第3話「手袋の右手」

 体育館は、朝の校舎より匂いが分かりやすい。

 ワックスの甘い刺激。古い木の乾き。汗の塩。竹の粉。息が混ざって、湿った空気になる。なのに、俺の鼻の奥には焦げが残っている。ここに焦げるものはない。あるのにない匂いが、ずっと離れない。

 体育の授業は模擬戦だった。剣道の授業と言っても、部活のような礼儀作法の厳しさはない。竹刀を握って、面と胴を打ち合って、勝った負けたで笑う。俺はいつも、なるべく目立たないように列の後ろに並ぶ。

 今日は、それが許されない。

 彼女がいるからだ。

 開始の合図で、床が鳴った。体育館の板が、足音を拾って震える。震えは靴底から脛へ、脛から膝へ、膝から腹へ上がってくる。音は跳ねて、天井に当たって戻る。竹刀がぶつかる音は乾いていて、どれも同じに聞こえるはずだった。

 彼女の音だけが違った。

 速いのではない。派手でもない。なのに、相手が構えた瞬間に終わっている。相手の竹刀が動き出す前に、相手の体が崩れる。崩れる、といっても倒れるのではない。足が一歩遅れる。肩が沈む。視線が外れる。それだけで、打たれている。

 カン。

 面に当たる音が一つ。遅れて、相手の息が漏れる音がする。体育館のあちこちで同じ音がしているのに、彼女の一打だけは耳の奥に残る。金属のないはずの音が混じる。薄いノイズ。ジ、と短い。

 俺は竹刀を握りしめていた。手袋はしていない。掌の皮膚に竹のざらつきが刺さる。刺さる感触が現実の証拠になる。証拠を集めるみたいに、俺は握る力を少しだけ強めた。

「次。矢野、前」

 教師が名前を呼んだ。俺の名前だった。

 腹の奥が沈む。沈みと一緒に、右目が軽く疼いた。いつものように、熱い針で奥を突かれる感じ。俺は顔に出さないまま前へ出た。靴底が床を擦る。擦る音が、思ったより大きい。

 彼女と向かい合う距離で止まる。

 視線を上げると、彼女の面はない。模擬戦だから防具はつけない。制服ではなく体育着。黒髪がひとつに結ばれている。髪の結び目が、揺れもせずに背中に落ちている。汗は滲んでいるのに、息は乱れていない。

 彼女は竹刀を軽く持った。軽く持っているのに、竹刀の先はぶれない。ぶれないまま、俺を見ている。

 周囲の声が一段落ちた。誰もが無意識に息を止める。その止め方が揃うと、空気が変わる。体育館の音が、少しだけ遠くなる。俺の耳にだけ膜が張る。張った膜の向こうで、焦げの匂いが濃くなる。

 始めの合図が落ちた。

 俺は一歩踏み出す前に、体が固まった。固まったのは怖いからじゃない、と言い切れない。言い切ろうとしたら言葉が増える。増えた言葉が、彼女に届く。

 彼女は動かなかった。

 動かないのに、距離が詰まる。空気が薄くなる。俺の胸の上で息が止まる。止まった息のまま、彼女の竹刀が見えた。

 見えたのは竹刀の先ではない。

 彼女の右手だ。

 右手だけ、黒い手袋をしている。体育の模擬戦なのに。剣道の稽古用の手袋でもない。革に見えるほどぴったりしていて、関節の線が分かる。掌側に薄い縫い目。そこが、糸みたいに見えた。

 糸。

 放送室で見た線が頭の端で動いた。空間を切り分ける細い線。触れたら切れる線。切れたら落ちる線。

 俺がそれに意識を吸われた瞬間、彼女が踏み込んだ。

 床が一度だけ鳴った。彼女の足音は軽い。軽いのに、振動は重い。振動が俺の足首を揺らし、膝を緩ませた。

 次の瞬間、俺の竹刀が宙で弾かれた。

 痛みが掌に走る。竹のざらつきが皮膚を削る。竹刀が落ちる音がする前に、彼女の竹刀が俺の胴の横で止まっていた。止まっているのに、そこから熱が出ているように見える。

 俺は息を吐いた。吐けた息が、体育館の空気に溶けない。胸の中に戻ってくる。

「そこ」

 彼女が小さく言った。指摘ではなく、確認みたいな声。

 俺は竹刀を拾う動作に入れなかった。体がまだ遅れている。俺の影が、俺より遅い。遅い影が床に貼りついて、引きずられていく。

「はいそこまで。次」

 教師の声で、膜が破れた。周囲のざわめきが戻る。竹刀の音があちこちで鳴る。笑い声も戻る。戻ったはずなのに、俺の耳には彼女の一打の音だけが残る。乾いた打撃音の中に、ジ、と短いノイズ。

