第2話「ノイズのある校内放送」

 朝の放送は、いつも同じ時間に流れる。

 教室の時計が八時二十五分を指すと、天井のスピーカーが小さく鳴って、放送委員の声が入る。注意事項、今日の予定、委員会の連絡。耳に入っても残らない内容。誰も聞いていないのに、誰も止めない儀式。

 俺は机に肘をついたまま、スピーカーを見上げた。

 焦げの匂いは、昨日より薄い。薄いだけで消えてはいない。喉の奥に残るざらつきが、朝の空気を乾かしている。

「おはようございます。本日の連絡です」

 女子の声だった。聞き覚えのある声。放送委員の一年だろう、と脳が勝手に分類する。分類できるものは、現実に属する。

 次の瞬間、その声が二重になった。

 重なる、と言うより、遅れて追いかけてくる。数瞬。ほんの短いズレ。それだけで、背中の筋肉が固くなった。

「本日の連絡で、す……す」

 語尾が割れ、重なり、スピーカーの中で紙が擦れる音みたいに歪む。ノイズは派手じゃない。耳の奥で、薄い針が何本も跳ねる程度。

 教室の誰も反応しなかった。

 隣の席の男子は寝癖を直しながら欠伸をし、後ろの女子二人はスマホの画面を覗いて笑っている。ノイズは、彼らの世界には届かない。

 俺の肺だけが反応した。息が浅くなる。吸った空気が胸の上で止まり、吐くのが遅れる。喉仏のあたりが引っかかって、唾が飲めない。

 耳が勝手に、次のズレを待ってしまう。

 次のズレを待つと、世界がズレる。

 分かっているのに、体が言うことを聞かない。

 放送は続いた。行事、遅刻注意、服装指導。内容は、昨日も聞いたようなものだ。昨日が本当に昨日だったのか、そこは確かめない。

 ノイズは二回。短く。二回目は、声の途中がすっぱり落ちた。無音の穴ができ、穴の向こうからまた声が帰ってきた。

 教室の空気は変わらない。

 俺だけが、穴を見た。

 俺はペンを握り直した。ゴムが指に食い込む。力を抜こうとしたが、抜くと手が震える気がして、抜けない。机の天板の冷たさが、指先から骨に上がる。冷たいのに、右目の奥は熱い。

 放送が終わる。

 最後に、いつもより低いノイズが一つだけ混ざった。ジ、と短い虫の羽音のような音。スピーカーの格子の向こうで何かが擦れたように聞こえた。

 俺は、その音の余韻が消える前に視線を落とした。

 見上げ続けると、引っ張られる。

 引っ張られる先が分かっている。放送室。スピーカーの元。あそこに近づくと終わる。

 終わる、という言葉が頭の中で形を取る前に、教室の扉が開く音がした。

 引き戸がレールを走る、軽い音。その音が、他のどの音よりはっきり響いた。

 ざわめきが一段落ちる。空気が軽くなる。軽くなるのに、俺の胃だけが重くなる。

 彼女が入ってきた。

 昨日、廊下で俺を見上げた彼女。学園の中で、誰もが自然に道を作る存在。名前を思い出そうとして、途中で止めた。名前を思い出すと、彼女が近くなる。

 彼女は遠慮なく教室の中を歩き、俺の席の隣へ来た。

 その間、担任が入ってくる前の雑談の声が小さくなる。小さくなるのに、完全には消えない。誰もが耳を立てているのに、聞いていないふりをする。そんな沈黙。

 彼女は俺の隣の椅子を引いた。

 椅子の脚が床を擦る音が、妙に長く聞こえた。床のワックスが粘るみたいに。

「隣、いい?」

 声は小さい。小さいのに、近い。距離の問題じゃない。空気が、彼女の声を運ぶ速度が違う。

 俺は返事を遅らせた。遅らせた分だけ、教室の視線が集まるのが分かった。集まっても、突き刺さってこない。薄い膜越しに触れられている感じ。膜の正体が分からないのがいちばん嫌だ。

