第一章:山師たちの挽歌(1973年)

 1973年(昭和48年)11月。  霧島連山の麓、「地獄谷」と呼ばれる一帯は、その名の通りこの世の終わりのような臭いに包まれていた。

 腐った卵の臭い――硫化水素(H₂S)だ。  鼻の粘膜を刺し、喉を焼くそのガスは、火山地帯につきものの危険な副産物だ。だが、ここに集まった男たちにとって、それは「金の臭い」でもあった。

「おい! 3号機の泥ポンプ、圧が落ちてるぞ! ストレーナーが詰まったんじゃねえか!」

 怒号が飛び交う中、剛田源三は、泥まみれの作業服で櫓の下に仁王立ちしていた。  身長180センチ、岩のような肩幅。かつては中東の油田で掘削リグを回していた経歴を持つ、正真正銘の「山師」である。

「源三さん、また減水です! 泥水タンクの目盛りが5センチ下がりました!」  若い助手が、顔面を蒼白にして駆け寄ってきた。

「5センチだと? チョロチョロ吸われてやがるな。……おい、おが屑を持ってこい! タンクにぶち込め!」

「お、おが屑ですか?」

「そうだ! 地下の亀裂が小さいなら、おが屑や綿を詰めれば止まる。人間のかさぶたと一緒だ!」

 源三の指示は乱暴だが、理にかなっていた。地熱掘削とは、要するに地球に細長い井戸穴を穿つ行為だ。ドリルビットの先端を冷却し、掘り屑を地上へ運び出すために、特殊な泥水を循環させる。  だが、地下に割れ目があると、泥水はそこへ逃げてしまう。泥水がなくなれば、坑壁を支える圧力が消え、穴は崩壊する。数千万円かけた井戸がただの穴ぼこになる瞬間だ。

「クソッ、日本の山は気難しい女だぜ」源三はポケットから煙草を取り出し、オイルライターで火をつけた。ハイライトの紫煙を吐き出しながら、高さ40メートルの掘削リグを見上げる。

 轟音とともに回転する鉄のパイプ。その先端は今、地下1,500メートルの暗闇の中で、硬い安山岩を噛み砕いているはずだ。

 時代は、狂乱の最中にあった。  先月、第四次中東戦争が勃発。OPEC(石油輸出国機構)は原油価格の引き上げと供給削減を発表。いわゆるオイルショックである。不安が人々を駆り立て東京のスーパーからはトイレットペーパーと洗剤が消え、銀座のネオンサインは消灯された。「油が止まれば日本は死ぬ」。そんな強迫観念が列島を覆っていた。

 通産省は慌てて「サンシャイン計画」をぶち上げ、国産エネルギーの開発に巨額の予算を投じた。その一つが、この地熱だ。日本は火山国だ。足元には無尽蔵の熱がある。だが、それを掘り出す技術も、経験も、圧倒的に足りなかった。

「社長、東京の本社から電話です。『まだ蒸気は出ないのか』と」現場事務所から事務員が顔を出した。

「『うるせえ』と言っておけ。……いや、待て」  源三はタバコをもみ消した。 「『あと100メートルだ』と伝えろ。根拠は俺の勘だ」

「勘……ですか」

「ああ。ビットの跳ね方が変わった。硬い岩盤の下に、柔らかくて熱い層がある。俺の足の裏がそう言ってるんだ」

 嘘ではない。熟練の掘削技術者として、リグの振動、音、そして泥水の温度変化で、地下数キロの地層を確かに感じ取っていた。今、地下の温度は急上昇している。マグマの熱を受け取った地下水が、高い圧力を保ったまま閉じ込められている「貯留層」が近いはずだ。

