第十一章:374度の境界線
一年かけて地元合意を取り付けて、さらに二年後、ついに掘削が始まった。 最新鋭の掘削櫓が、唸りを上げて回転する。
現場の指揮所「ドッグハウス」。 そこは、泥と油の匂いがする現場の中で唯一、エアコンが効き、無数のモニターが並ぶ「頭脳」だ。
「深度2,500メートル。ここからカーブに入ります!」
ドリラーの報告とともに、地下深くにあるドリルの先端が、ゆっくりと東へ――国立公園の地下へ向かって首を曲げ始めた。 モニター上の青い線が、まるで血管の中を進む内視鏡のように、地下の岩盤を縫って進んでいく。
「見事ね……」 舞は息を飲んだ。 かつて祖父・源三が「ここにはある」と信じながら、法的な壁に阻まれて触れることのできなかった領域。そこへ、現代の技術が音もなく侵入していく。
だが、深度3,800メートルを超えたあたりだった。平穏だったモニターの波形が、不規則に乱れ始めた。
「おい、マッドが増えてるぞ!」 監視員の鋭い声が響いた。
「増えている? 送り込んだ量より戻ってくる量が多いのか?」慶がモニターを覗き込む。 地熱掘削では、常にパイプの中に特殊な「泥水」を循環させている。この泥水は、削った岩屑を運び出す血液であると同時に、その重みで地下からのガス噴出を押さえつける「重し」の役割も果たしている。
その泥水が、タンクから溢れそうになっていた。 それはつまり、「地下から何かが押し入ってきている」ということだ。
「キック(噴出の前兆)だ! 押し返せ!」
現場に警報音が鳴り響く。 地下深くの高圧流体が、泥水の重みに打ち勝ち、井戸の中に侵入を開始したのだ。 これは、お風呂の水が溢れるのとは訳が違う。もしこのまま流体が地上まで到達すれば、急激な圧力低下で体積が数百倍に膨れ上がり、リグごと吹き飛ばす大爆発になる。
「BOP、閉鎖!」
ドォン!! 足元で重い衝撃音がした。油圧式の巨大な弁が作動し、井戸の口を物理的に封鎖したのだ。 とりあえず、蓋は閉めた。だが、本当の危機はここからだった。
「圧力が止まりません! 15メガパスカル……まだ上がる! 20メガ!」
舞が悲鳴のような声を上げる。 「ダメよ! 完全に密閉しちゃったら、井戸の中で圧力が限界を超えちゃう! パイプが破裂するか、地下の岩盤が割れて、制御不能になるわ!」
圧力鍋の蒸気口を完全に塞いで火にかけているようなものだ。逃げ場を失ったエネルギーは、一番弱いところを突き破る。
「開ければ暴発。閉めれば破裂。……詰みか?」 慶は冷や汗が背中を伝うのを感じた。 昭和の時代なら、ここでイチかバチかバルブを開けて、蒸気を逃がすしかなかった。それが源三のやった「命がけの暴発制御」だ。
だが、慶は叫んだ。 「いいや、まだ手はある。『MPD』だ! 蓋をしたまま、少しだけ逃がすんだ!」
「MPD(管理圧力掘削)システム、作動!」
慶が指示したのは、最新の圧力コントロール技術だ。 完全に閉め切るのではなく、出口にある調整弁をミリ単位で操作し、「地下から突き上げてくる圧力」とまったく同じ力で「上から押さえつける」。
いわば、腕相撲だ。 相手が強ければ、こちらも力を込める。相手が弱まれば、こちらも緩める。この均衡を保ち続ける限り、流体は暴れない。
「バルブ開度、5パーセント! 地下の圧力に合わせて、泥水を絞り上げろ!」舞が叫ぶ。 「もっと! 相手は超臨界よ! 生半可な重しじゃ跳ね返されるわ!」
ウィィィン……。 電動モーターが唸り、特殊合金製のバルブが動く。 パイプの中を流れる泥水の出口をギュウギュウに絞ることで、井戸全体に猛烈な背圧をかける。
ガガガガガ……! リグ全体が小刻みに震える。 地下4,000メートルの深淵から「出せ! 出せ!」と暴れる巨人の腕を、地上の人間たちが科学の力でねじ伏せようとしている。
「バランス……取れました!」
オペレーターの声が裏返った。 モニターの赤いグラフが、高止まりしたまま水平になった。 暴発でもなく、破裂でもない。ギリギリの均衡点。
慶は大きく息を吐き出した。 「……どうやら、挨拶は済んだようだな」
モニターには、信じられない数値が表示されていた。 【温度:382℃ 圧力:24MPa】
374度越。それは水にとっての「変身」の境界線だ。この温度を超えた瞬間、水は液体でも気体でもなくなる。
「見て、八神さん」舞が震える指でモニターを指した。
そこには、採取されたサンプルのデータが表示されていた。 密度は液体に近いのに、粘り気は気体のようにサラサラしている。これこそが「超臨界流体」。 従来の蒸気の数倍のパワーを持ちながら、岩の隙間を幽霊のようにすり抜ける、最強の熱媒体だ。
「これが……お祖父ちゃんが見たかった景色……」
舞の目から涙がこぼれた。 かつては「悪魔の釜」と呼ばれ、触れる者すべてを火傷させた禁断のエネルギー。それを今、彼らは「技術」という鎖で繋ぎ止め、飼い慣らしたのだ。
「感傷に浸るのは後にしましょう」 慶は、震える手でペットボトルの水を飲んだ。喉がカラカラだった。「猛獣を檻に入れただけです。これからこいつを地上まで引っ張り上げて、タービンを回させなきゃならない」
