第5話 眉月 1
――アイダール。
父の呼ぶ声が聞こえたような気がして、アイダールは目を覚ました。
宿屋の窓から、外を眺める。暗い夜空を切り離すように、険しい山稜の影が聳えている。
高く黒い峰の連なる山脈、その谷間の森の中に故郷の村がある。人間には見つからない安全な場所だ。
アイダールの一族は
吸血鬼とはいうものの、アイダールの種族はそれほど多量の血を飲む必要はなく、むしろ人の精気を糧にしているほうが多い。食事が必要なときは、森を出て近くの人間の村を訪れ、気づかれないうちに摂取してくる。
光と闇がまだ曖昧に溶け合っていた時代。人々は神に祈り、昼の平穏を喜びつつ、魔性を恐れ、夜の不安を抱いて生きている。生命を脅かすほどではない小さな怪異は珍しくもなく、不吉な予感がしたときは、祈りの言葉とまじないによって、それを避けようとする。
アイダールの一族は、そうやって二百年もの間、人間と共存してきた。
一族といっても、血の繋がりはない。吸血鬼は人間の血を飲み、自分の血を与えることで人間を同族に変える。
アイダールは赤子のときにいまの父に拾われ、育てられた。父の後継者になることを受け入れたとき、父から血を与えられたのだ。
村のほかの者は、様々な理由で集まってきた。戦で生き残ったが家族を失い絶望した者、夫の暴力から逃れてきた者、異民族の奴隷だった者など、いずれも行き場のない孤独な者たちだった。
最初の血が誰だったのかは、もはやわからない。だが、新たにやってきた者は、先にいた者から血を与えられるということを連綿と繋いできたため、血族といっても間違いはないのかもしれない。
いま、書物が欲しくて大きな街まで来ていたアイダールは、帰路の途中だった。明日には故郷の村に着く予定だ。
(父さんの夢でも見ていたのかな)
父にはヘラス産の上質な葡萄酒を土産に買った。村の者たちには、山では滅多に食べられない砂糖の菓子を持って帰る。
(なるべく早く、帰ろう)
アイダールは寝台に横になり、眠った。
翌朝、日の出と同時に宿を発ち、山脈を目指す。
近隣の村々を抜け、故郷の森から一番近い村まで来たとき、険悪な空気が漂っているのを感じた。
(血の匂い――)
アイダールの胸がざわめく。
武器を持った男たち。剣もあれば、鎌や斧もある。汚れた赤黒い染みは血痕だ。
(この血の匂いは……まさか、そんな)
アイダールは駆け出した。
人間の血の匂い。それに交じって、彼の一族――
(嘘だ、嘘だ。そんなことがあるわけない)
森の中を必死で駆ける。焦げた臭いがどんどん強くなる。そして、自分と同じ一族の血の匂いも。
「――!」
村は壊滅していた。
家は焼かれ、炎は周辺を取り囲む森までを焦がしていた。どこにも、誰の姿もない。
「父さん! 父さん! 誰か……誰か、いないのか!」
叫びながら、走り回る。何本もの矢が散乱している地面には、所々、黒い大きな染みができている。それを見やりながら、自分の家に向かった。
一族の首領である彼の父は、村で最も大きな屋敷に住んでいた。その屋敷も、土台の石を真っ黒に焦がして残しただけで、あとは焼け落ち崩れていた。
屋敷の裏の地面にも黒い染みがあり、そこでなにかが光った。近づいてみると、埃にまみれた青石の指輪が落ちていた。
「父さんの……」
はっとして、アイダールは地面の染みを見た。
「まさか……これは」
震える手で染みに触れ、顔を近づけて匂いを嗅ぐ。
慕わしい父の血の匂いがした。
「あああーっ!」
黒ずんだ地面に伏せ、アイダールは声を上げて泣いた。慟哭が村中に響いていることにも構わなかった。
点在している黒い染みは、すべて一族の者が消滅した痕跡だったのだ。
