第2話 永遠の都 2


 艶めかしい紅燈に照らされた廊下を通り、吹き抜けの大庁ひろまに出る。


 月祥ユエシャンたちがいるのは二層目で、吹き抜けをぐるりと回廊が取り囲んでいる。

 回廊は、青楼の入り口である飾り扉の真正面で二翼の階段になり、踊り場で繋がって、一層目の大庁に下りる階段となる。


 その一層目の階段の前で、恰幅の良い五十がらみの官服の男が喚いていた。屈強な下僕がふたり、官服の男が階段を上ろうとするのを阻んでいる。


宵娥シャオエは何処だ! 宵娥を出せ!」


 男の顔は真っ赤だ。かなり酩酊しているらしい。


「――いかがいたしましたか、シュエ大人。そのように大声を出されては、ほかのお客様に障りがございます。どうぞ、お静かに」

「お、おお、宵娥」


 薛は赤ら顔を満面笑みくずし、嬉しそうに両腕を二層の月祥に差し出した。


「そなたに逢いたくて来た。今宵の席を買うぞ」

「申し訳ございませんが、今宵は先にお客様がいらっしゃいます。ご容赦くださいな」

「か、金なら、ある!」

「花代の問題ではございません」


「これはこれは、尚書左丞どの。有能官僚で名高い貴公が、かような無作法をなさるとは。鶴慶坊で噂になりますぞ」


 伸びやかな声が大庁に響く。月祥の隣から暁賢シャオシェンが顔を出し、薛に声をかけた。


「な……んだと」


 薛が目を剥いて暁賢を見、固まった。


バイ……暁賢」

「ほう、おれの顔をご存じか」


 暁賢はにやにやと人の悪い笑みを浮かべている。薛の赤ら顔か、心なしか青ざめているように見えた。


「宵娥は今宵一夜おれが買った。悪いが引き上げてくれ」


 すると薛は悄然として俯き、黙って踵を返して金繡楼を去った。


「とんだことでお騒がせいたしました。どうぞ皆さま、房間でごゆるりとお楽しみくださいませ」


 月祥がやじ馬で出てきた客たちを見回す。それを合図に、敵娼の妓女たちが客を促し、それぞれの房間に戻っていった。


「やれやれ、面倒な目に遭った」


 月祥も自房に戻り、苦蓬酒アブサンを注いで喉を潤した。


「だいぶん、ご執心だったな。そんなにいい思いさせたのか」


 からかうように言って、暁賢も苦蓬酒アブサンを注ぐ。


「馬鹿を言え。そんなことするか。あいつはもともと、銀心インシンの客だったのだ。銀心がほかの酒宴についているときに来て、不満そうだったから、少しだけ酒に付き合ってやっただけだ。銀心はまだ若くて贔屓にしてくれる客も多くないから、後々困らないように繋いでおこうと思っただけなのだが」

「永春一の名花、金繡楼の宵娥に、あっさり骨抜きにされちまったってわけか」

「隣で酌をしただけだぞ」

「十分だろう」

「わたしが悪いというのか」

「そうは言わんよ」


 くくっと喉を鳴らして笑い、暁賢は酒杯を空ける。いつでも余裕がありそうなその様が小面憎い。


(わたしより、はるかに若年で短命のくせに――)


「……ところで、いまさらだが聞いてもいいか」


 唐突に暁賢が話を変えた。


「なんだ」

「なんで、おまえは女のなりをしているんだ。青楼の元締めは男のほうが都合がいいだろう。まして、そんな皇都一の美貌を誇る女になってしまっては、薛のように面倒な輩にまとわりつかれて困るだろうに」


 月祥は軽く首を振る。


「逆だな。素のほうがやりにくい。青楼の主人が若造ではくみあいで軽んじられる。妓女上がりの女主人のほうが、舐められても、まだ立ち回りしやすい」

「色仕掛けか。中身は想像とは違うもんだが、謀られるほうが気の毒だな」


 少しも気の毒とは思っていないような口調である。


 月祥は匙の上に残った牡丹化の欠片を指先でつまみ、口に放り込んだ。酒が十分に染み込んだ飾り砂糖は、舌の上ですぐに溶けた。


「そういうおまえは、どうなのだ。そんな歳まで独り身でふらふらしおって。花花公子おんなたらしというわけでもないようだが、妻女をもらうか、せめて妾を入れるなりしないのか」


