8:化け猫の約束
■約束
おれは化け猫に命じられるまま、部屋のニンニクを外し、窓を開けて空気を入れ替えた。
当然、十字架も片づけさせられた。
意外だったのは十字架だけではなく、神社で買ったお守りまでダメだったことだ。
化け猫はお守りを見るなり、十字架と同じように、露骨に嫌悪感を浮かべた。
部屋に入った化け猫は、英語で矢継ぎ早に質問を浴びせてきた。
日本がどこにあるのか。
世界地図を見せながら説明すると、中国の東にこんな発展した国があるとは思わなかったと、目を丸くしていた。
最近の中国や東南アジアの発展すら知らない様子だ。
そして、化け猫は日本語を教えろと命じてきた。
……こいつ、このまま居座るつもりだ。
正直、願い下げだが、おれに拒否権はない。
血を与え続ける限り、姉ちゃんには手を出さない。
そう約束させた。信じていいかは、わからないが。
□
一時間ほどして、姉ちゃんが帰ってきた。
玄関の音がすると、おれは慌てて階段を駆け下りた。
姉ちゃんを化け猫のいる二階に近づけたくなかったからだ。
「琢磨、落ち着いた?」
恐る恐る尋ねる姉ちゃん。
おれが錯乱していると思っているのだろう。
「うん」
おれの目を見つめる姉ちゃんの瞳は涙で潤んでいる。
「よかった……」
姉ちゃんはおれに抱きつき、鼻をすすりながら泣いた。
「姉ちゃん、心配かけてごめん。もう大丈夫だから」
「にゃー」
二階から、化け猫の鳴き声が響いた。
――――――――――――
■学習開始
姉ちゃんが寝たのを確認すると、おれは部屋に戻った。
勉強机の上で化け猫が、まるで招き猫のように手首をちょいちょいと動かしている。
……何してんだ?
姉ちゃんと少し話して、今は化け猫の前でも気持ちは幾分落ち着いている。
おれは椅子に腰を下ろし、ノートにひらがなとカタカナの五十音表を書き出して、一つひとつ発音していった。
化け猫も、それを真似して声を出す。
驚いたことに、たった一度教えただけで、ひらがなもカタカナも完璧に覚えてしまった。
次は漢字だ。
押し入れから漢字辞典を取り出して机に広げると、化け猫は二本足ですっと立ち上がり、体をコキコキと鳴らし始めた。
「うわっ!」
それまで普通の猫のように振舞っていた化け猫が、急におかしな動きをしたので、おれは驚いて椅子から転げ落ちた。
ドスンと大きな音がしたが、姉ちゃんが入ってくる気配はない。
それよりも、化け猫の変化が気になる。
化け猫は、まるでアニメの二本足で歩く猫みたいに人間のように動き出し、ラジオ体操を始めた。
√ おいっちにさんしぃ にぃにぃさんしぃ。
妙に年寄りくさい掛け声が、頭に直接流れ込んでくる。
その後、化け猫は机の上にあぐらをかき、漢字辞典をぺらぺらとめくり始めた。
おれはその姿を床に倒れたまま呆然と眺めていた。
二十分ほどでめくり終わると、化け猫は漢字辞典を放り投げ、次をよこせとばかりに前足をおれに向ける。
仕方なく本棚から国語辞典を取り出し、手渡した。
国語辞典もぺらぺらとめくり始めたので、おれは特にすることもなく、化け猫が辞典を読む姿を眺めていた。
辞典をめくること一時間。
おれは次第に眠気に負け、目をこすっていた。
√ Sleep.
念話が頭に響いた。
おれはベッドに倒れ込むようにして、深い眠りについた。
――――――――――――
◇四日目【6月13日(木)】
■ルナ
「琢磨、ご飯よ」
姉ちゃんの声で目が覚めた。
窓を打つ雨音が耳に入る。
起き上がって部屋を見回すが、化け猫の姿はどこにもない。
あれは夢だったんじゃないか?
なんて思いたかったが、床や机に散乱した辞書や百科事典、教科書が、その希望をあっさり打ち砕いた。
「琢磨、ご飯冷めるわよ」
「すぐ行く」
本を片付け終わると、おれはパジャマのまま一階のダイニングへ向かった。
「姉ちゃん、おはよう」
「おはよう。気分はどう?」
ダイニングチェアに座る姉ちゃんがにっこり笑う。
その笑顔につられ、おれも笑い返しかけ――
ダンッ!
思わず後ろにのけぞり、背中をドアにぶつけた。
「どうしたの、琢磨」
驚いて目を丸くした姉ちゃんが、膝の上の黒い塊をそっと床に降ろし、おれの前で膝立ちになった。
「大丈夫? ケガしてない?」
「だっ、だいじょうぶ。ねっ猫がいたから驚いただけ」
慌てて立ち上がり、化け猫を避けるように姉ちゃんの向かいの席に腰を下ろす。
「ふふ、おかしな子ね」
姉ちゃんは笑いながら、化け猫を抱き上げダイニングチェアに座り直した。
テーブルで見えないが、姉ちゃんは猫を撫でているっぽい。
「姉ちゃん、ご飯食べながら野良猫を触るのって汚くないか?」
「琢磨、猫嫌いだっけ?」
姉ちゃんが首をかしげる。
「嫌いじゃないけど」
「大丈夫だよ。みゅうちゃんに猫用シャンプー貰って、お風呂に入れたから。ついでに、残ってた猫缶も貰っちゃった」
そういえば心優は、半年くらい前まで猫を飼っていたっけ。
死んだ日、心優は姉ちゃんと一緒に泣いていた。
あの猫、おれには全然懐かなかったけど。
「その傷は?」
姉ちゃんの腕に絆創膏が二枚貼られている。
「ああこれ? さっきこの子をお風呂に入れたときに引っかかれちゃったの。お風呂慣れしてないみたい」
「大丈夫か?」
おれは化け猫を見た。
非難めいた目を化け猫に向けると、姉ちゃんが何かを言いたそうにこっちを見ていた。
「ど、どうしたの?」
「あのさ、琢磨。この猫、飼ってもいいかな?」
おれは目をギュッと瞑った。
数秒考えた。
もちろん、こんな得体の知れないものと暮らすのはごめんだ。
でも、化け猫はここに居座る気だし、反対すれば姉ちゃんが襲われるかもしれない。
「……いいんじゃないかな。可愛いし。姉ちゃんの好きにしたらいいと思う」
姉ちゃんの表情がパッと明るくなる。
対照的に、おれの顔は引きつっていたに違いない。
「今日、病院に連れていこうと思うの。実はもう半休もらっちゃったんだ」
姉ちゃん、二か月の試用期間が終わったばっかりなのに大丈夫か?
