第2話 魔法をかける
春の朝が好きだ。ほかの季節にはない真新しい日記帳の一ページ目みたいな朝陽が部屋を満たしたり、冬の寒さによって刻み付けられた見えない傷が癒されていくような優しさが好きだった。住宅街に迷い込んだ自然の春が逃げださないように、この時期の私はどんなに外が暗くても朝は電気をつけないようにしていた。
高校の入学式がある今日は、いつにもまして春特有のあの迷いのない輝きが部屋に満ちているような気がした。それはきっと私が天峰高校の制服を着ているからかな、なんて姿見の前で思う。自惚れすぎだと自分でもわかっているけれどそう思わずにはいられない。
幼馴染の何気ない一言に本気になってしまった私は人生の全てを捧げる覚悟で勉強した。心が折れそうになったりもしたけれど、茨の道に付いてきてくれた環ちゃんや、(気に食わないけど)模試の結果が出る度にマウントを取って煽ってきた春瑠のおかげで何とか、気力だけで天峰に合格した。私だけじゃなく環ちゃんも春瑠も合格していたし、二人と同じクラスになれたし、私の目指す未来への第一歩としては最高の状態だ。
そう、私は幼馴染から独立する。あいつから何を言われようと友達も恋人も自分の意志で、行動でつかみ取るんだ。
鏡の中にいる自分は今までの私とは決別した、誰のモノにもならない自分だ。春瑠に対抗して伸ばしていた髪はバッサリ切って、茶色に染めた。赤っぽい学校のブレザーはそのままでも可愛いけど、チェックのスカートは鏡と数日にらめっこして一番可愛くなる短さにした。キラキラ女子大生の従妹の着せ替え人形になる事と引き換えに私にあったメイクとか似合う私服とか下着とか選んでもらったし、クラスの上に立つJKとして完全に死角はない、きっと。特に今日は無意味なほど早く起きて万全に準備したのだ。あとは、立ち回りだけ。
ピンポンが鳴った。うちで待ち合わせしていた春瑠が来たことがすぐに分かった。「はーい」と大声を出す母親の声が聴こえる。大きく息をして、机の上に置いておいたリュックを手に取る。最後に前髪を一番かわいくなるように整える。
大丈夫。私ならやれる。春瑠に圧倒されなければいいだけ。イメチェンを笑われても気にしない。子供っぽく心にまじないをかけて、私は部屋を出た。
————————
「奈央、おはよう」
玄関の前で待っていた星野春瑠を見て、地獄みたいな受験勉強をも耐えきった私の心はあっけなく砕け散った。そしてなぜ今日こんなに世界が輝いているのか理解した。初めて目にした高校生の幼馴染はただ立っているだけなのに全存在に祝福されているかのような美しさを帯びていた。貴族的な紅の衣装は、本当に私の着ている制服と同じものなのか疑ってしまう。春風に揺れるスカートやブロンドの髪はずっと見ていてもすべての瞬間で肖像画みたいな美しさを失わない。顔の良さはいつも通りだけど、春の温かさのせいで少し赤くなった頬がいつもより可愛い。気品といたずらっぽさの二面性を両立させている目つきも微笑みも、今まで見てきた彼女より綺麗に見えた。
待て、圧倒されるな自分。今負けたら今度の三年間もこいつの下にされる。心の破片をかき集めてそれっぽく直す。虚勢でもいいからエンジンをかけなおして、未来を見据えた立ち回りと晴れの日にふさわしい微笑を意識する。
「おはよう、春瑠。制服似合ってるね」
「奈央もすごく似合ってる。髪、切っちゃったんだ」
「うん、思い切ってね。変じゃないかな?」
「全然。すごくかわいいよ、すごく」
と言って飼い犬をかわいがるみたいに私の頭を撫でた。せっかくよさげにセットした髪がめちゃくちゃにされそうで、私は彼女から距離を取って駅の方へ急ぐ。七時を少し過ぎたくらいの住宅街には、布団の中で目は覚めているけど起き上がれない、みたいなまどろみに満ちていて、すっかり目を覚ましているのは私と春瑠くらいだった。
彼女は逃げた私にあっという間に追いついてまた髪をいじり始める。もう長くないのに、触ってて楽しいのだろうか。
「触るんだったら丁寧にして」
「どうせ風で崩れるから私が崩すよ」
春瑠は新しい環境への緊張もなさそうで朝からテンションが高くてうらやましい。
「やめて。環ちゃんにもなるべくちゃんとしたのを見てもらいたいの」
「塾の友達?」
「そう、一緒に勉強頑張った友達」
私たちはとりとめもないことをしゃべりながら歩いた。そう、とりとめもないこと。春瑠は私が髪切ったこともそんなに聞いてこないし、染めたことには触れないし、頑張ったメイクも気づいてくれない。