「だめだ」

 短く言う。理由はつけない。理由をつけると、言葉が増える。言葉が増えると、世界が固定される。

 彼女は椅子を引いたまま、首を少しだけ傾けた。笑顔は浅い。昨日より浅い。浅い笑顔の方が、何かを隠しているように見える。

「だめなんだ」

 彼女は確認するように繰り返す。拒否を拒否しない。拒否を、ただ情報として受け取る。その態度が、逆に逃げ場を潰す。

 俺は机の上のノートを閉じた。閉じる音が大きく鳴る。自分の動作の音が、俺の耳にだけ増幅される。

「席は、決まってるだろ」

 言った瞬間、脳が思った。違う。席は決まっていない。決まっているはずのものが、いつも決まっていない。

 彼女は、椅子を引く手を止めた。指先が白い。力を入れているのに、声は揺れない。

「じゃあ、あなたの後ろ」

 彼女はそう言って、俺の後ろの席に座った。

 背中に視線が貼りつく。視線の重さじゃない。温度だ。背中の皮膚が薄くなる。制服の布越しに空気が触れるだけで、くすぐったいほどに分かる。

 教室のざわめきが戻る。戻り方が不自然に早い。誰もが空気を読んで、同じタイミングで息を吐いたみたいに。

 俺は前だけを見ることにした。

 黒板。窓。机の角。定規の直線。世界の輪郭を確かめる。

 その輪郭の端に、放送のノイズが引っかかっている。

 午前の授業は、内容が頭に入らなかった。

 黒板の文字は読める。ノートも取れる。教師の声も聞こえる。けれど、音の底に薄い異物が沈んでいる。虫の羽音みたいな、低いジ。

 放送の残り香。音の残り香。

 それが俺の耳の奥に残って、話の内容の方を薄くする。

 休み時間、日比谷が机に近づいてきた。

「なあ、あれ、何」

 視線で、俺の後ろを指す。声を落としているのに、好奇心が滲んでいる。

「知らねえ」

 俺は教科書をめくるふりをした。紙の端が指に吸い付く。湿った感触。昨日も同じだった。焦げの匂いのせいで、紙が湿っているように感じるのか。世界が湿っているのか。

 日比谷はそれ以上は追ってこない。ただ、眉を少し寄せてから、肩をすくめた。

「まあいいけどさ。放送、今日ちょっと変じゃなかった?」

 まただ。

 俺の胸の奥が、ひとつ下に落ちた。

「気のせい」

「お前、それしか言わねえな」

 日比谷が笑った瞬間、背中の温度が上がった。後ろの席から、彼女の気配が動いた。椅子が鳴る。布が擦れる。

「ねえ」

 彼女が、俺と日比谷の会話に割り込む。割り込むというより、最初からここに彼女の席があるように自然に入ってくる。

 日比谷が息を止めたのが分かった。止めたことに気づかれたくない、という体の固さが見える。

「あなた、放送が嫌い?」

 彼女は俺にだけ問う。周囲の視線が集まるのに、問われるのは俺だけ。

「嫌いじゃない」

 嫌い、という言葉を使わないようにした。使うと、理由が欲しくなる。理由が出ると、記憶が溢れる。

 彼女は机の端に指を置いた。爪が短い。指先が机の木目をなぞる。木目に沿って、細い線が走る。

 糸みたいだ、と思った。

 糸。

 頭の中に、見たことのない糸の感触が浮かぶ。空気の中を張る糸。触れたら切れる糸。切れたら、何かが落ちる糸。

 右目が、軽く疼いた。

「じゃあ、放送室。見に行こ」

 彼女は、平然と言った。

 言葉が落ちた瞬間、教室の音が一段薄くなった。俺の耳の中で膜が張る。昼休みの喧騒が、水の向こうに押しやられる。

 俺は椅子から立ち上がりそうになって、途中で止まった。

 放送室に近づくと終わる。

 その感覚だけが、体の中にある。理由は言葉にならない。言葉にしようとすると、喉の奥の焦げが濃くなる。

 終わる、の中身が三つある。

 学園消失。都市焼失。彼女の笑い。

 けれど、それを説明する言葉が抜け落ちている。抜け落ちている穴だけが、体に残っている。

「行かない」

 俺は短く言った。

 彼女は、机に置いた指を止めた。止めた指の影が、ほんの少し遅れて止まったように見えた。瞬間的なズレ。見間違いだと、脳が言い切れない程度のズレ。

「行かないんだ」

 また、確認する。拒否を否定しない。それが、いちばん拒否しづらい形。

 日比谷が、気まずそうに笑った。

「放送室なんて、普段行かねえだろ。鍵もかかってるし」