 俺は列の端へ戻った。戻る途中、喉の奥の焦げが少しだけ強くなる。体育館の匂いに焦げが混ざると、現実の境目が曖昧になる。

 授業の後半、彼女は何人と当たっても同じだった。相手が触れる前に負ける。相手の肩が落ち、足が遅れ、視線が逸れる。倒れないのに負ける。負けた側が笑ってごまかすのに、笑いの声が妙に薄い。

 終わりの合図が鳴る頃には、汗の匂いが濃くなっていた。

 皆がタオルで顔を拭き、水筒の蓋を開ける。水の音がする。床に落ちる滴の音がする。湿度が上がり、体育館の空気が少しだけ重くなる。

 俺は体育着の袖で額を拭いた。汗は出ている。出ているのに、体が熱くならない。胸の奥が冷えている。冷えたまま、右目の奥だけが熱い。

 彼女はタオルを使わなかった。

 右手だけ、手袋をしたまま。

 左手でペットボトルを持ち、口をつける。喉が動く。息が乱れない。右手は体の横に落として、指先だけがわずかに曲がっている。握っているわけでもないのに、隠す形になる。

 俺の視線がそこへ落ちる。

 落ちた瞬間、彼女が気づいた。気づき方が正確すぎる。俺の視線が動いたのを、音で拾ったみたいに。

 彼女は右手を、左腕の内側へ寄せた。手袋の甲を軽く押さえる。押さえる仕草だけが一瞬、乱れる。乱れたのは、そこが触れられたくない場所だからだ。

 俺は視線を外した。外したつもりだった。外した先で、体育館の壁に貼られた白いラインが目に入る。コートの区切りの直線。直線が妙に、図形に見えた。四角、三角、円。いつもは気にしない線が、今日は意味を持ちそうで、持たせたくなくて、目を逸らす。

「矢野」

 彼女が俺の名前を呼んだ。呼び方が、担任と同じなのに違う。呼ばれると、皮膚が薄くなる。

 俺は返事をしなかった。返事をすれば距離が縮む。返事をしなくても距離は縮む。

 彼女が近づく。床の軋みが、わずかに遅れて聞こえる。音が遅れると、体が先に身構える。身構えた分だけ筋肉が固くなる。固い体は動きが遅れる。遅れる動きは、彼女に追いつかれる。

「さっき、見てた」

 短い言葉。責めていない。事実だけを置く。

「見てない」

 俺は嘘をついた。嘘は簡単だ。簡単な嘘ほど危険だ。危険なのに、言ってしまう。

 彼女は笑わなかった。笑わないまま、右手を少しだけ持ち上げた。手袋の縫い目が光を拾う。糸が白く見える。縫い目の線が、図形の輪郭みたいに見える。意味がある線。意味のある線は、世界を切る。

「これが気になる?」

 問いかけは短い。短いのに、逃げ道がない。

 俺は喉を鳴らそうとして鳴らせなかった。唾が飲めない。焦げが濃くなる。

 手袋の奥に、何があるのか。

 それを言葉にしたくない。言葉にしたら固定される。固定されたものは、次の終わり方になる。

 彼女は右手を握った。握った瞬間、手袋の革が軋む。音が、体育館の騒がしさの中で妙に鋭い。革の軋みが、紙が焼ける前の音に似ている気がした。

 その連想が来た瞬間、俺の視界が一度だけ飛んだ。

 体育館の床が消える。代わりに、赤い光が脈打つ。脈打つのは心臓じゃない。右手だ。彼女の右手。手袋のない右手が、赤く脈動している。

 笑顔。

 彼女が笑う。

 笑うと、空が割れる。

 割れる音がない。音がないまま、光だけが走る。走った光が線になる。線が図形になる。図形が重なり、重なったところから何かが落ちる。落ちるのは瓦礫ではない。音だ。匂いだ。時間だ。順番に落ちていく。

