第十二章:沈黙の実験室

 2029年。環境省から通達が届いた。

 『国立公園内の温泉源への影響を懸念し、今後3年間、一切の新規掘削を禁ずる。その間、地下水位のモニタリングを行い、非接続性を証明すること』


「3年……!? その間、指を咥えて見てろと言うのか!」

 現場は凍りついた。掘れない。発電所も建てられない。プロジェクトは死に体となってしまう。


 だが、慶と舞は諦めなかった。

 「発電所が作れないなら、実験をすればいい」


 雪深い現場の片隅に、奇妙なジャングルジムのような設備が組まれた。

 「オフライン・テストループ」。

 実際に発電するわけではない。既存の試験井戸から熱水を導き、あえて過酷な条件で流してデータを取るためだけの実験装置だ。


 そして、そこで彼らはさらなる絶望と出会うことになる。


「……ダメ。また閉塞したわ」

 舞が悲鳴に近い声を上げた。

 チタン配管の点検口を開けると、白い結晶がびっしりと詰まっていた。


「シリカスケール……」

 舞がその欠片を指でこすった。硬い。まるでガラスだ。

「濃度800ppm。普通の温泉の5倍以上。地上で温度が下がった瞬間、溶けきれなくなって石に戻るのよ」


 これでは、もし本番の発電所を作っても2週間で動脈硬化を起こして停止する。チタンで腐食を防げても、詰まってしまえばただのガラクタだ。


 対策会議は紛糾していた。プレハブ小屋のストーブの上では、やかんが空しく湯気を上げている。


「酸を投入するか?」

「ダメよ。これ以上pHを下げたら、今度はチタンの耐食限界を超えるわ」


「八神さん、本番では出力を落としましょう」

 エンジニアが提案する。「ゆっくり流せばシリカは固まりにくい。発電量は半分になりますが」


「いいえ」

 慶は即答した。

「フル出力だ。逃げれば負ける。……詰まるなら、詰まる前に捨てればいい」


「は?」


 慶はホワイトボードの前に立ち、一本の線を引いた。

「舞さん、シリカが『自分が冷えた』と気づいてから、実際に結晶化して固まるまでの時間は?」


「……今のテスト条件だと、約20分。地下の還元ポイントまで戻すには30分かかる。だから途中で詰まるのよ」


「それでは、15分で戻しましょう」


 慶は、配管の図面に赤ペンで書き込みを入れた。

「流速を倍にする。ポンプの出力を限界まで上げて、熱水をジェットコースターのように走らせるんだ。シリカが『あれ? 冷えたかな?』と迷っている間に、地下深くの熱い層まで叩き返す」


 「過飽和の遅延」。

 化学反応のタイムラグを利用して、固まる前に通過させるという荒技だ。


「そんな速度で流したら、配管が摩耗しますよ!」

「配管は消耗品だ。毎年交換すればいい。だが、井戸は資産だ」

 慶は冷徹に言い放った。

「投資家の金で、最高級の耐摩耗パイプを買う。その代わり、発電所は止めない」


 翌日、テストループの設定が変更された。

 猛スピードで熱水が駆け抜ける。1週間後、配管の中は新品同様に輝いていた。

 成功だ。この「おあずけ期間」があったからこそ、彼らは本番での失敗を回避できたのだ。


 さらに慶は、この3年間をもう一つの「営業」に使っていた。

 雪かきをする健太に、慶が声をかける。「健太さん、この町には『電気をガブ飲みする産業』が必要だ」


 時代はAI全盛期。世界中で電力不足が叫ばれていた。

「ゼロエミッション・データセンターだ」


 慶と健太は、掘削の止まった現場を背に、シリコンバレーへ飛んだ。

 『寒冷地で冷却効率が良く、地熱による再エネ100%の電力が、24時間安定供給される場所』。八幡平はそんな夢のような立地だ。

慶と健太は、掘削の止まった現場を背に、シリコンバレーへ飛んだ。相手は、世界を牛耳る巨大IT企業のインフラ責任者たちだ。慶は彼らに、八幡平の気温データと、地熱発電のスペックシートを突きつけた。