「酷い……ここまでする必要があるのか! わたしたちは、おまえたちの生命を脅かすことはなかった。おまえたちの日々の営みを乱すことなど、しなかったのに!」
父の指輪を握りしめ、アイダールは村をさまよう。誰かひとりでも生き残った者がいないだろうか。
動くものは、なにもなかった。家畜小屋も焼け落ちていたが、中に家畜の死骸はない。殺戮者に連れ去られたのだろうか。
幽鬼のように歩いて、村外れに辿り着く。森に入って少し進むと、小さな洞窟がある。アイダールは洞窟に入り、暗闇を進んだ。
やがて、上に向かう狭い石段に突き当たる。重い足を持ち上げながら、石段を上った。
(……気配がある)
上るに従い、上から動くものの気配が伝わってきた。アイダールははっと顔を上げ、疲れを忘れて駆け上がった。
二百段もの石段を上りきると、山の中腹に切り開かれた狭い土地に出る。そこには小さな教会があった。
焦燥に駆られながら、アイダールは教会に飛び込んだ。
「……ひっ」
引きつれた悲鳴。ざわざわと石床をこする衣服の音。
「そこに、いるのか。……生きて、いるのか」
祭壇の闇に向かって呼びかける。
「ア……アイダールさま?」
女の声。アイダールの胸が熱くなった。
「そうだ、わたしだ。そこにいるのは誰だ」
沸き上がるように、溜め息と、すすり泣きが聞こえた。アイダールは祭壇の下に近づく。
「アイダールさま、よくお戻りくださいました」
「アグダリアか。無事だったのだな。あとは誰がいる」
アグダリアと呼ばれた女が、名を上げていく。七人の女が隠れていた。
「わたしを含めた五人が、たまたま教会の清掃に来ていて助かりました。そこへ、ふたりが村から逃げてきたのです」
アイダールは逃げてきた娘のまえに屈んだ。
「サフィラ、よく逃れてきてくれた。なにがあったか、教えてくれるか」
サフィラという娘は、細い肩をがくがく震わせながら、言葉を絞り出した。
「……とっ、突然だったんです。クリアニ村の男たちが、剣や鎌を持って……
「なぜ、知られたのだ? 二百年間守られてきたのに」
「あの……タマズが」
「羊飼いのタマズか」
サフィラは小さく、何度も頷く。
「タッ、タマズは、クリアニ村の娘と恋仲になっていて……自分のことを、打ち明けてしまったんです。それで……タマズの案内で、クリアニの男たちが」
アイダールは項垂れて額を押さえた。
「タマズはまだ少年だ。一族に加わって日も浅い。……愚かなことを」
そばかすの浮いた顔で笑う純朴な少年の姿が目に浮かんだ。
「そのタマズは、どうなった」
サフィラはしゃくり上げ、また泣き出す。
「あっ、案内が済んだら、もう、用はないって……喉を切られて……」
女たちの嗚咽が大きくなる。アイダールは胸を強く押さえた。
「……それで、皆を殺したのか。……父も」
「はい。……次々に襲われて、殺されて……クリアニの男たちは、皆の家を荒らして、使えそうな物を奪っていきました。馬や牛や山羊もです。それから……村中に火を放ちました」
凄まじい怒りが、アイダールの腹の底から噴き上がった。
「アイダールさま! どちらへ?」
「クリアニ村を、滅ぼしてやる」
「いけません!」
アグダリアが彼の袖を押さえて留めた。
「離せ、アグダリア」
「いいえ、いけません。危険です」
「人間ごときに」
「あの、明日また来ると、言っていました。ほ、ほかの村からも応援を呼んで、い、生き残りがいないか、捜すと」
ふるえながらも、サフィラが懸命に伝える。
アイダールは女たちを見回した。気丈なアグダリアの強いまなざし。怯えている女たちの縋るようなまなざし。
「――!」
石床に強く拳を叩きつけ、アイダールは歯を食いしばった。
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