第五章:効率という名の神

1992年(平成4年)、東京・霞が関。  バブル崩壊の余韻が残る中、通産省の会議室は、冷ややかな煙草の煙に包まれていた。

「剛田さん、単刀直入に言いましょう。地熱の新規予算は凍結です」

 剛田源三の息子、洋一は、握りしめた拳を膝の上に隠していた。父・源三は現場で膝を痛めて引退し、今は洋一が「大地熱エンジニアリング」の設計部長として、国との折衝に当たっていた。

「凍結……ですか。我々は八幡平で有望な調査井を掘り当てたばかりです。あそこには確実に5万キロワット級の熱源があります!」

 対面に座る資源エネルギー庁の課長補佐は、分厚い資料を机に放り出した。その表紙には『長期エネルギー需給見通し』とある。

「剛田さん、電卓を叩いてみてください。地熱の発電コストはキロワット時あたり16円から20円。井戸を掘るリスクを含めればもっと高い。一方で、原子力はいくらだと思いますか?」  官僚は冷徹に告げた。 「5円です」

 洋一は反論しようとしたが、言葉が詰まった。5円。それは「神話」によって作られた数字だった。廃棄物処理や事故リスクを除外した計算式だが、この時代の永田町において、その数字は絶対的な聖典だった。

「それに、スケールメリットが違いすぎる。原発一基で100万キロワット。あなたの地熱発電所は、苦労して掘って3万キロワット。30倍の差だ。我々は『ベースロード電源』を確保しなければならない。ちまちました地熱に構っている暇はないんですよ」

 効率。規模。コスト。それが平成の正義だった。昭和の「何が何でも国産エネルギーを」という悲壮な情熱は、円高による安い輸入石油と、原子力の圧倒的な出力の前に消え失せていた。

 帰り道、洋一は日比谷公園のベンチで、空になった缶コーヒーを握りつぶした。技術はある。情熱もある。だが、「経済合理性」という怪物が、全てを飲み込んでいく。


 追い打ちをかけるように、「環境」の壁が立ちはだかった。  1990年代後半、環境保護の機運が高まり、国立公園内での開発規制が極限まで厳格化された。

「クマタカの営巣地が見つかったため、工事は中止です」 「景観を損ねるため、冷却塔の高さは10メートル以下に抑えてください」

 現場では理不尽な要求が相次いだ。  地熱開発ができる場所の8割は国立公園内にある。だが、そこは「聖域」となり、杭一本打てない場所になった。 既存の発電所も、温泉業者からの訴訟リスクに怯え、出力を絞ることを余儀なくされた。

 国内の地熱メーカーは、世界シェアの7割を握る最高峰のタービン技術を持っていた。だが、その技術を買う客は、日本国内にはもういなかった。

「日本にいても、俺たちはただの『穴掘り屋』で終わる」 洋一は決断した。父・源三に電話をかけたのは、その年の冬だった。

「親父、俺は日本を出る。インドネシアに行く」 受話器の向こうで、長い沈黙があった。 『……そうか。向こうの山は、熱いのか?』 「ああ。マグマが地表まで溢れているそうだ。規制もない。思う存分掘れる」

 洋一は海を渡った。  それは「技術の亡命」だった。

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