 焦げが肺に入る。

 俺は現実へ戻った。体育館の匂い。汗。ワックス。竹。そこに、焦げ。

 右目の奥が、焼けるように痛んだ。

 俺は顔を背けた。背けたのに、彼女は見逃さない。背ける動きの遅さを拾う。

「……痛い?」

 彼女が言う。右目のことだと分かる。

「痛くない」

 また嘘をついた。嘘が重なると、体が崩れる。崩れるのは、世界の方かもしれない。

 彼女は一歩引いた。引いたのに、気配が近いまま。距離が変わっても、空気が彼女のものになっている。

「じゃあ、屋上」

 命令じゃない。予定の読み上げみたいな声。

 俺は首を振った。振ったつもりだった。実際には、微妙な動きだったかもしれない。彼女はそれを拒否と受け取らなかった。

 着替えが終わり、俺が体育館の外へ出ると、彼女はもう廊下にいた。いつ着替えたのか分からない。分からないことが増えると、現実が薄くなる。薄くなる現実の中で、焦げの匂いだけが濃くなる。

 屋上への階段は、使われていない時間が長いほど冷たい。

 コンクリの壁が冷え、手すりの金属が指先を刺す。階段の踊り場に、古い張り紙があった。紙が湿って波打っている。指で触れると、貼りつきそうな気がして触れなかった。

 扉を押すと、蝶番が鳴った。ギ、と短い音。音が鳴った瞬間だけ、世界が静かになる。静かになって、すぐ戻る。戻り方が少し遅い。

 屋上は風が強かった。冬の風。頬が刺される。制服の襟が揺れ、布が皮膚に当たる。皮膚が冷えると、少しだけ現実が固くなる。

 彼女は屋上の縁に近づき、空を見た。空は青い。青いのに、青の底に薄い灰色が沈んでいるように見える。見えるだけかもしれない。見えるだけで、胸が詰まる。

 彼女は振り返って、俺を見た。

 風が彼女の髪を揺らす。揺れるのに、乱れない。乱れないものは、いつかまとめて壊れる。

「あなたは、私を怖がらないんだね」

 言葉は短い。断定に近い。

 俺は答えられなかった。

 怖がらない、という言葉の形が合わない。怖いと言えば嘘になる。怖くないと言えばもっと嘘になる。どちらも言葉が足りない。足りない言葉を補おうとすると、記憶が溢れる。

 俺は視線を彼女の右手に落とした。

 手袋はまだある。風に揺れない。揺れないまま、そこだけが黒い。黒い点。屋上の白いコンクリの中で、黒が目立つ。目立つものは、標的になる。

 彼女は俺の視線に気づき、右手を背中側へ隠した。隠す動きが短い。短いのに必死だ。必死を言葉にしない必死。

「それ、外さないのか」

 俺の口から出た言葉は、思ったより低かった。喉の奥の焦げが声を重くする。

「外さない」

 彼女はそれだけ言った。

 外さない理由を言わない。言わないまま、風に目を細める。その目が一瞬、放送室で見た無表情に近づく。近づいて、すぐ戻る。ずれ。

 俺の右目が、また疼いた。

 俺は瞬きをした。瞬きで痛みを隠す。隠れない。

「痛いの?」

 彼女がまた言う。視線が右目へ来る。

「大したことじゃない」

 俺は言いながら、自分の手のひらを握った。竹刀のざらつきが残っている。皮膚が少し赤い。現実の痛みは分かりやすい。分かりやすい痛みは助けになる。

 彼女は屋上の床へ目を落とした。床のひび割れの線を見ている。線が図形に見える。ひび割れが、何かの印みたいに見える。俺はその見え方が嫌だった。

「あなた、逃げようとしてる」

 彼女が言った。責めない。事実だけ。

「逃げない」

 俺は言ってしまう。言ってしまうと、言葉が鎖になる。

 彼女は少しだけ笑った。音のない笑い。口元だけの笑い。笑いの中身が薄い。

「じゃあ、確かめよ」

 確かめる。何を。

 言葉にしなくても、彼女は言葉の外側で伝えてくる。右手の中身。ノイズの正体。世界の継ぎ目。俺の記憶の欠け。

 確かめる、という行為は選択だ。

 止めるか、止めないか。

 触れるか、離れるか。

 俺は一歩、後ろへ下がりかけた。下がりかけた足が止まる。屋上の床が冷たい。冷たさが足の裏から上がる。冷たい現実が、俺の足を止める。

 彼女は近づかなかった。近づかないのに、距離が縮む感覚がある。風が彼女の方から吹いてくる。焦げの匂いが混じっている気がした。混じっているはずがないのに。

 そのとき、俺の右目が微かに疼いた。

 痛みというより、引っかかり。視界の端で、何かが動いた気がする。屋上の入口の方。扉の隙間。そこから風が入り、紙切れが転がった。紙切れの動きが、糸に引かれているように見える。