「ミスター・ヤガミ。なぜ東京でも大阪でもなく、日本の山奥(ハチマンタイ)なんだ?」  訝しげな担当者に、慶は流暢な英語で畳み掛けた。


「理由は二つあります。一つは『PUE(電力使用効率)』。八幡平の年平均気温は7度。冬は氷点下です。この冷たい外気を使えば、サーバー冷却にかかる空調コストを劇的に下げられます。シンガポールのデータセンターと比べて、運用コストは4割落ちる」


 担当者の目の色が変わった。 「そしてもう一つは、御社の悲願である『RE100(再エネ100%)』の達成です。太陽光や風力は天気任せですが、我々の地熱は24365日、安定したグリーン電力を直結で供給できます。これは世界でもアイスランドか、ここ八幡平にしかできない芸当です」


「……グリーンなベースロード電源と、天然の冷蔵庫か」 担当者がニヤリと笑い、握手を求めてきた。 「悪くない取引だ。上層部に伝えよう。『日本の山奥に、デジタルの楽園がある』とな」


 3年後。モニタリング期間が明け、環境省から「建設許可」が下りた日。同時に、大手IT企業による「八幡平データセンター」の建設決定がプレスリリースされた。


第十三章:遅れてきた震え

 そして2035年、春。

 プロジェクト開始から10年。ついに3万キロワット級の商用プラントが火入れの日を迎えた。


 初日の運転は順調だった。隣接するデータセンターへの送電も開始された。

 だが、深夜2時。

 システムが地下の微小な振動を検知した。

 『トラフィック・ライト・システム』が作動。危険信号「赤」と判断し、注水を自動停止した。


 それから6時間後。明け方。

 ズドン!! 突き上げるような衝撃。震度4。


「止めたはずだろ!?」

 管理棟に駆け込んできた健太が、慶の胸ぐらを掴んだ。

「システムは6時間前に止めてる! なのに、なんで今頃!」


「遅発地震だ……」

 舞が青ざめた顔でモニターを見る。

「注水を止めても、地下の圧力拡散はすぐには止まらない。圧力が時間差で断層に伝わり、滑らせたんだ」発電所のゲート前には、住民が詰めかけていた。「嘘つき!」「やっぱり悪魔の施設だ!」

 10年かけて築いた信頼が、崩れ去ろうとしていた。


 慶が前に出ようとするのを制し、舞がタブレットを持って群衆の前に立った。

「みなさん、聞いてください! この地震は『失敗』ではありません!」


「ふざけるな!」


「データを見てください! 震源における歪の数値です」

 舞はスクリーンを指差した。

「昨夜の揺れで、この断層に溜まっていた地殻エネルギーは、99%解放されました。これは、地下が最後に吐いた『ため息』です」


 舞は、震える声で告げた。

「私の計算が正しければ、これ以上の大きな揺れは、物理的に起き得ません。残留応力はゼロです。……もし、あと24時間以内に震度1以上の揺れが起きたら、私はエンジニアを辞めます。この発電所も廃炉にします」


 それは、地質学者の人生を賭けた予言だった。

 健太が前に出た。

「……剛田の孫が、職を賭けると言ってるんだ。一日だけ待とう」

 彼は住民たちを睨みつけた。

「ただし、もし揺れたら、俺が自分の手でここを燃やす。……いいな?」


 長い一日が始まった。

 データセンター側からも「電力供給は安定しているか」という問い合わせが殺到している。

 1時間、10時間、20時間。

 地震計の針は、ピクリとも動かなかった。


 そして24時間が経過した。朝が来た。


「……勝ったな」

 慶が呟くと、舞はその場に泣き崩れた。

 地下の歪みは抜けきった。これからは、安定した熱だけが供給される。

 それは、人間が本当の意味で、地球のご機嫌を飼い慣らした瞬間だった。

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