猫になる②


【一年前】

 


 私は私自身に「新卒一年で会社を辞めた女」という履歴書タトゥーをこれから入れるのだ。


 ほかの人はまだ始業前なのに、営業先への電話でペコペコとお辞儀をしている。一方の奴は、私が奴のデスク前に立っても競馬新聞を読み続けている。

  四文字。四文字だけ。




「あの」
 


 奴の視線は私の方に一ミリも動かない。



「辞めます」
 


 これは相談事ではない。決定事項だ。



「は?んなもんできるわけ…」
 


 私はくるっと進行方向を変えて、エレベータに向かう。


 奴の声は段々と小さくなっていくが、止まらない。「閉」ボタンで奴のその声とも、この会社とも縁を切る。

 
会社を逃げるように出て、駅に着くまでにすれ違った人たちは早歩きのサラリーマンばかり。彼らの一日はこれから始まる。





「ただいま」
 


 ゴミ屋敷になった誰もいない家に言う。
 

 さっきから鳴っている携帯を確認する。

 

 着信十五件。


 もう全てどうでもいい。


 久しぶりに布団の温もりを感じる。そういえば布団で寝るのいつぶりだっけ、そんなことを考えながら、ぐっすり眠りについた。





【現在】




みんな久しぶりー!


今月か来月空いてる日あるー?

 


 稼働していなかったグループラインが動く。前回のトークは一年前だ。




明:二十二日ならー


マミ:うちも二十二なら行ける!


あず:みんなの都合がいい日に休みとれるよ~

 


 あれよあれよとみんなが返事をしている。




「ラインのやつ、どうする?」
 

 風呂上りの濡れた髪とパックを貼り付けた顔で、なんだかご当地キャラクターのような、そうでないようなジョウが言う。


「…行ってみたいかも」


「んじゃ、あたしも行くー」


 有給有給♫と鼻歌を歌いながら携帯をポチポチしている。

 


 あれから一年経つのか…

 


 逃げるように退社する二、三日前に私はジョウに電話した。三歳児のようにただひたすら泣きじゃくる私からの電話を、ジョウはただ静かに見守ってくれた。
 

 その後、会社から逃げるように退職して誰にも見つからずにこの世界から消えていくのか、そんなことを考えながら布団にくるまっていたある日、食料が尽きた。ウーバーを頼もうとした時、携帯を久しく開いていないことに気がつく。奴や家族、SNSの通知、ジョウからの着信履歴。


 電話……


 ウーバーを頼むために開いた携帯で、私はジョウに電話して、どういう流れかジョウの住んでいるマンションに居候することになった。






「シオ飲んでるー?」



 私が端に座って喋っていないことを気にかけてか、リーダー気質の子が話を振ってくる。
 

 結局一年ぶりに動いたラインの誘いには全員集まれて、仕事から直で来た子もいる。その子だけはスーツで、できるだけ私はその子を視野に入れないように努める。


「うん。飲んでる飲んでる。でも一旦休憩しようかな。次なんか頼むものあったらジャスミン茶頼むの誰か覚えといてー」


「はいはーい」


 だれかが相槌してくれた。よし。一旦うまくかわせた。


「で、仕事今何してんだっけ?」


 かわせてなかった。


「うーんとね、今は前の営業ではなくて、」
「すみませーん」
 

 ジョウが店員を呼ぶ。


「ももの塩と、スパイスとれんこん揚げくださーい。あ、あとジャスミン茶だっけ? 他なんか飲み物ほしい人―」
 

 そこから追加の注文が横切ったおかげで、私の仕事の話は忘れられた。



 届いたジャスミン茶に浮かぶ氷を眺めながら、みんなの近況報告が左耳から入ってすぐ右耳から出ていく。
 

 世間に認められていたら、永遠にこの氷が溶けずにいたらな、などと思えるのだろうか。




***




「働いてみよっかな」


 帰宅後、洗面所で手を洗っているジョウの背中に話しかける。


「え?」
 

 鏡越しにジョウと目が合う。


「あ、でもまずはバイトから」


 冷蔵庫に水を取りに鏡から消える。


「ほんと?」
 

 タオルで手をふきながらジョウがやってくる。


「うん。さすがにそろそろ色々返していきたいし、ちょっとみんなの話聞いて働いてみた
くなったし」


「焦ってではない?」


「まぁその気持ちはゼロではないけど。そろそろリハビリ?みたいなものできるかなっ
て」


「まぁじ?」


「うん。まぁぁじ。お金、返していきまぁす。恩返し、していきまぁす」


「っしゃあ!祝杯だぁ!」


 そう言って変な舞を踊りはじめるジョウに私も続く。

 ジョウはすっかり出来上がっているが、私はまだ土俵に立てていない。





【アルバイト】





「人生で一度は事務という何かの、誰かのサポートができる仕事をしてみたいと考えておりまして、なかでも受験という自分も人生で頑張った節目の立ち合いというか、サポートをしたいと考え今回応募させていただきました」
 

 記憶した言葉ではない、その場で思ったことをそのまま話した。面接官はお偉いさんだということを後から知ったが、今までの人生で一番“緊張感”という言葉が似合う人だった。



「素敵な理由ですね。ちなみに、応募されたこの校舎の事務は他にも応募の方がいらっしゃいまして、採用はもしかしたら難しいかもしれません。ですが、一駅隣の校舎でしたら即採用させていただこうと思うのですが、どうされますか」
 

 普通、アルバイトの合否は後日採用不採用の知らせを電話やメールで知る。だが今私は決断を迫られているのだ。

 ここでは働けないが、一駅隣のところならすぐ働けるよ、どうする?と。




 交通費も出るし、いうて一駅だし。


 

 結局私はその一駅隣の校舎で働くことを希望した。 こうして採用が決まった校舎の事務は私一人だけで、一旦十七時から二十一時までの週三で働くことになった。

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