 糸。

 俺は入口の方を見た。誰もいない。いないはずなのに、視線だけがある。視線が皮膚に触れる感覚。

 校門の外を思い出す。昨日の廊下より遠い場所。遠いのに、今ここへつながる。

 俺の体が先に反応した。肩が固くなる。背中の汗が冷える。息が浅くなる。

 彼女も、同じ方向を見た。見ただけで分かる。彼女の目は、遠くの一点を正確に捉える。

「来てる」

 彼女が小さく言った。

「誰が」

 俺は問い返した。問い返した瞬間、喉が乾く。問いは言葉を増やす。増えた言葉が、敵を呼ぶ気がした。

 彼女は答えなかった。答えないまま、右手の手袋を指で押さえた。押さえる力が強い。手袋の革がわずかに軋む。音が、風の音に混じらずに耳へ届く。

 屋上の縁の向こう、校門の外の道路に、黒い影が見えた気がした。車の影かもしれない。歩行者の影かもしれない。けれど、影の動きが一定だった。一定の速さ。一定の角度。人間の迷いがない動き。

 俺の右目が、もう一度疼く。

 痛みは、警告の形をしている。逃げろ、と言っているのか。見るな、と言っているのか。分からない。分からないまま、体だけが硬くなる。

 彼女は俺の方へ向き直った。

 笑顔ではない。無表情でもない。どちらにも寄らない顔。判断を保留する顔。

「ねえ」

 彼女の声は、風に削られて薄い。薄いのに、俺の耳には残る。

「今夜、一緒に確かめよ?」

 今夜。校外。暗い場所。放送室よりも、もっと深いところ。

 俺は否定しようとした。否定の言葉が喉の奥で固まった。固まったのは、怖いからじゃない。怖いと言えば楽になるのに、その楽を選べない。

 俺は、彼女の右手を見た。

 黒い手袋。糸みたいな縫い目。隠す動作。押さえる指。

 右手の奥に何かがある。何かがあるせいで、彼女は笑うたびに世界を割る。俺の記憶の中で、確かにそうだった。

 なのに、今の彼女は屋上の風に吹かれているだけの同級生に見える。見えることが、いちばん危ない。普通に見えるものが、普通じゃない瞬間がある。

 俺は自分の掌を見た。竹刀のざらつきで赤くなった皮膚。分かりやすい痛み。分かりやすい現実。

 彼女が救いを求めているように見えた。

 求めていると言葉にしたら嘘になるかもしれない。けれど、手袋を押さえる指の力だけは嘘じゃない。あの力は、隠したいという力だ。隠したいものがあるという事実だ。

 救う、という言葉は口にしない。

 代わりに、俺は短く言った。

「……場所は」

 彼女の目が、ほんの少しだけ動いた。笑いに近づく動き。けれど笑わない。笑わずに、頷いた。

「私が決める」

 それだけ言う。決める、という行為で支配する。支配することで、守ろうとしているようにも見える。どちらか分からないのが、彼女らしい。

 風が強くなった。屋上の入口の扉が、カタ、と鳴った。鳴った音が、少し遅れて耳に届いた気がする。

 俺は入口を見た。誰もいない。いないのに、視線は消えない。

 校門の外の黒い影が、ほんのわずか動いた。動き方が、人間の肩の揺れと違う。滑るような動き。糸で引かれるような動き。

 俺の右目が、焼けるように痛んだ。

 焦げの匂いが、風に混じって濃くなる。

 彼女は右手の手袋を押さえたまま、俺の横に並んだ。並んだだけで、空気が少し軽くなる。軽くなるのに、足元が沈む感覚がある。

「帰ろ」

 彼女が言った。

 帰る。今日を終わらせる。今夜を迎える。

 俺は頷いた。頷いた瞬間、屋上の床のひび割れが一つ、別の形に見えた。円と線。図形。印。

 見えた形を忘れようとした。忘れようとするほど、形が残る。

 扉を開けて階段へ戻る。蝶番が鳴る。ギ、と短い音。その音に、ジ、と薄いノイズが重なる。

 俺は思った。

 今夜、確かめた先にあるのは、救いか終わりか。

 言葉にしないまま、喉の奥の焦げを飲み込んだ。飲み込んだ焦げは消えずに、胸の奥で熱になった。

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