプレートには「資料室」と書かれている。文字が、薄い。何度見ても薄い。薄いのは、ここにあるはずの「内容」が薄いからだ。
会長が鍵を差し込む。
鍵が鍵穴に入る音が、やけに大きい。金属が金属を擦る音。そこに、微かなジ、が混じった気がした。放送のノイズに似た音。似ていると思った瞬間、右目が疼く。熱い針が奥を引く。
会長が鍵を回す。
カチ。
その音と同時に、廊下の音が一瞬だけ薄くなった。遠くの喧騒が、水の向こうへ押しやられる。無音ではない。無音に近い穴が空く。穴は短い。短いのに、体が覚えるには十分だ。
扉が開く。
資料室の空気は冷たかった。暖房が届いていない。紙の匂いが濃いはずなのに、匂いが薄い。薄い匂いの中に、焦げが混じる。焦げは、ここにもいる。
棚が並んでいた。背の高い棚。ラベル。年度。分類。色分けされたシール。管理された世界。
その管理が、ひとつだけ破れている。
空の棚があった。
棚の一段。ラベルだけが残り、そこにあるはずの本がない。抜き取った跡もない。棚板の埃の溜まり方が均一で、最初から何も置かれていなかったみたいに見える。
空が、綺麗すぎる。
空の綺麗さは、不自然だ。
俺は棚の前で立ち止まった。目が勝手にラベルを追う。文字を読む。年度。題名。分類番号。そこにあるはずの内容を想像しようとする。でも、想像ができない。像が結ばれない。像が結べないのは、記憶が欠けているからだと体が言う。
欠けている、と言葉にしたら痛くなるから、欠けていると感じるだけで止めた。
「ここ」
会長はそれだけ言った。
説明はしない。説明しないのに、ここが重要だと分かる。分かってしまうと、胸が重くなる。重くなると息が浅くなる。浅い息は、焦げの匂いを濃くする。
そのとき、背後の空気が変わった。
扉が閉まる音がする前に、気配が入ってきた。入ってきた瞬間に、室内の温度が一度だけ下がる。下がるのに、空気が軽くなる。
彼女だった。
手袋の右手。黒い点。近づくと、世界の音が遅れる。
彼女は棚の列を抜けて、空の棚の前に立った。立っただけで、空気が静まる。静まるのに、静かではない。静けさの下で、音が溜まっていく感じ。溜まって、いつか弾ける音。
彼女は笑わなかった。
笑わない彼女を、俺は初めて見る。
笑顔がないだけで、別人に見える。別人に見えるのに、目は同じだ。澄んでいる。澄んでいる底に、冷たいものが沈んでいる。
彼女の呼吸が乱れた。
乱れると言っても、大きく息を切らすわけじゃない。胸の上下が少し早くなるだけ。けれど、その「少し」が怖い。彼女にとっての少しは、世界にとっての大きな揺れになり得る。
彼女は右手の手袋を押さえた。
押さえる指が白い。力が入っている。手袋の縫い目が、糸みたいに浮かぶ。糸の線が、棚の直線と重なる。直線は図形になる。図形は印になる。印は、何かを縛る。
俺は喉が渇いた。唾が飲めない。焦げが喉に貼りつく。
「……これ、ないね」
彼女が言った。短い言葉。確認ではなく、現実の読み上げ。
俺は返事をしなかった。返事をすると、これが「ない」ことが固定される気がした。固定された欠落は、次の終わり方の一部になる。
会長は棚のラベルを指でなぞった。指先が文字を撫でる。埃が指に付かない。付かないことが、さらに不自然だった。
「君たち、これを見に来た」
会長の声は相変わらず平らだった。
俺は息を吸った。冷たい紙の匂いが肺に入る。入ったはずなのに、焦げに変わる。焦げが変換みたいに混ざる。混ざると、ここが「前にも来た場所」になる。
前にも来た。
どの前だ。
昨日の前か。一回目の前か。二回目の前か。
頭の中で数字が並ぶと、右目が疼く。痛みが数字の順番を拒む。順番を作ると、物語が成立してしまう。物語が成立すると、終わりが近づく。
彼女は棚の前から動かなかった。動けないみたいに立ち尽くしている。立ち尽くす彼女の背中が、小さく見える。学園最強の背中なのに、小さく見える瞬間がある。
その瞬間、俺の中に「離れる」ではない選択が芽を出した。
触れたい、ではない。
近づく、だ。
近づいて、止めたい。
止めたいと言葉にしない。言葉にしなくても、体が前へ出る。足が一歩だけ動く。床が鳴る。板が軋む。音が遅れて返ってくる。遅れの中で、彼女が肩をわずかに震わせた。
俺は立ち止まった。近づきすぎると終わる。終わるのは世界か、彼女か、俺か。分からない。分からないから、止まる。
俺は空の棚を見た。
ない。
ないのに、ラベルはある。
あるのに、内容がない。
この形は、見覚えがある。放送のノイズ。切れた声。無音の穴。紙の貼りつき。影の遅れ。全部同じ形だ。欠落の形。継ぎ目の形。
俺は、思ってしまった。
世界が終わるたびに、何かが消えている。
消えるのは瓦礫や死体じゃない。もっと静かなもの。記録。歴史。誰かの名前。棚の一段分の「この世界の説明」。
終わりは巻き戻しじゃない。
上書きだ。
上書きは、元のデータを残さない。残さないから、空になる。空なのに、空だったことすら気づかれない。気づいているのは俺だけ。彼女だけ。会長だけ。
会長が、棚から手を離した。
その指先が、空中で一瞬止まる。止まった影が、わずかに遅れて止まる。遅れを、会長は気にしない。気にしないふりをしているのかもしれない。気にしないふりができる人間は、遅れを知っている。
「矢野」
会長が俺を呼んだ。呼び方は変わらない。変わらないのに、言葉の端に匂いがつく。知っている側の匂い。隠している側の匂い。
「君、二回目だろ? ここに来るの」
その一言で、資料室の空気が変わった。
音が薄くなる。棚の直線が濃くなる。ラベルの文字が浮く。空の棚が、穴ではなく入口に見える。入口の向こうに、消えたものがある気がする。
二回目。
数字が、固定された。
固定された瞬間、俺の右目の奥が焼けた。
熱い針が、奥から外へ向かって押し出してくる。視界の端が白く滲む。蛍光灯の白じゃない。焼けた空の白だ。喉の奥の焦げが急に濃くなる。唾が飲めない。息が浅い。胸が詰まる。
言葉が出ない。
否定したいのに、否定の言葉がない。肯定もできない。どちらを選んでも、次が固定される。固定されると、終わり方が一つ増える。
彼女が、空の棚の前で手袋を押さえたまま、目だけをこちらへ向けた。
笑っていない。
その目は、俺に問いかけているように見えた。
ここで、止める?
それとも、触れる?
俺は返事をしようとした。喉が動く。舌が動く。声が出ない。焦げが喉を塞ぐ。
会長の机の鍵が、会長の指の中で小さく鳴った。カチ。金属音。そこに、ジ、と薄いノイズが重なる。
右目がさらに痛む。
痛みの中で、空の棚のラベルだけがはっきり読めた。
読めたはずの文字が、次の瞬間、ひとつ欠けたように見えた。
俺は、その欠けを見たことがある。
見たことがある、と確信した瞬間、世界の輪郭がまた薄くなる。
言葉が出ないまま、俺はただ、空の棚の前に立っていた。
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