そんな心配も、姉ちゃんの喜ぶ様子を見ていたら、どうでもいいことのように思えた。
おれなんて今週いっぱい、学校を休むんだから。
表向きは暴漢に襲われたショックのため。
実際は、化け猫に日本語を教えるためだ。
逆らって姉ちゃんを危険にさらすわけにはいかない。
そんなことを考えているあいだも、姉ちゃんはしゃべり続けていた。
「ねぇ、聞いてる?」
姉ちゃんがおっとりとした話し方で訊ねる。
「えっ、っと、なんだっけ」
「もう、この子の名前よ。私、『ルナ』って名前がいいと思うの。ほら、首の模様が三日月みたいでしょ?」
ほんとうだ。
首の下にツキノワグマみたいな白い模様がある。
……冗談抜きで食い殺されそうな気がするけど。
「ねっ、姉ちゃんの好きな名前でいいと思うよ」
ルナ……
月の女神の名か。
実態は化け物だけど。
√ 病院、何をする。
「えっ」
おれは言葉を失った。
頭の中に日本語が飛び込んできたからだ。
たった一晩で、日本語を話せるようになったのか?
そういや昨夜、体操の掛け声っぽい言葉も聞こえたが……
√ おい。
おれは姉ちゃんに尋ねた。
「ね、姉ちゃん、ルナを病院に連れて行って何をするの?」
「そうね、病気が無いか検査したり、予防注射を打ったりかな」
だそうだ。
化け猫を見ると大仰に頷いていた。
わかってんのか?
注射を打たれるんだぞ。
注射嫌いなおれは、考えただけで体のあちこちが縮こまるような、気持ち悪さを感じる。
「時間が余ったら、可愛い首輪とか買いに行こうかな」
姉ちゃんは楽しげに笑った。
おれは、血を与え続ける限り姉ちゃんには手を出さないという約束を、信じることにした。
――――――――――――
■読破
√ 痛かった…… すごく痛かった。
化け猫は窓のシャッターを閉め切った真っ暗な部屋の隅で丸くなり、さっきからメソメソと泣きそうな声で、おれの頭に恨み節を送り続けてくる。
いや、涙が出ているので泣いているみたいだ。
正直、勘弁してほしい。
病院から帰ってきてから、ずっとこの調子だ。
家に入るなり一目散におれの部屋へ駆け込んだルナを見て、姉ちゃんは「琢磨にすごく懐いてるね」なんて言い、おれの部屋に化け猫の寝床を作ってしまった。
ちなみに検査結果に問題なく、痩せてはいるが健康体らしい。
「そんなに、泣かないで…… ください」
おれは化け猫の横に正座して慰めていた。
機嫌を損ねると怖いので、つい丁寧な口調になる。
少しずつ言葉が通じ始めて、ほんのわずかに親近感すら覚え始めていた。
考えてみれば、こいつはずっとおれを助けてくれた。
郷原にやられたときも、トラックに轢かれそうになったときも、ボールに当たりそうになったときも。
そして、あのヤバイ吸血鬼からも、おれを助けてくれたのは化け猫だ。
昨夜は、姉ちゃんを殺すなんて言ったのでビビってしまったが、本気だったのかどうか……
頭をなでようと思ったが、やはり躊躇する。
√ 血を抜かれた。屈辱だ。血を抜かれた。
血を抜かれたことが、相当ショックだったらしい。
おれは人差し指をそっと化け猫の口元に差し出した。
カプッと噛まれ、チクッとした痛みが走る。
だが、思ったより痛くない。
化け猫はぺろぺろと舐め、満足げな顔をした。
しばらく、指を舐めていた化け猫だったが、すくっと立ち上がると二本足になり、押し入れのふすま紙が貼られたベニヤ板の引き戸を開けて、上の段にあぐらをかいた。
√ そっちの本棚の本、持ってこい。
ラノベの本棚を指さす。
猫の前足ってあんなふうに指させるもんだっけ?
十冊ほど押し入れに運ぶと、
√ 全部。
「これ全部?」
√ 全部。
この部屋のラノベの蔵書は百冊を超える。
おれはそれを全部、押し入れに運んだ。
√ ドア、開けるな。
そう言うと、引き戸を閉めた。
明かりも無いのに読めるらしい。
この日、化け猫は晩ご飯以外、一歩も部屋を出なかった。
夢中で読んでいるようだ。
化け猫の笑い声や泣き声、怒声が何度も頭に飛び込んできて、この日はほとんど眠れなかった。
そして翌朝、押し入れを覗くと、ぐっすり眠る化け猫の姿が。
――ちょっと、イラっとした。
あとで聞いたのだが、一晩で百冊を読破したらしい。
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