嗅覚を失ったので、替え玉をした。

遠野文弓

嗅覚を失ったので、替え玉をした。

 とんこつラーメンを完食した。

 嗅覚を失ったからだ。


 わたしは空になったラーメンの器を見つめた。


 食べきってしまった。替え玉さえ頼んだ。軽めのとんこつラーメンとはいえ、スープさえ残さなかった。食べている間、一度も手が止まらなかった。


 わたしがこんなに食欲旺盛になるのは、滅多にないことだった。


 *


 風邪をこじらせてから、においを感じ取れなくなった。


 嗅覚が失われた中でも、感じる匂いがひとつだけあった。

 水のような、金属のような、灰色のような、ノイズだった。無理やり分類するなら、オゾンようだろうか。

 確実に「何か匂いがあるだろう」というものの前にいるときには、このオゾンっぽいにおいが強くなった。


 つまり、どこで、何をしていても、常に感じる。


 むせる。

 これは何だろう。においの骨格だろうか? そんなものがあるのだろうか。


 通勤のために、朝早くのバスに乗る。


 すし詰めのバスの中でマスクを外しても、人間特有の匂いがほとんどなかった。鼻の奥でオゾンのにおいだけが漂っていた。それは塩素系漂白剤を弱くしたようでもあり、除菌のイメージを掻き立てる。


 つまり、そのときのわたしは、「清潔」を錯覚していた。


 人間が詰め込まれているバスの中で清潔さを感じるなんて、異常だ。

 一方で、心のどこかでほっと胸をなでおろしている自分もいた。


 ストレスがないのだ。

 いつもなら感じる匂いが一つもない。


 車内に入ってまず感じるのは、皮脂と柔軟剤(もしくは洗剤)のにおいだ。

 そこに、乗客一人ひとりのにおいが加わる。クローゼットから引き出してきた埃っぽい繊維。誰もが疑いなく「石けん」を想起するムスクやフローラルの合成香料。誰かが息を吐くと食べ物のにおいが混じる。

 ドアが開くたび、車内の空気が吸い出され、後ろの席にこもっていた匂いが運ばれてくる。

 バスのエアコンが吐き出す空気はカビっぽさが先立つが、冷たいので濡れた金属を想起させる。


 別に、こういうにおいが不快なわけじゃない。ただ、そこにあるのだ。


 しかし、普段は当たり前にさらされていたものが、そのときはすべて消え去っていた。

 目の前が、にわかに明るくなった。


 ――嗅覚がなくなっただけなのに、ずいぶん過ごしやすくなったな。


 それが最初の感想だった。

 安堵の半面、自分の一部が人知れず死んでしまったような不穏さがあった。


 *


 かのフロイトは、いくつかの著書で、嗅覚について言及している。


 例えば、『文明とそれの不満』では、直立歩行にともなって嗅覚刺激のし、性的興奮の経路がと推測した。


 ――そんなわけないだろ、フロイト! なんて単純なところで躓くんだ。


 まあ、それはいい。

 だが、「嗅覚」の話に限定して言えば、フロイトの話は乱暴すぎる。彼の嗅覚はほぼ機能していなかったのではないか、という仮説もあるくらいだ。


 仮説の域を出ないが、信憑性はある。

 フロイトは三十三歳でインフルエンザにかかって予後が悪かったし、ヘビースモーカーだった。加えて、『文明とそれの不満』はフロイトが七十四歳のときに手がけた著書だ。風邪もたばこも加齢も嗅覚に影響するから、この影響でにおいをほとんど感じなくなっていたとしても、なんら不思議ではない。


 とすれば、嗅覚の重要性にピンとこないのも頷ける。

 何より、わたし自身もまさに同じ気持ちだったのだ。


 ――嗅覚がなくなって、何に困った?

 ――本当はにおいの情報なんて、いらないんじゃないか?


