7:落城

■牙を持つ来訪者

 窓の外はもうすっかり暗くなっていた。

 おれは自室を出て、他の部屋や廊下に仕掛けた魔除け装備を確かめて回った。


 あれっ? 無い?


 慌てて家中を見て回る。どういうことだ? すべての部屋にぶら下げたはずだ。

 そう、心の中で叫んだ。


「姉ちゃん! 姉ちゃん!」


 各部屋に設置した十字架やお守りはそのままだったが、カーテンレールにぶら下げていたニンニクが、すべて取り払われている。


「なあに、琢磨」


 姉ちゃんの声が玄関の外から聞こえてきた。


「姉ちゃん、にんにく、どこやったんだよ?」


「冷蔵庫。琢磨、食べ物を粗末にしちゃダメだよ。キャッ、飲んだ飲んだ」


 なんてことをしてくれるんだ。


 おれは姉ちゃんに文句を言うために玄関に向かった。それにしても、飲んだ飲んだって、なんのことだ?


「姉ちゃん、ニンニク外すなよ。魔除けなんだから」


「玄関の盛り塩って、魔除けなの?」


 姉ちゃんはまだ玄関の外にいるようだ。


「琢磨、見てっ。すっごく可愛いよ。女の子みたい」


 おれは玄関に向かう足を止め、姉ちゃんが抱いているものを凝視した。

 姉ちゃんが抱いている大きな黒い毛玉。それはムクッと顔を上げ、おれを睨みつけた。


 そして姉ちゃんは、それを抱いたまま玄関の中に入ってきた。

 玄関に入った黒い毛玉は口角を上げ、鋭い牙をむき出しにし、この世のものとは思えないほど恐ろしい顔でにこ〜っと笑った。


「姉ちゃん、その猫……」


 おれは一歩後ずさった。


「きゃっ」


 化け猫は姉ちゃんの腕から飛び降り、ゆっくりとおれの方へ近づいてくる。


「うわっ、わわぁぁぁぁ。ばっ、ばっ、化け猫!」


 おれは腰を抜かし、その場にへたり込んだ。


「琢磨、どうしたの?」


 姉ちゃんが駆け寄ろうとするのを、おれは慌てて制した。


「来るな!」


 おれが叫ぶと、姉ちゃんは青い顔で立ち止まった。

 姉ちゃんに怒鳴ったのなんて初めてだ。姉ちゃんは猫よりもおれの声に驚いたに違いない。姉ちゃんの位置から、この猫の恐ろしい形相は見えないしな。


 黒猫は笑ったまま、首を横に傾ける。


「琢磨、どうし――」


「心優の家に行け。早く」


 おれは姉ちゃんの言葉を遮った。


「琢――」


「早く行け!」


「うっ、うん」


 姉ちゃんは、訳が分からないという顔で、ゆっくりと玄関から出て行った。


√ ⇒Ň


 玄関ドアが閉まると、おれの頭に『血』という単語が飛び込んだ。


 やっぱり、この頭に飛び込んでくる言葉は、この化け猫の言葉だったのか。

 ということは、昨夜吸血鬼に襲われたときに、飛び込んできた黒い塊はこいつか。


 おれは立ち上がり、階段を駆け上った。

 化け猫はぴょんぴょんと跳ぶように、軽やかに階段を上ってくる。


 おれは二階の廊下に置いていた手拭いを掴み、階段を上ってくる化け猫に投げつけた。

 化け猫は一瞬キョトンとした顔になったが、ゆっくりとおれに近づいてきた。


 …… 踊らない…… のか?


 おれは他の魔除けグッズを手にし、化け猫の前に突き出した。


「ギャー!」


 化け猫はけたたましい鳴き声をあげて、立ち止まった。


 おれが手にしていたのは……

 十字架?


 化け猫に十字架って効くのか?


 十字架を化け猫に向けて、後ずさりしながら、魔除けで完璧に防備した自室のドアノブを握った。


√ ″∥⇔∈〒



『殺す』


「ひっ」


 おれはビクッとした。


√ ♪✗⊥♮


『女』


「えっ?」


√ ♪✗⊥♮ ″∥⇔∈〒


『女、殺す』


 この化け猫は一体何を言ってるんだ……


――――――――――――

■血

√ dă-mi sângele tău.


 また、頭に訳が分からない言葉が流れてきた。

 けど、これは今までと違って、人の言葉だ。


 化け猫はおれをじっと観察していたが、伝わっていないのがわかったのか、別の言葉を送ってきた。


√ daj mi svoju krv.


 これも人の言葉だ。

 でも何を言いたいのか、まったくわからない。


 おれが首をかしげると、化け猫は盛大なため息をついた。

 その目には失望感がありありと浮かんでいる。


 なぜおれが、化け猫に失望されなきゃいけないんだ?


 そんなことを思っていると、さらに別の言葉が流れてきた。


√ 给我你的血


 これは分かる。

 テレビや映画でよく耳にする独特の発音。


 だけど、字幕でもない限り、高校生のおれに中国語の意味まではわからない。


 わずかに反応したおれを見て、化け猫の右眉がぴくりと動いた。

 しかし、おれが理解できていないのを悟ると、


「ちっ」


 化け猫は大きな舌打ちをした。

 態度や表情から、かなり苛立っているのが伝わってくる。意外と感情豊かだ。


√ give me your blood.


 英語?


 おれの反応を見て、理解したと思ったのだろう。

 さらに言葉が重なった。


√ If you don't give me your blood, I will kill woman.


「えっ」


 ドアノブを握った手がガタガタと震えだす。


 今、こいつは姉ちゃんを殺すと言った。

 おれのたった一人の家族を、だ。


 おれはドアノブから手を離すと、十字架を化け猫に向けながらその場に崩れ込んだ。

 その様子を見て、化け猫はふらつく足どりで、ゆっくりとおれに近づいてきた。


 こいつも吸血鬼なのか?


√ Put down, the cross.


 頭に響いた声に逆らえず、おれは恐怖に震えながら十字架を廊下に置いた。

 姉ちゃんを殺されるかもしれない恐怖が、全身を支配する。


 怖くて、涙が溢れてきた。


 化け猫はそんなおれを見て顔をしかめると、ぴょんと膝に飛び乗り。

 そしておれの人差し指にカプッと噛みついた。


 チクリとした痛みに思わず手を引きそうになる。

 けど、化け猫の瞳がそれを許さない。


 指先から一筋の血が流れると、化け猫はそれを一滴残らず舐め取ろうと、何度も何度も舌を動かした。

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