三度滅んだ世界で、俺だけがバッドエンドを覚えている

妙原奇天/KITEN Myohara

第1話「また、この笑顔だ」

 喉の奥に、焦げが残っていた。

 目を開けると、教室の蛍光灯が白い。白さが、ただの白ではなく、焼けた空の白さに似ている。熱で色が抜けきったものの白。見るだけで、まぶたの裏が乾く。

 俺は一度、唾を飲み込んだ。飲み込んだはずの唾が、途中で引っかかる。舌の付け根に砂が貼りついたみたいに、ざらついた。

 机の天板は冷たい。指先を置くと、冬の水道管みたいな冷えが、骨まで上がってくる。教室はいつもの朝の匂いがするはずだった。消しゴムの粉、柔軟剤、誰かの整髪料。けれど今は、焦げが勝っている。

 そこに焦げがある理由を、考えないようにした。考えた瞬間、別の映像がつながるのを知っている。

 窓の外で、部活の掛け声がする。体育館の方向。笑い声が混じる。音は普通だ。いつもの学校だ。そうやって、世界は平然と続いているふりをする。

 俺の右目の奥が、じくりと疼いた。

 視界の端が、ほんの一瞬だけ暗くなる。瞬きではない。眼球の奥で、硬いものが擦れるみたいな痛み。俺は眉間に力を入れて、机の角を見つめた。角の木目を数える。呼吸をひとつ、ふたつ。

 チャイムが鳴る前のざわめき。椅子が擦れる音。誰かがペンを落とす音。黒板の上の時計は、きっちり秒針を刻んでいる。

 全部、正しい。

 なのに、焦げだけが正しくない。

 俺はカバンの口を開けた。教科書の端が指に引っかかり、紙が湿っているのが分かる。指先の皮膚が紙に吸い付く。こんな感触は嫌だ。紙は乾いているべきだ。紙は、世界が終わる前も、終わった後も、同じ顔でそこにあるべきだ。

 誰かが俺の机の前に立った。

「おはよ。顔、死んでる」

 横から覗き込むのは、日比谷だ。首にかけたイヤホンを指で弾きながら、俺の机に肘をつく。制服のシャツはアイロンが甘い。いつも通り。

「寝不足?」

「……まあ」

 声が掠れた。喉の焦げが、声の出口に膜を張っている。

 日比谷は俺の返事の薄さに興味を失ったみたいに、後ろを振り返った。

「あ、そうだ。昨日の放送さ、ノイズ入ってたよな。昼のやつ。なんか、ジジッて」

 その言葉が耳に入った瞬間、背中に冷たいものが落ちた。

 汗ではない。汗が出る前に、筋肉が硬くなる。肩甲骨の間が、ぎゅっと寄る。手のひらの中心が冷える。胃がひとつ、下に落ちる。

 俺は視線だけで、教室の天井のスピーカーを見た。四角い格子。埃が溜まっている。埃の中に、黒い粒が一つ混ざっているように見えた。見えただけだ。実際にあるかは分からない。

「ノイズくらい、古いしあるだろ」

 俺はそう言ったつもりだった。言葉が、思ったより平坦に出た。

 日比谷は笑った。軽い笑い。意味のない笑い。

「だよな。でも、なんかさ、途中で変な間があって。先生の声、ちょっと遅れた気がした。俺だけかな」

 遅れた。

 その言い方が、嫌に具体的だった。

 俺は目線を戻して、机の上のシャーペンを握り直した。グリップのゴムが指に食い込む。強く握りすぎているのが分かる。力を抜こうとしたが、指は抜けない。いったん握ったものを、簡単には離せない。

「気のせいだろ」

「お前、そういうの信じないタイプだもんな」

 日比谷は、それ以上は追ってこなかった。こういうところがこいつの救いだ。人の奥を覗こうとしない。覗かれたら、俺は多分、壊れる。

 壊れる、という言葉が頭の中で浮いた瞬間、右目がまた疼いた。

 俺は机の引き出しを閉めた。音が大きく響く。教室のざわめきの中で、その音だけが浮く。周りの視線が一瞬だけ集まって、すぐに散った。散る視線の動きが、妙に遅く見えた。

 錯覚だ。

 錯覚にしておく。

 授業が始まる。板書。ノート。教師の声。俺は文字を書きながら、焦げの匂いを消そうとしていた。鼻の奥に残った焦げは、消しゴムの匂いでも、窓から入る冷えた空気でも消えない。