 暁賢は薄く笑み、段通の上に肘枕で横になった。


「べつに、おれが守る家門もないからな。それに……おれに子ができたら、それはそれで、いろいろと面倒になる」

「……」

 白家は永春の名門、皇太子の師である太子太傅を輩出したこともある家柄だ。だが暁賢に血の繋がりはなく、養子なのだと聞いていた。


(官職に就く気があるでもなく、遊び歩いているふうなのは、故あってのことか……)


「おい、ここで寝るな。眠るなら房間を用意する」


 目を閉じ、うつらうつらし始めた暁賢の肩を揺する。


「おい、寝るなと言っている」


 がくり、と肘枕が外れ、暁賢が目を開けた。


「……ああ、寝落ちしそうだったか」

「房間を用意させるから、自分で歩いて行け。おまえのようなでかい男を運びたくない」

「つれないやつだな」


 欠伸をしながら、暁賢は頭を掻いた。袍の袖が上腕まで捲れ上がり、筋肉の引き締まった腕があらわになった。


 腕に走る青い血管を見た瞬間、


 どくん。


「――」


 月祥の胸がざわめいた。身体の芯から、かすかに湧き上がる、衝動。


「……ああ」


 暁賢は思いついたように呟いた。


「そういや、しばらくなかったな。おまえは客も取らんし――いいぞ」


 屈託なく笑い、暁賢は月祥に片腕を差し出す。


「……おまえは……そんな、簡単に」


 声が掠れる。猛烈な渇きが喉にひろがる。


「遠慮するな。人が飯を食うのと同じだろう。まあ、最初は驚いたけどな」


 目の前に差し出された腕が、人の熱を放っているのが伝わる。皮膚の下に流れる生命の泉――血液の流れる音まで、聞こえてくる。


 月祥は誘われるままに暁賢の腕をつかんだ。そして、肘の内側に唇を押し当て、歯を立てて皮膚を刺し、強く吸った。


 口中に流れ込む、温かくて甘い蜜。暁賢の生命のひとすじが、見えない水流となって月祥の身の内に流れ込んでくる。力が満ちていくのがわかる。


 月祥は、人ではない。西域の小国で、その存在を忌むべきものとして狩られ、稜に逃れてきた吸血鬼ウブルだった。


 吸血鬼ウブルとはいえ、浴びるほど血を飲む必要はない。ほんのわずかの血と、人の精気を吸うことによって、数日は生き延びることができる。月祥はそのようにして、二百年もの時間を超えてきた。


 二十一、二歳の青年のまま時間を止めた月祥は、人間の迫害から生き延びた同族の吸血鬼ウブルとともに沙漠を越え、大帝国稜に辿り着いた。唯一の男だった月祥は、女たちの生活と食事を維持するために、金繡楼を建てた。


 妓女として毎日客を呼び、酔わせて楽しい気分の隙に、速やかに食事をする。吸血鬼ウブルの噛んだ皮膚に、傷痕はほとんど残らない。一夜の夢の契りで刻まれる口づけの痕、それに似た痣が残るだけ。


「……」


 月祥の唇が離れた暁賢の肌にも、花弁のような赤い痣だけが残った。


「もういいのか」

「ああ……十分だ。――すまない」

「気にするな」


 暁賢は笑いながら袖を戻す。息が乱れ、頬が上気している。吸われるほうにも、なにがしかの感覚があるようで、それは少し睦言のあとのような艶っぽさを感じる。


「失礼いたします。白公子、寝所をご用意いたしましたので、お休みであればどうぞ」


 瑞星ルイシンがやってきて、一礼する。


「気が利くな、瑞星」


 暁賢は立ち上がり、


「先に休ませてもらうぞ、月祥」

「ああ」


 瑞星の案内で暁賢は房間を出て行った。


「……」


 ひとりになった房間で、月祥は長く息をつく。


 暁賢からもらった血と気で、身体が温かい。苦蓬酒アブサンの酔いと混ざり合って、ふわふわとした心地よさに包まれた。


 月祥が男であること、そして吸血鬼ウブルであることを知る人間は、暁賢と瑞星だけだ。金繡楼の下僕や下婢はなにも知らない。鶴慶坊のほかの青楼にも知られてはいない。


(――わたしたちだけでは、ないのだがな)


 大帝国稜。その皇都永春。

 東海の島国や大陸の西域、さらに西の果ての異民族の国々から、様々な人種が集まる大都城。


 ここには、吸血鬼ウブルのみならず多くの異類の者が紛れ込み、人から隠れ、あるいは人と同じ姿形で生活を営みながら、存在しているのだ。

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