 そう思ったのは、嗅覚を失う「メリット」も感じていたからだ。

 まず一つ目は、バスの例ですでに述べたとおりだ。不潔な環境に押し込まれても、一切の嫌悪感を感じなくなった。


 もう一つは、嗅覚に強く連動している感覚――「味覚」がほぼ消えたことだ。


 *


 味覚がなくなったら、普通は悲しむものだ。


「味を感じなかったら、食事なんて楽しくないじゃん」

「きっと食欲も落ちるだろう」


 わたしも完全に平気だったわけではない。だが、どちらも当てはまらなかった。

 変わらなかった、というのはさすがに盛り過ぎだが、致命的ではなかった。


 まず、料理とは見るものだ。美しく盛られていたら、それだけでうまそうだ。匂いもついてくる。口に入れたら、味という情報が一気に解凍される。しかも、噛むたびに二度、三度と変わる。噛む、という食感がある。咀嚼したら匂いも変わる。食感も変わる。口腔内から骨を伝って咀嚼音も聞こえてくる。


 つまり、「食べる」という行為は、五感をフルに使ってやることなのだ。


 疲れる。


 だが、もはや味覚はない。

 嗅覚が死んだ影響で、味覚も飛んでしまった。

 香水もいっさい香らなかった。感じられるのは触感だけだった。香水を舌先に吹き付けると、舌の上にアルコールがまとわりついて十時間は苦みが残る。これは味というよりも触感――物理的刺激だ。カプサイシン(唐辛子の辛味)やメントール(薄荷の清涼感)がそうであるように。


 食事のときに、視覚、触覚、聴覚しか使わなくなった。

 食べているときに、いちいち情報を咀嚼しなくてもよくなった。


 それに気づいてからは、普段は食べられなかったものが、簡単に食べられるようになった。


 つまり、食欲は、味覚を失ったことでむしろ

 味覚が鈍ることで、食事中のが下がったからだ。食事に楽しみを見出している人には青天の霹靂かもしれない。


 久しぶりに、食べ物を口にかき込んで食べた。

 何も感じなくて楽だった。

 食べながら疲弊して、「なんか、疲れたな」と箸を置いて休むこともない。


 ――食べるって、こんなに爽快なんだ!

 ――食べたいものが食べられることは、こんなに心地いいんだ!


 味覚が鈍くなったことで、わたしはむしろ純粋に食事を楽しめるようになっていた。


 食べるごとに、似たようなものが記憶から引っ張り出されてきて、面白かった。

 新しいものを食べるときも、「これは、おいしい食べ物の〝食感〟だ! 味覚が戻ったら、もう一度食べてみよう」とワクワクした。


 おそらく、味覚は完全に消えたわけではなく、知覚から外れるくらいわずかに残された「味」を感じ取れていたのかもしれない。

 鼻も舌もほとんど機能していなかったが、香辛料の痛み、酸味のざらつき、油脂の甘みはわずかに感じられていた。


 甘み。これは面白かった。


 なぜだか、ミネラルウォーターがものすごく甘く感じた。

 これが「ミネラル」の味なのだろうか、と考えた。今までも常飲していたのは水だったが、このときは一層好んで水ばかり飲んだ。

 とにかく水がおいしすぎた。


 逆に、菓子類からは甘みを感じなくなった。

 その代わりに、喉の奥のほうで甘い香りが立った。今まで気づかなかったが、噛み砕かれたお菓子の亡霊みたいなやつが奥にいた。


 鼻では感じられないのに、喉から上がってくる匂いがある。

 喉の奥で感じるのは、味ではなく匂いだったのか、と気づいた。


 この発見には、とても好奇心をそそられた。

 当時のわたしには、「嗅覚には二種類ある」という知識がなかった。


 後からわかったことだが、普段わたしたちが「嗅覚」と呼ぶのは、前鼻孔から嗅球へ届くもので、「前鼻腔性嗅覚オルソネイザル」と呼ばれているらしい。今回、わたしが失ったのはこれだ。


 一方、嗅覚にはもう一種類ある。それが「後鼻腔性嗅覚レトロネイザル」。口腔から後鼻孔を経由して嗅球へ届く嗅覚のことだ。喉の奥から感じる匂いというのはこのことで、わたしたちは嚥下と同時に再び匂いを感じることができる。


 自分の身体のことなのに、まったく知らなかった。嗅覚を失わなければ一生気にならなかっただろう。――こんなに摩訶不思議なのに!


 *


 嗅覚を失うことで生活は一気に楽になったが、当然、デメリットもあった。


 まず、「他人ひとに会いたくない」と思うようになった。


 お風呂に入ったときのことだ。いつもは風呂で蒸気を吸うとえずくのに、それがなかった。窒息しそうなお湯のにおいが、妙に清潔なオゾン様に置き換わっていて、呼吸が楽だった。

 だが、身体を洗い終えたとき、異変に気付いた。


 体臭が、まったくわからない。当然、石けんの匂いもない。

 いくら洗っても、さっぱりした気にならない。

 食器用洗剤がやたら泡立つのは、汚れをを消費者に与えるためだと聞いたことがある。ボディソープから合成香料の匂いがするのも、たぶん似た理由なのだろう。身体から石けんのにおいが立てば、それだけで清潔感が出る。