 その言葉に、彼女が目を細めた。

 笑顔とは違う。笑っていない目。水面の下の冷たい部分が見える目。

「鍵なら、あるよ」

 彼女は、制服のポケットから小さな鍵束を出した。

 じゃら、と鳴る。金属が触れ合う音が、教室の中で妙に大きい。鍵の音だけが、ガラスを叩くみたいに澄んで聞こえる。

 日比谷が言葉を失った。俺も、喉の奥が固くなる。

 彼女が鍵束を握る指の関節に、薄い白が見えた。力を入れている。けれど、表情は変わらない。変わらないまま、目だけが俺を追い詰める。

「来て」

 命令ではない。お願いでもない。決定事項を、口にしただけ。

 俺は立ち上がらないと決めた。決めたはずだった。

 なのに、足の裏が床を探る。体が勝手に椅子から浮く。立ち上がる動作の途中で、ふっと世界が軽くなる。

 放送のノイズが、耳の奥で一度だけ鳴った。

 ジ。

 俺は立っていた。

 日比谷が慌てて俺の腕を掴もうとして、途中で手を引っ込めた。触れたら巻き込まれると、本能が警告している動き。

「おい、やめとけって」

 日比谷が言う。声が遠い。俺の耳は、すでに教室の音を薄くしている。

 俺は彼女の後ろについた。ついた、というより、つかされた。歩くとき、足が少し遅れる。自分の影が、ほんのわずかに遅れて動く。

 廊下へ出ると、空気が冷たかった。冷たいのに、焦げがまた濃くなる。

 誰かがすれ違って、彼女を見る。見た瞬間に目を逸らす。逸らす速度が揃っている。周囲が、彼女に合わせて動く。

 放送室は、校舎の端にあった。

 階段を上がるとき、手すりの金属が手のひらに冷たい。冷たさが、今の自分を現実につなぐ。つないでくれるのに、つながり方が細い。糸みたいに細い。

 放送室の前に着くと、廊下の音がまた薄くなった。

 遠くの笑い声が、薄紙越しに聞こえる。部活の掛け声が水の中みたいに低い。自分の足音だけが、妙に重い。

 扉の前のプレートには、放送室、と書かれている。見慣れているはずの字が、今日だけ少し傾いて見える。

 俺は、扉のノブを見た。

 触れない方がいい。

 触れない方がいいのに、彼女が鍵束から一本を選び、鍵穴に差し込んだ。

 鍵が穴に入る音が、やけに大きい。金属が金属に触れる音。そこに、微細なノイズが混じる。ジ、という音が鍵の音に貼りつく。

 彼女が鍵を回した。

 カチ、と鳴った。

 その一音で、周囲の音がすべて消えた。

 無音になったわけじゃない。世界は音を出しているはずなのに、耳が拾わない。呼吸の音さえ遠い。自分の心臓の音も聞こえない。

 無音は、穴だ。

 穴の中に立たされると、体の輪郭が薄くなる。

 俺は喉を鳴らそうとして、鳴らせなかった。唾が飲めない。舌が乾く。

 彼女が扉を開けた。

 放送室の中は薄暗かった。窓のブラインドが下りていて、光が細く切られている。機材のランプが小さく光る。古い機械の匂い。埃と、熱の匂い。

 熱の匂いの奥に、焦げが混じる。

 俺は一歩、入る。

 床がきしむ。きしみが、耳に戻ってくる。無音が破れて、音が帰ってきた。その帰ってき方が乱暴で、耳の奥が痛む。

 彼女は放送卓の前に立った。機材のスイッチ、ミキサー、マイク。見たことのない配置なのに、見たことがある気がした。

 俺の右目が、じくりと痛む。

 彼女が振り返り、微笑んだ。

「ここ、落ち着くね」

 落ち着く、という言葉が、この場所に合わない。合わないのに、彼女は言い切る。言い切れるのは、彼女がこの場所に属しているからだ。

 俺は放送機材に視線をやった。触れたくない。けれど、触れないでいると、彼女が代わりに触れる。

 彼女が触れたら、何かが始まる。

 始まるのを止めるか、止めないか。

 選ぶしかない。

 俺は机の端に手を伸ばした。指先が、金属のつまみに触れる直前で止まる。冷たい金属の気配だけが皮膚に刺さる。

 彼女が、俺の手首を軽く押した。

「触って」

 軽い力。なのに、逃げられない。手首の骨のあたりが、押された部分だけ熱くなる。

 俺はつまみに触れた。

 触れた瞬間、右目の奥が焼けた。

 痛みは熱になって広がり、視界の端が白く滲む。蛍光灯の白じゃない。焼けた空の白だ。肺に焦げが入り込む。喉の奥のざらつきが、急に現実になる。

 耳の奥で、ノイズが鳴った。

 ジ。ジジ。

