或る婚外恋愛の記録 ——君の体温と、嘘の匂い
samisii_odi
第1話 春の静寂、5分間の声
世界が静まり返っていた。
2020年、春。緊急事態宣言の発令とともに、街から人の姿が消え、私の生活も一変した。
会社へ行くことはなくなり、自宅でのテレワークが日常となった。妻も子供も家にいる。家族仲は悪くない。むしろ、私は家事も育児も積極的にこなす、世間で言うところの「良い夫」だったはずだ。
けれど、どこか閉塞感があった。在宅勤務のデスクでふと息をつくとき、社会から切り離されたような、あるいは自分という個人の輪郭が希薄になっていくような、得体の知れない寂しさが胸をよぎる。
そんな時だった。何気ない、本当に何気ない好奇心と、少しの期待を持って、私はそのアプリを開いた。
画面の向こうには無数の誰かがいた。いくつかメッセージを送り、驚くほど早く返信をくれたのが、彼女だった。
アイコンの向こう側にいる彼女。それが、後に私の心をすべて奪うことになる人だとは、その時はまだ知る由もなかった。
2. 共鳴
彼女とのメッセージのやり取りは、不思議なほど心地よかった。
お互いの境遇には驚くほどの共通点があった。
彼女もまた、二人の息子を持つ母親だった。そして、ちょうど育休から職場復帰するタイミングでありながら、旦那さんが単身赴任になったばかりだという。
私は在宅勤務で、彼女はワンオペ育児と仕事の両立。互いに家庭を持ち、それを大切にしながらも、どこか満たされない不安や孤独を抱えていた。
「職場に苦手な人がいて……」
「わかる、そういう人いるよね」
他愛もない仕事の愚痴から始まり、子育ての悩み、そして互いのパートナーの話へ。
テキストのラリーは軽快で、私の孤独なテレワークの時間は、彼女からの通知を待つ色めき立った時間へと変わっていった。
話題は次第に、深い部分へと踏み込んでいった。
顔も知らない、名前も知らない関係だからこそ、話せることがある。
私は30歳を過ぎてから妻とはレスであること。
彼女は旦那さんとの関係はあるけれど、それは義務的なものであり、キスが好きではないこと。
「旦那は性欲が強くて……私はそうでもないんだけどね」
彼女はそう言った。
私たちは、まるで思春期の学生のように、性の話題も共有した。
一人でする時のこと、使っている動画サイトのこと。
「え、私もそこ見てる!」
まさか同じサイトを使っているなんて。そんな下世話な偶然さえも、私たちにとっては運命の符合のように感じられ、心の距離を一気に縮める触媒となった。
この頃にはもう、私は彼女とのやり取りに夢中になっていた。
3. 声の温度
メッセージの往復だけでは、もう足りなくなっていた。
文字情報の向こう側にいる生身の彼女を感じたい。その衝動は、互いの中に同時に芽生えたようだった。
「電話、してみない?」
どちらからともなく、そんな話になった。
「私の声、あんまり好きじゃないんだよね。低いし」
彼女はメッセージでそう予防線を張った。
約束の時間。スマホを握る手が少し汗ばむ。
家族のいない隙間を見計らって、私は通話ボタンを押した。
「……もしもし」
スピーカーから聞こえてきたのは、彼女が言うような嫌な声では決してなかった。
少し鼻にかかったような、落ち着いたトーン。
想像していたよりもずっと心地よく、私の鼓膜に馴染む声だった。
「はじめまして……だよね?」
「ふふ、そうだね。なんか変な感じ」
彼女が笑う。その笑い声を聞いた瞬間、私の中にあった緊張は解け、代わりに温かい光のようなものが胸に灯るのを感じた。
彼女の笑い声は、私に元気をくれる。
話した時間は、たったの5分程度だったかもしれない。
けれど、その5分間で、私たちは文字だけの関係から、互いの温度を感じられる関係へと変わった。
電話を切った後も、耳の奥に彼女の声が残っていた。
もっと話したい。もっと彼女を知りたい。
一気に彼女が近くなった気がした。
これが、私たちの長く、そして切ない5年間の物語の、本当の始まりだった。
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