その夜、境界線が曖昧になって。

緋室井 茜音

第1話

 グラスが空く音が、少しだけ遠くで響いた。

 誰かの笑い声。ジョッキを置く音。乾杯の輪の真ん中で、私はただ、笑っているふりをしていた。

 送別会──だったはずだ。四年の卒業を祝う、サークルの最後の飲み会。

 部長も来ていた。ずっと、好きだった。誰にも言ってないけど、たぶんバレてたと思う。

 そして今日、ちゃんと振られた。やんわり、丁寧に、『後輩としてしか見られない』って。

 その優しさが、やけに寒かった。


 「さかきさーん、次いきます?」


 隣で後輩がピッチャーを持っていた。見たことある顔だけど、名前が出てこない。


「……あ、ごめん。もう、ウーロンで」


 笑って誤魔化したけど、声が少しだけ掠れていた。


 誰かがグラスを重ねる音。テーブルに水滴が落ちるのを、ぼんやり眺める。

 終電、そろそろじゃない?──そんな声が聞こえて、私はやっと立ち上がった。上着を掴む手に、ちょっとだけ力が入った。

 帰る意味も、帰る場所も、よくわかんなくなってたけど。



 駅前の時計が、0時15分を指していた。

 人はまばらで、風が頬を撫でていく。春なのに、夜はまだ冷たい。

 スマホの画面に「最終電車:終着済み」の文字が浮かんで、私はちいさくため息をついた。

 ……やっちゃった。

 タクシー……高いよな。ネカフェ、このへんにあったっけ。

 足だけが、なんとなく歩き出す。

 そのとき。


「──先輩?」


 不意に名前を呼ばれて、顔を上げた。


 黒縁のメガネ、ゆるい髪型、パーカー姿。倉田悠翔くらたゆうとくん──サークルの二年生の後輩。

 さっきの席でも、ちょっと離れたとこに座ってた気がする。


「……倉田くん?」

「っす。電車、もう終わってますよね」

「……うん。気づいたら、こんな時間だった」

「自分はここから歩き圏内なんで、電車使ってないっすよ」


 ああ、そうだった。

 彼はたしかこのへんに住んでるって、誰かが言ってた。

 それにしても──さっきまで、けっこう飲んでたよね? 生中にレモンサワー、あと日本酒も回ってたはず。

 それなのに、顔色ひとつ変えずに真っ直ぐ立ってるの、なんかズルい。


「これから、どうするんすか?」

「どうって、そりゃあ……寒いし……とりあえず、ネカフェとか……?」

「ネカフェ、女性一人で行くの、危なくないすか?」


 ……あんたが言う?

 思わずツッコミそうになって、飲み込んだ。


「……うち、来ます?」


 一瞬、何言ってんのって思った。

 でも、彼の目はふざけてなかった。


「変な意味じゃなくて。鍵も二個あるし、部屋、そんなに狭くないんで。あと、布団も──あ、それはなんか逆に変っすね……?」


 慌てて付け足すその姿に、ふっと力が抜けた。

 さっきまでの私なら、絶対断ってた。

 年下男子の家に、しかも夜に行くなんて。

 でも──今日は、ちょっとだけ、壊れてた。

 何も考えたくなかった。


「……じゃあ、少しだけ」


 自分でも、どうしてそう言ったのかわからなかった。

 ただ、その夜風だけは、やけに優しかった。

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