第十章:熱水の錬金術
その夜、慶は舞を連れて、旅館の裏手にあるボイラー室へ潜入した。 「ちょっと! 不法侵入よ!」 「実地調査です」
ボイラー室には、重油のタンクが並んでいた。 慶はタンクの容量と、ボイラーの燃焼音を確認し、メモを取る。 「……なるほど。年間燃料費だけで数千万円かかってるな。冬場の暖房費が経営を圧迫している」
翌日、慶は再び健太を訪ねた。今度はスーツではなく、作業着姿だった。そして、手にはプレゼン資料ではなく、一枚の設計図を持っていた。
「鬼頭さん、賭けをしませんか」 「……帰れと言ったはずだが」
「あなたの旅館の経営状況を推測しました。売上の3割が燃料費と電気代に消えている。違いますか?」 健太の眉がピクリと動いた。
「我々の地熱発電所は、電気だけでなく、大量の『熱水』を生み出します。発電に使った後の、80度のお湯です。通常はこれを地下に戻しますが、これをあなたの旅館までパイプラインで引きます」
慶は設計図を広げた。 「熱交換器を通せば、全館の暖房と給湯が賄えます。重油ボイラーは不要になる。燃料費はゼロです。浮いた数千万円で、旅館をリニューアルできる。客室露天風呂も作れるでしょう」
健太の目が図面に釘付けになった。 「……燃料費が、ゼロ?」
「さらに」 ここで舞が進み出た。彼女の手には、バスケットに入った真っ赤な果物があった。 「これを見てください。昨夜、近くの道の駅で買いました。北海道の地熱ハウスで作られた『雪国マンゴー』です」
「マンゴー?」
「地熱の熱水を使えば、真冬の東北でも熱帯の果物が作れます。鬼頭さん、温泉組合で農業法人を作りませんか? 私たちが熱と技術を提供します。新しい名産品を作って、観光客を呼び戻すんです」
健太はマンゴーを手に取った。ずしりと重い。彼は経営者だ。温泉を守りたい気持ちと同じくらい、この寂れた町をなんとかしたいという焦りがある。慶と舞の提案は、単なる「迷惑料」ではなく、町の未来を作るための「事業提携」だった。
「親父たちが聞いたら、腰を抜かすだろうな」 健太は苦笑いした。「温泉屋が、山師と組んで百姓をやるなんて」
「山師ではありません」慶は真剣な眼差しで言った。 「パートナーです」
長い沈黙の後、健太は右手を差し出した。 「いいだろう。ただし、条件がある。温泉のモニタリングデータは全て俺のスマホで見れるようにしろ。異常があったら、俺が自分の手で発電所を止めるスイッチを持たせろ」
「キル・スイッチですね。……構いません」 慶は迷わずその手を握り返した。
それは、半世紀にわたる対立が氷解し、経済合理性と地域愛が握手した瞬間だった。 だが、本当の敵は人間ではなかった。 地下4,000メートルで待ち受ける物理的な壁――「超臨界」という未知の領域が、牙を剥こうとしていた。
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