第6話 眉月 2
殺戮から逃れるため、アイダールは女たちを連れて故郷を去った。
彼の一族は音楽を好んでいた。歌舞や楽器の演奏に長けていたため、それを利用して旅の舞踊団に偽装した。
「東へ行こう。大陸の東の果てに、稜という国がある。大国で、西方とも交易を盛んにしているから、隊商路が整備されている。稜の皇都永春には、異国人も多く住んでいるというから、われらが行ってもさほど目立たないだろう」
アイダールは戦経験のある父から剣を習っており、護衛の役に立った。だがひとりで皆を守り切るのは困難であるため、ほかの隊商に同行させてもらうようにした。
徒歩と、可能であれば騎馬や馬車を使い、一年以上かけて、ようやく稜の皇都永春に到着した。
「青楼を開きましょう」
女たちの中で一番年長のアグダリアが提案した。
永春に来て宿を借り、今後どのように暮らしていくか、皆で相談しているところだった。アイダールはもちろん、女たちもそれぞれ街に出て、皇都の様子を確認したり、調べたりして情報を集めた。
「青楼は、娼館ですが、わたしたちの考える娼館とはかなり違います。青楼の女には歌舞や詩歌音曲の才能、教養と話術が求められます。芸に優れ、高い教養や巧みな話術があればあるほど、店の格式も高くなります」
「しかし……客の相手をしなければならないのは、変わらないだろう。おまえたちに、そんなことをさせるわけにはいかない」
アイダールは反対したが、女たちの決意は、彼が思うより固かった。
「アイダールさま。わたしたちは、あの殺戮から運よく逃れることができました。奪われた一族の者のためにも、わたしたちは生きていかなければなりません。そのためには、どんなこともする覚悟があります」
アグダリアが言うと、女たちはみな賛同した。
「……すまない」
礼を言いたかったのに、アイダールは謝ってしまった。いまは自分が一族の頭目であるのに、彼女たちに選択させてしまった不甲斐なさが胸に重かった。
「そんなに落ち込まないでください。これはじつは、とても都合が良いことなのですよ」
「都合が良い?」
アグダリアが悪戯っぽく笑った。
「そうですよ。青楼が繁盛して、客がたくさん来てくれれば、わたしたち食事に困らなくなるのですよ」
「……あっ」
やっと仕組みに気づいたアイダールに、女たちは明るく笑った。
女たちの意を受けて、アイダールはすぐに動いた。
永春最大の遊里である鶴慶坊に土地を買い、役所に届出して新たな青楼を建てた。西域からきた胡姫である珍しさを看板にして、〈金繡楼〉を開いたのだ。
それに伴い、名を変えた。月を意味するアイダールから
〈金繡楼〉を開いたばかりのころだった。
まだ知名度がなく、客も老舗の大店が手放さなかったため、月祥は女たちの食事を確保することに苦心した。彼女たちを飢えさせないことを優先するあまり、自分の飢餓は後回しにしていた。
その夜、眩暈がするほどの渇きに耐えられなくなった月祥は、行きずりの男を捕えて路地裏に隠れ、渇きを癒そうとした。
「――そこでなにをしている」
暗闇の路地裏に、闖入者の声が響いた。
月祥は、はっと振り返る。
背の高い人影。長袍に長靴で、貴人のようだった。
「具合でも悪いのか。手を貸そうか」
男は傍若無人なまでに、ずかずかと近づいてきた。
月祥は狼狽した。腕に抱きかかえていたのは、失神させた男。いまにも血を飲もうとしているところだったのに。
「うん?」
闖入者はまだ若い青年だった。月祥の傍らに屈み、まじまじと月祥を見つめた。
「……うーん」
そして、ぐったりと抱きかかえられた男と見比べる。なにを考えているのか。月祥は動けない。
「おぬし、人ではないな」
いきなり見抜かれ、月祥は驚いた。渇きのため気が散漫で、人間ではない気配が漏れていたのかもしれない。
「異類の者か。その男を獲物にするつもりだったのか」
物騒な状況をずばずばと言い当てられる。だが、青年の口調はどこかのんびりしていて、切迫した様子がない。
「その者を獲物にすると、死ぬか」
青年が月祥に問う。どういうつもりなのか、月祥には測りかねたが、
「いや……死なない。ほんの少し、もらうだけだ」
無意識に返答していた。
「なるほど。では、その者は見逃してやってくれんか。代わりに、おれがやろう」
(……なにを言っているのだ、この人間は?)
月祥は青年を見つめた。申し出の理由がわからない。いや、そもそも、この状況で犠牲の身代わりを申し出る人間など存在するのか。
「おまえは……馬鹿か」
「すいぶんだな、異類。……いや、おれは最近、退屈でな。なにか面白いことがないか探していたんだが、異類の餌食になったことはないから、試してみたいと思った。おぬしのような別嬪なら、なおさらだ」
青年は頓着なく笑う。そして、月祥に顔を近づけた。
「嫌なら、官憲を呼ぶぞ。どちらがいい?」
窺うように訊ねる。半ば脅迫といっていい。
月祥は頷くしかなかった。
路地裏に失神した男を残して、月祥は青年と別の路地に入った。
「さあ、やってくれ。おれは、どうすればいい」
青年は長袍の両腕をひろげて見せた。害意がないことを示しているのかもしれないが、あまり正気とは思えない。
「……片袖を捲れ。肘の内側からもらう。そこなら痕が目立たない」
「わかった」
青年は躊躇なく左袖を捲り上げた。
月祥は警戒を解かず、慎重に青年に近づく。そっと彼の腕をとり、かたく引き締まった筋肉を感じながら、肘の内側のやわらかい肌に、唇を当てた。
青年が小さく息を飲む。
少しだけ開けた穴から、芳しい香りと甘露の滴が押し寄せ、月祥の口中を満たした。青年の精気は瑞々しく、鮮烈で、月祥の身体の中を奔流のように駆け巡った。
自分は気づかないうちに、どれほど飢えていたのだろう。渇きを癒すことに、月祥はこれほどの悦びを覚えたことはなかった。
満ち足りて、唇を離す。
「……驚いたな」
青年が、呟いた。呼吸が乱れている。
「妖魅の力なのか。まるで……」
黒い瞳が、熱を帯びたように薄闇に光る。月祥はばつが悪くなり、目を伏せた。
青年は袖を戻した。
「おれは
「月祥……
「月祥か。何処へ行けば、おぬしに会える?」
(――なに? なんと言った?)
月祥は不思議な気持ちで、白暁賢と名乗った青年を見た。
「おぬしに会えば、退屈せぬような気がするのだ」
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