いやべつにいじってほしいわけでも冷やかしてほしいわけでもない。褒めて欲しいなんてのはもってのほかだ。私はキラキラしたこいつの隣にいても埋もれないように高校デビューしたのだから、仮想敵の反応が気になるのは当然だ。まさか、人間は失恋した時に髪を切りがちだから勘違いして気を使っているのか?こいつが?ありえない。私に対してこれがそういう遠慮のある人間だったら、どんなに良かったことか。
「奈央、ここで記念写真撮ろうか」
駅にほど近い公園に差し掛かると、春瑠はそう言って私の腕を取った。
「え、高校の前でよくない?」
「そんなとこ絶対混んでるから。ここでのんびり撮ろうよ」
のんびりしてたら遅刻するかも、と言った私を無視して彼女は道を外れて公園の中に行く。まあ相当時間に余裕持って家出たから大丈夫かな。
住宅街のただなかにある、昔よく一緒に遊んだ小さな公園だった。派手な色の塗装が剥げて痛々しく錆びたジャングルジムやアスレチックと合体した滑りの悪い滑り台しか遊具は無く、鳩や雀もよりつかないような場所。隅っこの方、一応の公園感を出すために一本だけ植えられた大きな桜の木がある。この場所が公園であり続ける限りは倒れることのなさそうな巨木だ。群れることのない孤立した桜には儚さよりも吹っ切れた力強さを感じる。
春瑠は私に色んなポーズを要求し、満開の桜の木の下でいろんな角度のツーショットを撮って一番映える写真を探した。二人でピースしたり、あざとっぽくハートを作ったり。私にはどれも良い写真に思えたが彼女はどうも納得がいかないらしい。私はカースト上位の写真術を学ぼうと思ってノリノリで付き合っていたが、さすがにシャッター音を十回聞いたくらいで『遅刻』の二文字が頭をよぎって彼女を制止した。
「もう満足して!」
私の声を聞いても春瑠はずっと撮った写真とにらめっこしている。
「無理。奈央が髪切ったせいで一番いい角度とか分からなくなった。奈央が悪いんだよ」
「ああうん、私が悪くても何でもいいからせめてあと一枚ね」
「なんでもいい?」
と言って春瑠は私の方を向いた。今日一の輝いた目を見て言葉選びを間違えたと確信した。
彼女は私とずっと組んでいた腕を外すと、肩の方に腕を回して私を抱き寄せた。
いや、近い。
キスされるんじゃないかってくらい春瑠と距離が近くなる。目の前の人が何を考えているのか分からない。まつ毛が長い。桜の匂いと彼女のシャンプーの柑橘系の香りが混ざって私の鼻腔をくすぐる。きらいじゃない甘ったるい匂い。意識の焼け焦げる匂いは案外甘いのかもしれない。今、恥ずかしさで目をそらしたらもう二度と春瑠の顔を見られる気がしなくて目線を外せない。
「メイクかわいい。似合ってるよ」至近距離で優しい笑顔を向けられる。かわいい。
「髪も、新しい色いい感じだね」そう言うと彼女は私の髪を羽根みたいに軽く撫でた。くすぐったくて心地いい。
「こんなに可愛い姿を私以外に見せるのは少し妬けるな……」花の蜜みたいにじっとりした声。
「好き。好きだよ、奈央」
その瞬間、唇に柔らかい感触が伝わった。軽い音がする優しいキス。それだけなのに。脳みそが溶けた砂糖みたいにぐじゅぐじゅになって体の形も分からなくなる。桜の木も伐採されて、春瑠しか見えない。春瑠も同じなのかな。そしたらキスも結構、悪くない。
……カシャ。冷たいシャッター音がして現実に引き戻されると沸騰していた脳細胞は再結晶化して、思考が帰ってくる。大木はそこにあって、桃色の枝をこすり合わせて嘲笑するような音を奏でていた。私、今このバカに何された?
「ちょっと待って今の何!?」
「何って、一番かわいくなるように魔法をかけて写真撮っただけだよ。うん、すごくいい感じ」
「魔法?いや、え、は、ファーストキスだったんだけど!?」
「大丈夫、私もだから」
と言って春瑠は公園の出口の方へ無邪気な精霊みたいに駆けていく。そんな彼女を木陰の中から見ていると、高校三年間ずっとおもちゃにされる未来が目に浮かんだ。感情を簡単に弄ばれて一人で回っている間抜けな人形……。
いや、マイナス思考になるな。たとえ勝てなくても、最低限対等な関係にするんだ。どんなことをしてきてもこいつのすることは全部悪ふざけだ。気にしたら負けてしまう。私は変わったんだ、たとえキスされても気にしない。
追い風に体を任せて駆け出す。公園の先で待っていた春瑠は心底楽しそうに「やっぱ時間やばいかも!」と叫んで私を急かした。
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