第2話 見えない顔、重なる心
1. 加速
たった5分の通話が、スイッチだった。
それまで慎重に探り合っていた二人の距離は、声を聞いた夜を境に、堰を切ったように縮まっていった。
朝の「おはよう」から、夜の「おやすみ」まで。
私のスマホは、彼女との通知で一日中振動していた。
仕事の合間、家事の隙間、そして家族が寝静まった深夜。
私たちはまるで空白の時間を埋めるように、互いの情報を貪欲に交換し合った。
話題は多岐に渡った。
上の子の反抗期、下の子の愛らしさ、パートナーへの不満、そして将来の不安。
誰にも言えなかった本音を、彼女は受け止めてくれた。私もまた、彼女の言葉の一つ一つに共感し、頷いた。
私たちは似ていた。
孤独の形も、求めている温もりの温度も。
そして、夜が深まるにつれ、話題は自然と深い場所へと潜っていく。
夫婦の寝室の事情、互いの身体の悩み、そして秘めた欲望。
顔も知らない相手だからこそ、脱ぎ捨てられる鎧があった。
「こんな話、誰にもしたことない」
そう言いながら、私たちは互いの最も恥部であり、最も人間らしい部分を共有し、共犯者めいた親密さを育てていった。
2. 予感
「ねえ、会えないかな?」
その言葉が出るのに、そう時間はかからなかった。
お互いの住まいを確認すると、隣の県同士であることがわかった。隣と言っても距離はあるが、決して届かない距離ではない。
ちょうどその頃、私が仕事で彼女の家の近くまで行く用事ができた。
緊急事態宣言が明け、少しだけ空気が緩み始めた秋の入り口。
全てが、まるでパズルのピースが嵌まるように、「会う」という一点に向かって動き出していた。
「いいよ、会おう」
彼女の返事は軽やかだった。
不思議だったのは、この期に及んでも、私たちは互いの写真を一枚も交換していなかったことだ。
どんな顔をしているのか。どんな服を着ているのか。
視覚的な情報はゼロのまま。
普通なら不安になるはずのその状況が、私にはなぜか心地よかった。
容姿なんてどうでもいい、と本気で思っていた。
彼女の言葉、彼女の声、彼女の纏う空気。
それだけで十分だった。
どんな姿の人が現れても、きっと私は彼女を好きでいられるし、彼女との時間は楽しいものになる。
根拠のない、けれど揺るぎない確信が私の中にはあった。
3. 前夜
デートの計画を立てる時間は、数年ぶりに味わう「恋」そのものだった。
土地勘のない彼女の街の地図を広げ、ホテルを検索し、ドライブコースをシミュレーションする。
下ネタ交じりのメッセージで「もしそうなったら、どうする?」なんてふざけ合いながら、私の心臓は早鐘を打っていた。
明日、彼女に会える。
スマホの中にしかいなかった彼女が、現実の存在として私の前に現れる。
期待と、ほんの少しの怖れ。
まだ見ぬ「あなた」へ向かって、私はアクセルを踏む準備を整えていた。
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或る婚外恋愛の記録 ——君の体温と、嘘の匂い samisii_odi @samisii_odi
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