そして、この猛獣は「毒」を持っていた。 強酸性の腐食力と、配管を一瞬で詰まらせるシリカの血栓。物理の戦いは終わった。ここからは、化学の戦いが始まる。
プロジェクト開始から3年。岩手県八幡平の現場は、異様な熱気に包まれていた。試験掘削井「H-1号」が、地下3,800メートルでついに「超臨界流体」への到達を確認したのだ。 モニターには【382℃ 24MPa】の数値。理論は正しかった。 だが、その歓喜はわずか2週間後、戦慄へと変わった。
地上に引き上げられたテスト用のケーシングがクレーンから降ろされた瞬間、現場の空気が凍りついた。
「……なんだこれは」現場監督が呻くような声を漏らした。
それはもう、パイプの形をしていなかった。 耐熱炭素鋼で作られたはずの厚さ2センチの鋼鉄が、まるでレース編みのようにスカスカになり、赤黒く変色している。鋼管が「食われている」のだ。何千、何万という見えない牙が、鋼鉄の分子結合を食い荒らし、ボロボロの骸骨に変えてしまっていた。
「アシッド・コロージョン……」 舞が震える手で、その脆くなった鉄屑に触れた。指先で押すだけで、鉄がビスケットのように崩れ落ちる。
「ただの熱水じゃないわ。超臨界状態の水は、強力な溶媒なの。地下の岩石に含まれる塩素や硫黄を溶かし込んで、塩酸や硫酸に近い『超酸性流体』に化けていたのよ」舞は青ざめた顔で慶を見た。 「pH2.0以下だわ。こんなものが時速数百キロで流れたら、炭素鋼なんて数週間で消滅する。……生産井として使うことは不可能よ」
技術的な「詰み」だった。地下に黄金があっても、それを汲み上げるストローが存在しない。
「材質を変えるしかない」舞は顔を上げた、その目には悲壮な決意が宿っていた。 「チタン合金。あるいはインコネル(ニッケル基合金)。航空宇宙や深海探査に使われるレベルの素材を使えば、耐えられる」
「コストは?」慶が静かに問う。
「……今の倍。材料費、加工費、特殊溶接技術への変更を含めれば、配管だけで50億円の追加オーバー」
翌日、東京・大手町のオフィス。 緊急招集された投資家会議は、怒号が飛び交う修羅場と化していた。
「50億だと!? ふざけるな!」 ベンチャーキャピタルの代表が机を叩く。 「当初予算ですらギリギリの採算性だったんだ。コストが倍になれば、IRRはマイナスだ。赤字を垂れ流すだけのプロジェクトに、これ以上一円も出せん!」
「フォース・マジュール条項を適用して解散だ。残った資産を売却して、少しでも回収する」 撤退。それが経済合理的に正しい判断だった。誰もがそう確信していた。
「お待ちください」慶が立ち上がった。その声は低く、しかし部屋の空気を震わせるほど重かった。
「ここで止めたら、あの井戸はただの『高い穴』です。埋め戻して終わりだ。……ですが、チタンを使えば状況は変わります」 慶はスクリーンに新しい試算表を映し出した。
「従来の炭素鋼パイプの寿命は20年。対して、チタン合金は半永久的です。100年持ちます。つまり、更新コストがゼロになる。減価償却期間を50年に延ばせば、単年度黒字化は可能です」
「詭弁だ! 今、払う金がないと言っているんだ! 撤退だ!」 投資家たちの怒号が飛ぶ中、慶は一枚の書類をテーブルに滑らせた。 それは、個人的な資産リストや通帳ではなく、分厚い申請書類の束だった。
「金なら、用意しました」 慶は静かに言った。 「**JOGMEC(エネルギー・金属鉱物資源機構)の『債務保証』**を取り付けました。地熱開発というハイリスク事業に対し、国が借入金の80%を保証する制度です。この保証枠をテコに、地銀とメガバンクによる協調融資(シンジケートローン)を組みます」
「銀行が首を縦に振るわけがない。当初予算を超過した赤字プロジェクトだぞ」
「ええ。ですから、バーターを差し出しました」 慶は淡々と続けた。 「僕が保有する『アース・リンク』の全株式、および個人的な不動産・金融資産のすべてを、銀行団への担保に入れます。さらに、代表者個人の連帯保証も付けました」
会議室が凍りついた。JOGMECの保証があるとはいえ、上場企業の代表者が全株を担保に差し出し、個人保証まで背負うなど、現代のガバナンスでは狂気の沙汰だ。もしプロジェクトが失敗すれば、慶は資産を失うだけでなく、会社からも追放され、巨額の借金を背負って路頭に迷うことになる。
「八神さん、正気か? 失敗すれば、あんたは破滅だぞ」 老投資家が信じられないものを見る目で慶を見た。
慶は薄く笑った。その目は、かつての「山師」剛田源三と同じ、退路を断った人間にしか宿らない色をしていた。 「物理の壁は、技術で越えられる。金の壁は、覚悟で越えるしかない。……それに、孫の代まで使えるインフラを残せるなら、僕一人の人生くらい、安い賭け金でしょう」
老投資家が、深いため息をついた。 「……自分の首を賭ける人間に、これ以上『NO』とは言えんな。よかろう。その借入、承認しよう」
首の皮一枚で繋がった。 慶は破滅と背中合わせの状態で、チタンという鎧を手に入れた。 だが、神は彼らに休息を与えない。次に彼らを待っていたのは、行政という名の「時間の壁」だった。
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