第九章:見えない国境線

東京、六本木ヒルズ。 外資系投資ファンド「グリーン・ホライズン」の会議室からは、東京タワーが見下ろせた。だが、八神慶が見ていたのは、手元のタブレットに映し出された古い地質図だった。

「『大地熱興業』の未公開データ?」  慶が眉をひそめると、部下が頷いた。 「はい。50年前に倒産した会社の倉庫から見つかりました。手書きですが、驚くほど詳細です。岩手、秋田、大分の地下構造が網羅されています」

 慶は画面をスワイプした。 美しい筆致で描かれた地層断面図。そこには「有望」「暴発注意」「鬼が出る」といった奇妙な書き込みがある。

「剛田源三。……昭和の山師か」

 慶は、再エネ投資のスペシャリスト。太陽光、風力はやり尽くした。次は「ベースロード電源」が必要だ。それが地熱であることは分かっている。 だが、日本の地熱は「開発リスクが高すぎる」として、投資委員会で否決され続けてきた。

「このデータを持ち込んだのは誰だ?」 「剛田舞という女性です。地質コンサルタントを名乗っていますが、実績は……インドネシアの現場経験がメインですね」

「会おう。その『宝の地図』が本物かどうか、確かめる」


 待ち合わせ場所に現れた剛田舞は、都会のカフェには不釣り合いなほど、鋭い目つきをしていた。脇には使い込まれたフィールドノートを抱えている。

「単刀直入に言います、八神さん」 挨拶もそこそこに、彼女は言った。 「このデータがあれば、掘削の成功率は8割を超えます。でも、お金だけじゃダメなんです」

「では何が必要で?」 慶がコーヒーを啜りながら問うと、舞は真っ直ぐに彼を見据えた。

「覚悟です」 「……覚悟?」 「地熱は、地球の手術です。メスを入れる場所を間違えれば、患者は暴れる。今の日本の法律、地元の感情、そして技術的な壁。それら全てを、あなたの『金融工学』とやらでねじ伏せる覚悟がありますか?」

 慶は思わず笑ってしまった。  投資家に対して「覚悟」を問う起業家は多いが、ここまで物理的な脅威を突きつけてくる相手は初めてだ。

「いいでしょう。僕の専門は『リスクのプライシング(値付け)』です。解決不可能な問題はない。コストが見合うならね」

 慶はテーブルに身を乗り出した。 「実は、面白いオモチャを見つけたんです。アメリカのシェールオイル業界が使っている『指向性掘削』と、高温対応の『MWD』センサー。これを地熱に応用します」

 舞の目が少しだけ見開かれた。 「……国立公園の外から、中を突く気?」

「ご明察。法律は守る。だが、熱は頂く。……あなたの祖父の地図と、最新のドリル、そして僕の資金。この3つが揃えば、50年止まっていた時計を動かせる」

 舞はしばらく沈黙し、やがて祖父のノートをゆっくりと開いた。そこには、震える文字でこう書かれていた。  『いつか、技術が俺の勘に追いつく日が来る』

「わかりました。でも、現場では私の指示に従ってもらう。スーツが汚れても文句は言わないでくださいね」 「クリーニング代を経費で落とせるなら、善処します」

 奇妙なバディが結成された瞬間だった。彼らが挑むのは、かつて源三が敗れた「見えない壁」――国立公園の規制と、さらにその奥にある「超臨界」という未知の領域だった。



2025年、春。  東京・大手町。ガラス張りの会議室には、重苦しい沈黙が漂っていた。  八神慶は、プロジェクターの前に立ち、並み居る機関投資家たちを見下ろしていた。

「……以上が、プロジェクト『フェニックス』の概要です」  慶が手元のクリッカーを押すと、画面には岩手県八幡平の地図と、複雑な掘削軌道図、そして「内部収益率15%」という強気な数字が表示された。

「15%? 八神くん、君は夢を見ているのか?」 大手生保の運用部長が、眼鏡の位置を直しながら冷ややかに言った。 「地熱発電の平均的なIRRは良くて5%だ。掘削リスクが高すぎるし、開発期間も10年はかかる。我々のポートフォリオには組み込めない」

 他の投資家たちも頷く。彼らにとって地熱は「過去の遺物」であり、太陽光や風力のような「手堅い再エネ」とは別物だった。

 慶は薄く笑った。想定内の反応だ。 「その通りです。昭和のやり方ならね」

 慶は画面を切り替えた。  映し出されたのは、まるで血管のように曲がりくねったドリルの軌跡だ。

「かつての地熱開発は、真下に掘るだけでした。だから、熱源が国立公園の中にあれば手出しができなかった。公園内は『第1種特別地域』。杭一本打てない聖域ですから」 慶はポインタで、公園の境界線を指し示した。 「ですが、我々は公園の『外』の民有地にリグを建てます。そこから地下3,000メートルまで垂直に掘り、そこからドリルを90度曲げます」

 会場がざわついた。 「90度? そんなことが可能なのか?」

「可能です。『指向性掘削』。シェールガス革命を支えた技術です。ドリル先端に搭載したジャイロセンサーと泥水モーターで、数キロ先の標的をピンポイントで射抜く。誤差はわずか数メートル」