 焦げは、思い出の匂いではない。

 起きたことの匂いだ。

 昼休みになり、廊下へ出る。人が多い。購買へ走る足音。笑い声。教室から漏れるスマホの動画の音。全部が普通に流れる。

 俺は自販機の前で立ち止まった。缶のコーヒーのボタンを押す。商品が落ちる鈍い音。取り出した缶は、冬の鉄みたいに冷たい。掌がじんと痺れる。

 その冷たさに、救われる。

 熱の記憶が、冷たさで薄まるからだ。

 俺が缶のプルタブに指をかけたとき、廊下の音が、少しだけ薄くなった。

 耳の奥に膜が張る。遠くの音が、水の向こうに行く。風景が変わる。空気の粒が細かくなる。匂いが抜ける。自分の足の裏だけが、床に重くなる。

 人の流れが、自然に道を空けていく。

 誰かが来る。

 説明がなくても分かる。分かってしまうのが、いちばんまずい。

 俺は缶を握ったまま、反射的に一歩、壁側へ避けた。けれど、足の裏が床に貼りつくみたいに動きが遅い。自分の体の方が、世界に従っている。

 廊下の向こうから、歩く音がする。ハイヒールではない。ローファーの、乾いた音。速くも遅くもない。まっすぐ。迷いがない。

 音が近づくにつれて、周りの呼吸が変わるのが分かった。誰かが息を止める。誰かが、笑いながらも声を落とす。誰かがスマホをしまう。動きが揃う。群れが一つの生き物みたいになる。

 そして、彼女が現れた。

 白い制服のラインが、廊下の光を拾う。髪は黒い。整いすぎている。顔立ちが綺麗、という言葉は便利すぎて使いたくない。便利な言葉で片付けたら、彼女の危険が削れる。

 彼女が歩くと、空気が軽くなる。

 軽くなるのに、俺の足は重くなる。

 周りの生徒が、自然に道を作る。誰かが「おはようございます」と言う。敬語。教師に対してでもそこまで揃わない。彼女にだけ揃う。

 彼女は返事をしない。返事をしなくても、誰も不満そうにしない。返事がないことすら、予定の中にあるみたいだ。

 視線だけが、彼女の周りに集まっていく。

 俺は目を逸らそうとした。逸らしたいのに、逸らす方向がない。視線を逃がす先が、全部彼女に絡め取られている感じがする。

 彼女は、俺の前で止まった。

 止まった瞬間、周りの音が戻った。膜が破れる。笑い声が、遠くから現実に戻ってくる。けれど戻り方が、少しだけ乱暴だ。音が、耳にぶつかってくる。

 俺は唾を飲んだ。焦げがまた浮いた。

 彼女は俺を見て、口角だけを上げた。

 笑った。

 その笑顔を見た瞬間、俺の中で、三つの断片が勝手に並んだ。

 一回目。学園が消えた。

 教室にいたはずの机も、人も、壁も、次の瞬間には空だった。音が抜けた。自分の呼吸だけが耳の中で大きくなって、世界が紙みたいに薄くなった。

 二回目。都市が焼けた。

 夕方の空が赤くなったのではなく、赤いものが空から降ってきた。熱で、目の表面が乾いた。焦げの匂いが、肺の奥に溜まった。

 三回目。彼女が笑って終わった。

 その笑顔は、今と同じだった。違うのは、背後の空の色だけだった。黒と赤。煙。崩れる音。誰かの叫び。俺は叫べなかった。喉が焦げていた。

 右目の奥が、ぎしりと鳴った気がした。

 実際に鳴ったわけじゃない。鳴ったように感じただけだ。けれど、その感覚は確かな痛みに変わる。眼球の奥で、硬い糸が引かれるみたいに、つんと引っ張られる。

 俺は顔に出さないようにした。顔に出したら、彼女はそれを見つける。

 彼女は、俺の胸元の名札を指で軽く叩いた。爪は短い。手つきは雑じゃない。むしろ丁寧なのに、触れられた瞬間、皮膚が薄くなる。

「やっと見つけた」

 声は小さい。周りの喧騒に埋もれるほど小さい。なのに、俺の耳にははっきり入る。距離が近い。近すぎる。息が触れる。

 俺は反射で一歩引いた。

 缶コーヒーが手の中で鳴った。金属と金属が擦れる音。俺の背中が壁に触れる。冷たい壁。逃げ場がない。

「……人違いだ」

 口から出た言葉は、俺の意思より先に決まっていた。否定する。距離を作る。触れない。関わらない。

 そうしないと、世界が終わる。

 彼女は、ほんの少しだけ首を傾げた。笑顔は崩れない。崩れないのが怖い。崩れないものは、壊れるときにまとめて壊れる。

「人違いなら、見ない。あなたの右目、さっきから痛いでしょ」

 その言い方が、正確すぎた。

 俺は右目を押さえそうになって、途中でやめた。押さえたら、痛いと認めることになる。認めたら、彼女の言葉が正しいことになる。正しい、ということは、彼女が俺を見つけたということになる。