 だが、地熱開発の敵は、地下の岩盤だけではなかった。


 その日の夕方。 作業を終えた源三は、泥を落として背広に着替え、麓の温泉街へと向かった。  華やかなネオンとは裏腹に、源三を迎える視線は冷たい。

 老舗旅館「霧島館」。その大広間には、地元の温泉旅館組合の幹部たちがずらりと並んでいた。上座に座るのは、組合長の鬼頭兵衛。この地域で絶対的な権力を持つ男だ。

「剛田さんよ」 鬼頭が、茶碗を音を立てて置いた。「また井戸を深めるそうだな。いい加減にしてくれんか」

「組合長、以前もご説明しましたが」源三は畳に額を擦り付けるようにして座った。隣には、東京から派遣された地質学者の杉山が、分厚い資料を抱えて縮こまっている。

「我々が狙っているのは地下2,000メートルの深部です。あなた方の温泉源である地下300メートルの浅い層とは、分厚い不透水層で隔てられています。影響はありません」

「キャップロック……。わかりづれえ言葉をつかうんじゃねえ。要するに岩の蓋があるから大丈夫だと言いたいんだな?」

「はい。科学的な調査に基づいています」 杉山が口を挟んだ。「電気探査の結果を見ても、浅い層と深い層の電気伝導度は明らかに異なり……」

「黙らんか!」

 鬼頭の一喝で、杉山がびくりと震えた。鬼頭は扇子で畳を叩いた。「科学? データ? そんなもん、掘ってみなきゃわからんだろうが! あんたらの言う『蓋』にヒビが入ってたらどうする? 俺たちの湯が、そのヒビを通って地下深くに吸い込まれたら、誰が責任を取るんだ!」

 源三は唇を噛んだ。鬼頭の言うことは、ある意味で正しい。この時代、地下の構造を正確に可視化する技術はまだ存在しない。杉山の言う「科学的根拠」も、地表からの推測に過ぎないのだ。

 日本の民法には「温泉権」という言葉はない。だが、慣習法として、温泉権利者の力は絶大だ。彼らが「NO」と言えば、たとえ国のプロジェクトであろうと、一本の杭も打てない。それが日本のローカル・ルールだ。

「剛田さん。あんたの親父さんは、立派な炭鉱夫だったと聞いてる。山を敬う心を知っていたはずだ。なんで山を傷つけるような真似をする」

 鬼頭の声が少しだけ柔らかくなった。懐柔しようとしているのだ。だが、源三は顔を上げた。

「山を傷つけるつもりはありません。……ただ、国が寒いんです」

「寒い?」

「今年の冬、灯油が手に入らなくて、風呂に入れない年寄りが東京には山ほどいます。工場が止まって、路頭に迷う工員もいる。俺たちは、この国の足元にある『熱』を、みんなで分け合いたいだけなんです」

 綺麗事だ。自分でも思う。だが、それでも思いは本気だ。源三は中東の砂漠で、石油メジャーの連中に顎で使われてきた。「日本人は油乞食だ」と嘲笑された悔しさが、骨の髄まで染みている。

「……口の減らない男めっ……」  鬼頭はため息をついた。 「いいだろう。掘るだけなら許してやる。だが、条件がある」

 鬼頭が出した条件は、地熱開発の常識を覆すものだった。 『蒸気が出ても、熱水は一滴も川に流すな。全て地下に戻せ。川の魚が死んだら、即刻撤退しろ』

 隣で杉山が息を飲んだ。 地熱発電では、蒸気と共に大量の熱水が噴出する。当時は、ヒ素などを含まない限り、温度を下げて川に放流するのが一般的だった。「全量還元」。使ったお湯を、圧力をかけて再び地下深くの井戸に戻す。技術的には可能だが、コストが倍増する。しかも、戻した水が地下で冷えて、せっかくの蒸気源を冷やしてしまうリスクもある。

「飲みましょう」  源三は即答した。

「剛田さん!? 無茶です!」  杉山が小声で叫ぶが、源三は無視した。

「その代わり、組合長。蒸気が出たら、あんたらの旅館にも『地熱暖房』を引かせてもらう。ボイラー代が浮くはずだ。共存しましょうや」

 鬼頭は目を細め、しばらく源三を値踏みするように見つめていたが、やがてニヤリと笑った。 「狸め。いいだろう。その約束、忘れるなよ」

 交渉の成立。だが、それは地獄の入り口でしかなかった。

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