 機材のランプが一瞬だけ消え、次の瞬間、別の配置で点いた。ありえない。ランプの位置は変わらない。変わるはずがない。なのに、変わったように見える。

 俺は手を離そうとした。指が離れない。金属が皮膚に貼りつく。紙が湿って指に吸い付いた感触と同じ。

 彼女が、俺の前で笑った。

 笑ったはずなのに、一瞬だけ表情がずれた。

 口元は笑っているのに、目が無表情になる。笑顔の形だけが残り、中身が抜け落ちる。空っぽの器だけが、俺を見ている。

 その表情を、俺は知っていた。

 知っているのに、思い出したら終わる。

 俺の右目がさらに痛み、視界の中に細い線が走った。糸みたいな線。線が空間を切り分け、放送室が二重に見える。ブラインドの隙間の光が、別の角度から差している。壁の影が遅れる。

 遅れる影の先に、別の放送室がある。

 そこでは、床に紙が散っている。焦げた紙。焼けた匂い。マイクの上に、黒い粉。手袋の片方。右手だけの手袋。

 俺はそれを見た瞬間、喉が詰まった。

 咳は出ない。声も出ない。ただ、肺の空気が減っていく。

 彼女の手が、俺の指に重なった。冷たい指。冷たいのに、触れたところだけ熱い。

「今の顔、なに」

 彼女がそう言う。問いかけなのに、答えを知っている口調。

 俺は唇を開こうとして、開けない。

 言葉にしたら固定される。固定されたら戻れない。

 戻れない、というのが、救いになる場合もある。けれど俺は知っている。戻れないは、終わりの別名だ。

 俺は、指を無理やり引きはがした。

 皮膚が金属から剥がれるとき、ぺり、と小さな音がした。音がするはずがないのに、確かに音がした。

 放送室のランプがまた揺れ、ノイズがひとつ大きく鳴る。

 ジッ。

 その音の直後、廊下の遠い笑い声が一瞬だけ遅れて聞こえた。外の世界が、ここに追いつけずにもたつく。

 彼女の表情が、元に戻った。笑顔が戻る。笑顔が戻ると、さっきの無表情が嘘みたいに見える。

 でも、嘘じゃない。

 嘘じゃないことを、俺の体が覚えている。

 右目の奥が、まだ熱い。熱いのに、背中は冷たい汗で冷える。汗がシャツに貼りつく。布が肌に重い。

 俺は一歩、後ろへ下がった。床がきしむ。きしみが、さっきより低い音になっている気がした。

 彼女が、首を少し傾ける。

「あなた、知ってるんだ」

 断定。

 俺は否定できなかった。否定するには言葉が必要で、言葉は俺の喉を通らない。

 彼女は笑顔のまま、もう一歩近づく。距離が詰まる。空気が軽くなる。軽くなるのに、逃げる方向が消える。

 俺は視線を逸らした。逸らした先に、放送卓の上のマイクが見える。マイクの金属の網が、蜘蛛の巣みたいに細かい。巣の中心が黒い。

 糸。

 俺の中で、糸がまた言葉になりそうになって、ぎりぎりで止まる。

 彼女が、低い声で言った。

「今の顔、覚えてる?」

 俺は息を吐いた。吐いたはずの息が、途中で止まった。喉の焦げが濃くなる。

 口から出たのは、短い言葉だけだった。

「知ってる」

 それ以上は言えない。

 彼女の笑顔が深くなる。深くなる前に、また一瞬、目が無表情になる。そのズレは短い。短いのに、俺の体は確かに拾う。

 俺は、思ってしまった。

 今の顔。

 俺は知っている。

 知っている場所で見た。

 焦げた匂いの中で。

 放送のノイズの中で。

 世界が継ぎ目を見せた、その瞬間に。

 彼女が、最後に小さく囁いた。

「じゃあ、今回は一緒に直そ。あなたが逃げる前に」

 その言葉の直後、スピーカーのないはずの放送室の中で、ノイズが鳴った。

 ジ。

 それは、今までよりはっきりした音だった。音の中に、別の声が混じっている気がした。放送委員の声でも、教師の声でもない。俺の耳だけが拾う声。

 そして、放送卓の上に置かれた紙が、風もないのにめくれた。

 紙の端が、俺の指に向かって伸びる。

 紙が、貼りつく。

 俺は、それを剥がせない感触を知っている。

 視界の端で、彼女が笑った。

 笑ったのに、目が笑っていない。

 俺は喉の奥の焦げを押し込んで、頭の中で短く繰り返した。

 今の顔、俺は知っている。

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