その夜、境界線が曖昧になって。
緋室井 茜音
第1話
グラスが空く音が、少しだけ遠くで響いた。
誰かの笑い声。ジョッキを置く音。乾杯の輪の真ん中で、私はただ、笑っているふりをしていた。
送別会──だったはずだ。四年の卒業を祝う、サークルの最後の飲み会。
部長も来ていた。ずっと、好きだった。誰にも言ってないけど、たぶんバレてたと思う。
そして今日、ちゃんと振られた。やんわり、丁寧に、『後輩としてしか見られない』って。
その優しさが、やけに寒かった。
「
隣で後輩がピッチャーを持っていた。見たことある顔だけど、名前が出てこない。
「……あ、ごめん。もう、ウーロンで」
笑って誤魔化したけど、声が少しだけ掠れていた。
誰かがグラスを重ねる音。テーブルに水滴が落ちるのを、ぼんやり眺める。
終電、そろそろじゃない?──そんな声が聞こえて、私はやっと立ち上がった。上着を掴む手に、ちょっとだけ力が入った。
帰る意味も、帰る場所も、よくわかんなくなってたけど。
◆
駅前の時計が、0時15分を指していた。
人はまばらで、風が頬を撫でていく。春なのに、夜はまだ冷たい。
スマホの画面に「最終電車:終着済み」の文字が浮かんで、私はちいさくため息をついた。
……やっちゃった。
タクシー……高いよな。ネカフェ、このへんにあったっけ。
足だけが、なんとなく歩き出す。
そのとき。
「──先輩?」
不意に名前を呼ばれて、顔を上げた。
黒縁のメガネ、ゆるい髪型、パーカー姿。
さっきの席でも、ちょっと離れたとこに座ってた気がする。
「……倉田くん?」
「っす。電車、もう終わってますよね」
「……うん。気づいたら、こんな時間だった」
「自分はここから歩き圏内なんで、電車使ってないっすよ」
ああ、そうだった。
彼はたしかこのへんに住んでるって、誰かが言ってた。
それにしても──さっきまで、けっこう飲んでたよね? 生中にレモンサワー、あと日本酒も回ってたはず。
それなのに、顔色ひとつ変えずに真っ直ぐ立ってるの、なんかズルい。
「これから、どうするんすか?」
「どうって、そりゃあ……寒いし……とりあえず、ネカフェとか……?」
「ネカフェ、女性一人で行くの、危なくないすか?」
……あんたが言う?
思わずツッコミそうになって、飲み込んだ。
「……うち、来ます?」
一瞬、何言ってんのって思った。
でも、彼の目はふざけてなかった。
「変な意味じゃなくて。鍵も二個あるし、部屋、そんなに狭くないんで。あと、布団も──あ、それはなんか逆に変っすね……?」
慌てて付け足すその姿に、ふっと力が抜けた。
さっきまでの私なら、絶対断ってた。
年下男子の家に、しかも夜に行くなんて。
でも──今日は、ちょっとだけ、壊れてた。
何も考えたくなかった。
「……じゃあ、少しだけ」
自分でも、どうしてそう言ったのかわからなかった。
ただ、その夜風だけは、やけに優しかった。
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