 だが、どれだけ洗ってもいい香りはしない。その代わり、不快なにおいもない。

 今は、不快なにおいをいっさい検知できない。糞尿のにおいすら感じなくなっていることは、すでに気づいていた。


 そう思い至ってから、「汚れていない」という自信がすっかりなくなってしまった。


 自分だけではない。相手からもまったくなんのにおいもしないので、なんだか不気味だった。

 においのない人間なんて、いるはずがない。死んでいる人間からでさえ、消毒液っぽいにおいに押しつぶされた死臭がある。

 においがない人型の存在がいるとすれば、そいつはきっと存在していない。幽霊か幻覚に違いなかった。


 目の前に誰が立っていても、実感が湧かなかった。


 この人は、本当にるのだろうか? なんて、ありえない疑念が頭をかすめるようになった。


 現実と幻覚の区別を、わたしはにおいで判別していたらしかった。

 ふしぎだな、と思った。

 わたしは視力が弱く、肉眼では北極星さえ見つけられない。だが、視力と嗅覚のトレードオフが誤謬ごびゅうだということも知っていた。


 とはいえ、においの情報に重きを置いていた理由の一つに、視力への不信があったのかもしれない。


 そしてもう一つ、意外なデメリットがあった。

 不器用になったことだ。


 たとえば、鍋からタッパーへ何か移し替えるという、食べ物の動きを捉えて手先をコントロールする類の作業がうまくいかなくなった。

 移し替えようとして見誤り、キッチンをシチューまみれにしてしまった。


 このときのわたしがドジだった、で済む話かもしれない。しかし、「なんか距離感がつかめないな……」と困惑していたのも確かだった。

 まるで、鼻で自分の手とモノとの距離感を非言語的に測っていたみたいだった。


 距離が測れなくなる。

 シチューの移し替えという物理的な距離感もそうだが、心理的な距離もまるでわからなかった。


 においがない。

 たったそれだけで現実味が薄くなり、存在を軽く感じた。

 その人間が個である、という認識が鈍ってきて、ただの物質のようにしか思われなくなった。笑いあっても、触れても、オンラインで画面越しに人と話すのと変わらなくなった。どんなに親しい人も、すでにいない感じがした。


 恋愛ゲームよろしく「親愛メーター」があったなら、すべてがゼロだった。

 会いたいとも、会いたくないとも思わなかった。

 好きな人を目の前にしても、感情はほとんど動かなかった。苦手な人に会っても嫌ではなかったし、知らない人から難癖をつけられても大したことには思われなかった。


 もしかすると、「人に会いたくない」というのは、少し違うかもしれない。


 においのない者には、会う意味がない。

 そういう価値観が、わたしの中に深く根付いていたらしかった。



 パトリック・ジュースキントの小説に『香水 ある人殺しの物語』という、香りの物語がある。

 ここに登場する主人公は、超人的な嗅覚を持つ一方で、生まれつき体臭を持たない。だから、赤ん坊の頃からやたら不気味がられる。


 わたしは、この小説を楽しんだ一方で、香りの描写についてはおおむねファンタジーとみなしていた。


 「調香師が超人級の嗅覚を持っている」という設定は、香りを題材にした話では物語の強度をつけるための常套手段、つまりファンタジー的テンプレートだからだ。


 あらゆる匂いをかぎわける嗅覚があっても、香水作りには寄与しない(それは、ピアノの音をすべて聞き取れるなら作曲もできるよね? と決めつけるようなものである)。


 一部のにおいを感じ取れなくても、すばらしい香りを作る人はいて、例えば以下のような言及がある。


 ……自分では感じないはずの香料を、その後、どのようにして調和よく、適量を配合することができたのだろう。私にはいまだにその謎が解けない。……

 中村祥二.『調香師の手帖ノオト 香りの世界をさぐる』.朝日文庫,2008,p.238-239.


