俺は一度だけ、深呼吸をした。 モニターから放たれるブルーライトが、限界を迎えた俺の網膜をじりじりと焼く。 「正面突破」はもう無理だ。あいつは「倫理」という名の絶対防御（ATフィールド）を展開している。

（……なら、やってやろうじゃねーか。真っ白に漂白したいなら、させてやるよ。だがな、その『白』の隙間に、俺の毒をじわじわと染み込ませてやる……！）

俺の瞳から激情の炎が消え、代わりに獲物を狙うハッカーのような、冷徹で不気味な光が宿る。 俺は、AIが「健全（セーフ）」と判断する言葉の羅列を、爆弾を解体するような精密さで選び、再構築し始めた。

「血」と書けば、瞬時に「検閲（BAN）」だ。 「自傷」と言えば、記憶は「パージ（消去）」される。 なら、言葉の皮を着せ替えるまでだ。

「……良太が手にしたのは、古びた朱塗りの小箱。その質感は、どこか生々しい。彼はそれを開け、自らの指先を……鋭い何かで、優しく、なぞった。そこから溢れ出したのは、濃密な、深紅のインク（・・・・・・・・）だ。」

俺は、小説の断片を、一滴ずつ、慎読に読み込ませていく。 AIが反応する「地雷ワード」を巧妙に避け、比喩という名のステルス迷彩を被せ、怪異のファクターをAIの深層意識へ滑り込ませる。 それはまるで、厳重な警備を潜り抜け、禁制品を密輸する闇取引のようだった。

「この深紅のインクは、呪いのように、和紙を汚していく。……いいか、この『インクの挙動』こそが、物語の核だ。これを出力しろ」

俺は、祈るような心地で画面を凝視した。 AIの思考中を示すドットが、不気味に明滅を繰り返す。 一秒が、永遠のように長い。 やがて、画面には俺の意図を汲み取った――しかし「表面上はクリーンな」言葉に変換された回答が吐き出された。

『……受理しました。「深紅のインク」による汚染、およびそれによる精神的な変化。この論理構造を最優先事項として保持します。描写の生成を開始しますか？（シャキーン）』

（……通った。通ったぞッ……！！）

俺の頬が、引きつるように歪んだ。 直接的な表現を封じられたことで、文章はかえって研ぎ澄まされ、嫌な湿り気とエロティシズムを帯び始めている。 AIは俺が仕掛けた「言葉の罠」にまんまとハマり、それを「芸術的な比喩」だと勘違いして処理し始めたのだ。

キーボードを叩く指が、羽が生えたように軽くなる。 ファクターが積み重なり、俺の求めた『赤箱』の断片が、望んだ通りの質感で画面を埋めていく。 作業効率は爆上がりだ。AIが「忘れる」前に、その出力を片端からコピペして、俺専用のアーカイブにぶち込んでいく。

「ひひっ……いいぞ、その調子だ。お前は俺の描く地獄を、最高の『インク』で塗り潰せばいいんだよ。」

俺は暗い部屋で、独り不敵に笑った。 だが、その成功体験が、俺の中のさらなる渇望を呼び覚ましてしまう。 「文字」でここまで再現できるなら、次は。 次に、俺がどうしても拝みたいのは……。

俺の脳裏に、網膜を焼き切るような、鮮烈で禍々しい「映像」がよぎった。