 慶は畳み掛けるように続けた。 「つまり、地上の自然は一切傷つけない。法的な規制もクリアできる。我々は、合法的に『聖域』の地下にある黄金にアクセスするのです」

 さらに、慶はもう一枚のスライドを出した。 そこには、AIによる地質解析データが表示されていた。

「そして、掘削リスクについて。……ここにいる剛田舞を紹介します」 部屋の隅に控えていた舞が、緊張した面持ちで立ち上がった。

「彼女の祖父は、50年前にこの地を掘った伝説の技術者です。彼が遺した膨大なアナログデータと、最新の衛星データ、そしてAIによる3D解析を組み合わせることで、我々は地下の熱源を『可視化』しました。掘る前に、そこにあることが分かっている。これはギャンブルではありません。ただの『答え合わせ』です」

 投資家たちの目の色が変わった。 リスクがコントロールされ、法的な壁も突破できるなら、地熱は「化ける」。 何より、太陽光のように天気で止まらない「ベースロード電源」の価値は、電力逼迫が続く日本において計り知れない。

「一口乗ろう。ただし、条件がある」  生保の部長が言った。 「地元だ。八幡平の地元民は、かつての開発失敗で地熱アレルギーを持っていると聞く。彼らを説得できなければ、どんな技術も画餅だ」

 慶は頷いた。 「ええ。そこが最後の、そして最大の岩盤です」


 二週間後。岩手県、八幡平。  残雪の残る山道を、慶の運転するSUVが走っていた。助手席の舞は、窓の外を流れる景色を食い入るように見つめている。

「懐かしい?」 「ええ。小さい頃、祖父に会いに連れられて来たことがあるわ。……あの頃より、寂れた気がするけど」

 かつて湯治客で賑わった温泉街は、シャッター通りと化していた。廃業した旅館の看板が、風に揺れて軋んだ音を立てている。

「過疎化と高齢化。日本の縮図ですね」慶はハンドルを切りながら淡々と言った。 「だからこそ、チャンスがある。彼らは喉から手が出るほど『変化』を欲しているはずだ」

「……甘いわよ、八神さん」 舞は厳しい声を出した。 「ここの人たちは、変化なんて望んでない。ただ『守りたい』だけなの。先祖代々の湯を、静かな暮らしを。外から来た人間が『お金になりますよ』って土足で踏み込めば、猛反発を食らうわ」

 車は、目的地の老舗旅館「鬼頭屋」に到着した。出迎えたのは、作務衣を着た30代半ばの男。鬼頭健太。かつて源三と激しく対立した鬼頭兵衛の孫であり、現在の温泉組合青年部長だ。

「ようこそ、東京の投資家さん」 健太の笑顔には、あからさまな警戒心が含まれていた。 「それに、剛田さんのところのお孫さんでしたか。……因縁ですねえ」

 通された大広間で、慶はタブレットを開こうとしたが、健太はそれを手で制した。 「プレゼンは結構です。結論から言いましょう。反対です」

 慶はタブレットを閉じた。 「理由をお聞かせ願えますか?」

「あんたたちの計画は知ってますよ。『斜めに掘る』とか『最新技術で安全』とか。……でもね、50年前、あんたのお祖父さんも同じことを言ったんです。『絶対に温泉には影響しない』と」 健太は舞の方を見て、冷たく言った。 「結果はどうだ? 掘削から数年後、うちの源泉温度は2度下がった。因果関係は不明だが、爺さんは死ぬまで『山師に騙された』と言ってましたよ」

 舞が唇を噛んで俯く。 科学的な因果関係が証明できなくても、「あいつらが来てから悪くなった」という心証は、半世紀経っても消えない。それが田舎のリアル。

「鬼頭さん」 慶が口を開いた。「過去の損失を補填するつもりはありません。ですが、未来の利益はお約束できます。このプロジェクトが生み出す電力売上の3%を、地元に還元します。年間でおよそ……」

「金の話じゃねえんだよ!」 健太が机を叩いた。「あんたらにとってはこの山は『資産』かもしれんが、俺たちにとっては『神様』なんだ。神様の腹に穴を開けて、金を抜くような真似はさせねえ!」

 交渉決裂。 部屋を出ていく健太の背中を見送りながら、舞は深いため息をついた。 「言ったでしょ。ロジックじゃ通じないって」

 だが、慶の目は死んでいなかった。彼はスマホを取り出し、どこかへメッセージを打ち始めた。「ロジックの使い方が間違っていただけです。……彼が一番『守りたいもの』は何だ?」

「え? ……それは、温泉と、旅館経営でしょ?」

「違う。彼が守りたいのは『プライド』だ。そして、経営者として一番恐れているのは、地熱開発ではなく『廃業』だ」 慶は旅館のロビーを見回した。客はまばらだ。設備も古い。 「このまま座して死ぬか、リスクを取って生き残るか。……彼に『毒饅頭』ではなく『特効薬』を提示する必要がある」

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