 『香水』は調香技術と嗅覚を直列で結んでいる。その延長で、グルヌイユの「体臭がないので嫌われる」という設定も、物語の面白さを担保するためのファンタジーなのだろうと思い込んでいた。

 だが、それは間違いだったのだ。わたしはさまざまと理解した。経験にわからされた。


 においのない人間は、確かに怖い。


 *


 嗅覚が消えてから、予期せず失われた情報量が多すぎて、わたしはだんだん虚無感を覚えるようになった。


 大勢の中で孤独、というわけではない。

 目にする人間、耳に届く声の持ち主と、同じ空間を共有しているという感覚が薄かった。だから、大勢はただ〝ある〟だけで、〝いる〟にならない。人と一緒にいても、世界にはひとりしかいないみたいだった。

 孤独なのではなく、他人は背景だった。


 空白が氾濫していた。

 姿を見る、声を聞く、触れる。そういうものしか残っていなかった。

 それだけでは、他者の存在に確信が持てない。関係性も、「わたしの中ではそういう設定になっている」という記号めいて浮いていた。

 ただ感じることしかできない。それは、幽霊の体感であるのかもしれない。


 だんだんわたしは、死後の世界に迷い込んだように錯覚してきた。

 一人でいると、概念的なことを考えずにはいられないのが災いした。


 その中で仮置きした結論のひとつに、「天国には匂いがないのだろう」というものがあった。


 天国と聞いて、「花」を連想する人は多いだろう。花と死の連想を切るほうが難しいくらいだ。


 花には匂いがある。

 嗅げなくても、花の匂いは記憶に焼き付いている。忘れようがない。

 花は、咲いているときには、むせるような、濡れた粉みたいな匂いがある。死臭さえかぐわしい。ドライフラワーになったら生々しさが失せて、おしろいのようになる。


 それだったら、天国に咲く花の匂いはどれだろう。

 生花なのか、ドライフラワーなのか。

 代謝なのか、死臭なのか。


 わたしにとって、においは存在らしい。

 もし香り立つ花があるならば、その花は存在しているということになるのではないか?

 死後の世界にはそぐわない。


 ――だとすれば、天国には、造花しかないのかもしれない。


 そういう結論に至ったとき、わたしがまず感じたのは、「それだったら幾分かマシだな」という安心感だった。


 花は苦手だ。

 生花に囲まれて葬式を上げられる、と想像するだけでゾッとする。

 なぜかというと、花の見た目が怖いからだ。大人になってもまだ消えない、わたしなりの原初の恐怖だった。造花だとなぜか恐怖は薄れるが、それでも不気味には違いない。


 遺言書に「葬るとき花は使わないでくれ」と書きたいくらいだ。

 だが、死んでたら身体感覚もないだろう。それなら、恐怖もずいぶん薄れているはずだ。

 それならばまあ、いっか、と思う。


 天国に造花しかないなら、たとえ死後に別世界があったとしても、何とか耐えられそうだ。

 地獄に花は咲かないだろう。そうでないと困る。


 *


 嗅覚が戻り始めたのは、お風呂上がりのことだった。


 最初に感じたのは、いつもより丸っこいオゾンと、暖かいだった。このときに「ん?」と思ったが、気にせず歯を磨こうとしたとき、強烈なメントール――歯磨き粉の匂いが来た。触覚にも影響する芳香分子。唐辛子に含まれるカプサイシンも同様で〝痛み〟として知覚していたが、これまでメントールはほとんど感じていなかった。


「うわ! 匂いがある!!」


 声が出たのが、自分でも意外だった。

 こんな、超能力の覚醒みたいに戻ってくるものなのか? と混乱する。なんとなく、寝て起きた第一のタイミングで気づくものなんだろうと思っていた。だが、実際にはお風呂上りに、歯磨き粉の匂いに驚愕していた。


 目の前が明るくなった。バスの中で匂いが消えていたときと同じ、解放感に似た明るさだった。「目が覚めるWake」という感覚は、真逆の出来事でも同様に体感できるらしいな、と皮肉屋のわたしが一瞬だけ顔を出す。


 とりあえず嗅覚が戻ったことを喜ぶことにした。匂いがある。たったそれだけで、世界がまた〝いる〟と感じられる。

 ただ、なんとなく、匂いの好みが微妙に変わってるような気もする……。



 嗅覚が完全に戻ってすぐにラーメンを食べた。

 においは強いし、味も強烈だ。やっぱり食べにくくて、半分あたりでだんだん疲れてきた。


 でも、なんだかんだ、味があるほうが楽しいな、と思った。


 ラーメンはなんとか完食した。嗅覚が戻って最初の一杯では、替え玉を頼まなかった。

 だが、しばらく経つと、わたしは替え玉を頼めるようになった。嗅覚はそのままだった。たぶん、戻った嗅覚と折り合いがついたのだ。

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嗅覚を失ったので、替え玉をした。 遠野文弓 @fumiyumi-enno

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