 俺は缶を持った手を、ポケットに突っ込んだ。ポケットの布が冷たくて、少しだけ落ち着く。爪が布を掴む。

 彼女は一歩、さらに近づいた。

 距離が詰まると、空気の密度が変わる。匂いが変わる。彼女の匂いは、甘い香水ではない。石鹸の匂いでもない。匂いが薄い。匂いが薄いものは、別の匂いを引き寄せる。

 焦げが、強くなった。

 俺はそれを鼻で感じた瞬間、胃がまた落ちた。

 焦げは、ここにないはずなのに。

 俺の記憶の中にしかないはずなのに。

 彼女の口元が、少しだけ動いた。笑いが深くなる前の、微細な動き。

 俺は、その動きを止めたいと思った。

 止めたい、というのは感情語に近い。だから俺は、別の形にした。

 手を出すな。

 触れるな。

 下がれ。

 俺の体は命令に従わない。

 足の裏がまた床に貼りつく。廊下の床のワックスが、急に粘る。自分の足首が、鉄でできたみたいに重い。

 世界が、一瞬だけ飛んだ。

 映像が途切れるような暗転。停電ではない。瞬きでもない。目を閉じていないのに、黒が挟まる。挟まった黒の中に、音がない。

 黒が明けた瞬間、周りの生徒の位置がわずかに変わっていた。三十センチ、ずれたように見える。誰かの笑い声が、少しだけ遅れて聞こえる。

 日比谷の声が、遠くから届いた。

「おい、何やってんだよ」

 その声が耳に入るまでに、妙な間があった。

 昨日の放送の話が、頭の中で勝手に繋がる。

 ノイズ。遅れ。間。

 世界線の継ぎ目。そんな言葉を、俺は持っていないはずなのに、感触だけが先にある。

 俺の右目が、焼けた針で突かれたみたいに痛んだ。視界の端が、白く滲む。蛍光灯の白さが、さっきより強い。焼けた空の白さが重なる。白の中に、赤い線が混じる。

 俺は息を吸った。吸った空気が熱い。廊下の空気は冷たいはずなのに、肺の中で熱に変わる。

 彼女は俺を見上げた。距離が近いから見上げる形になる。目が合う。黒目が、妙に澄んでいる。澄んだ水の底に、何かが沈んでいるみたいに。

「逃げるの?」

 問いかけの形だけど、確認ではない。答えを求めていない。選択を迫っている。

 俺は、唇の裏を噛んだ。血の味はしない。痛みだけがある。痛みがあると、現実が少しだけ固くなる。

「……逃げない。ただ、近づかない」

 俺の声は、乾いていた。喉の焦げが、声の形を変える。

 彼女は、さらに笑った。

 その笑いは、音にならない。口元の形だけで笑う。周りの空気が軽くなる。軽くなった分だけ、床が沈むように感じる。ワックスの粘りが増す。足が取られる。

 笑いの中で、彼女は囁いた。

「じゃあ、あなたが見てきた終わり方、全部教えて。教えないと、また同じになる」

 また、という言葉が刺さる。

 俺の中で、黒と赤と白が並ぶ。学園が消える。都市が焼ける。彼女が笑って終わる。俺だけが覚えている。覚えているせいで、俺だけが戻ってくる。

 戻ってくる場所は、いつも同じだ。

 この学園。

 この廊下。

 この笑顔。

 俺は、缶コーヒーの冷たさを握りしめた。冷たいはずなのに、掌の中で少しだけ温い。自分の体温が移っている。体温が移る。触れたものに、自分の痕が残る。

 彼女に触れたら、何が残る。

 残った痕が、世界に何をする。

 考えた瞬間、右目がまた痛む。痛みは警告だ。思い出すな。言葉にするな。言葉にしたら固定される。

 でも彼女は、もう固定されているみたいにそこに立っている。

 俺は一歩引いた。今度は、引けた。壁から離れられた。ほんの数センチ。数センチが、命綱になることを俺は知っている。

 彼女は追ってこない。追ってこないのに、距離が縮む感じがする。彼女が動かなくても、世界が彼女の方へ寄っていく。

 俺は、視線を外した。外せたのが不思議なくらい、視線が軽く外れた。外れた先で、廊下の端の窓が目に入る。窓の外は冬の空。青い。青いのに、青の下に、薄い灰色が混じっている気がする。

 焦げが、また濃くなる。

 俺は息を吐いた。吐く息が白くなるほど冷たいはずなのに、白くならない。冷たいのか温いのか、判断が遅れる。判断が遅れると、足元がぐらつく。

 彼女が、最後に一言だけ落とした。

「大丈夫。今回は、ちゃんと救えるようにするから」

 救う。

 その言葉が、俺の中で別の形に変わる。

 救うほど壊れる。

 救うほど終わる。

 俺は、缶のプルタブを開けた。ぷしゅ、と小さく音がする。炭酸ではないのに、そんな音がする。音が、妙に大きい。周りの音が、また一瞬遅れる。

 俺は缶に口をつけた。苦い液体が喉を通る。焦げが一瞬だけ薄まる。薄まったところに、別の匂いが混じる。

 紙の匂い。

 焼けた紙の匂い。

 俺は、それを飲み込めなかった。喉が詰まる。咳は出ない。咳が出ないまま、息だけが浅くなる。

 目の前で彼女が笑っている。笑いは音にならない。音にならない笑いほど、周りを黙らせる。

 俺は思った。

 また、この顔だ。

 次は、何を失う。

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