マグマ・エコノミクス

NiHey

序章:臨界点の鼓動(2025年)

 岩手県、八幡平(はちまんたい)。  紅葉が終わり、初雪が舞い始めたブナの原生林の中に、その「要塞」は隠されるように建っていた。

 八神慶(やがみ けい)は、泥で汚れたイタリア製のローファーを見下ろし、小さく舌打ちをした。外資系投資ファンドのオフィスで数字の羅列と格闘する日々から、まさか東北の山奥で熊の恐怖に怯えることになるとは思わなかったからだ。

「八神さん、ビビってるんですか?」

 隣を歩く剛田舞(ごうだ まい)が、あきれたように言った。彼女はダウンジャケットにヘルメット、手にはタブレット端末という奇妙な取り合わせだったが、この現場には誰よりも馴染んでいる。

「ビビってない。寒さに震えてるだけだ。……で、あれがそうか?」

 慶が顎でしゃくった先には、巨大な銀色の配管が複雑に絡み合うプラントが鎮座していた。煙突からは真っ白な蒸気が立ち上り、冬の空に吸い込まれていく。一見すると普通の地熱発電所だ。だが、耳をすませば違いがわかる。

 ――ゴォォォォォォォォォ……。

 重低音。ボイラーで湯を沸かすような生易しい音ではない。ジェット機のエンジンを地下に埋め込み、全力で噴射させているような、腹の底に響く振動。

「深度4,500メートル。坑底温度380度、圧力23メガパスカル。地下の『超臨界』領域から直接、流体を引き上げています」

 舞がタブレットの画面を見せながら言った。画面には、地下深部の3Dマップが表示され、赤いマグマだまりの上層を這うように青いラインが伸びている。

「380度……あまり近くに身を置きたくはないもんだ」

「それは水が水でなくなる世界」 舞は、まるで恋人を語るような熱っぽい瞳で配管を見上げた。 「374度、220気圧。この境界線を超えると、水は液体でも気体でもない『超臨界流体』になる。気体のように岩の隙間をすり抜け、液体のように高密度で熱を運ぶ。そのエネルギー密度は、従来の蒸気の十倍」

「十倍、か」  慶は、目の前の銀色のパイプに触れようとして、熱気を感じて手を止めた。  このパイプの中を流れているのは、ただのお湯ではない。原子力の炉心に匹敵する熱エネルギーそのものだ。

「かつて、私の祖父はこれを『悪魔の釜』と呼んだわ。触れれば火傷じゃ済まない。魂ごと持っていかれるって」

「だが、俺たちはその悪魔と契約した」  慶は冷え切った指先をポケットに突っ込んだ。 「リスク・リターンは見合っている。日本のエネルギー自給率を一桁押し上げるだけのポテンシャルが、ここにある」

 慶は投資家だ。ロマンでは動かない。彼がここに来たのは、地熱がもはや「ギャンブル」ではなく、計算可能なアセット(資産)に変わったと確信したからだ。だが、そこに至るまでには、半世紀にわたる「敗北の歴史」があったことを、彼は資料の中でしか知らない。

「行きましょう、八神さん。今日は『火入れ』の日よ」 「ああ。君の祖父さんの亡霊に挨拶しに行こう」

 二人は重低音の鳴り響く管理棟へと歩き出した。 地面の下では、太古の昔から変わらぬ地球の熱が、人間たちのちっぽけな野心をあざ笑うかのように脈打っていた。

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