『聖夜の色彩(いろ) ―雪吊の下で君と―』

『聖夜の色彩(いろ) ―雪吊の下で君と―』


十二月二十五日。世界が色鮮やかな聖夜の喧騒に包まれる中、ゆりかもめの車窓から見える景色は、どこか現実味を欠いた絵画のように静止していた。


「……山眠る、か。本当に、死んだように動かないな」


佐藤零は、無機質なシートに深く身を沈め、窓の外を流れる冬の東京湾を眺めていた。かつて狂気のごとくチャートの数字を追いかけていた瞳には、今、ただの穏やかな海が映っている。


「お兄ちゃん、何ブツブツ言ってるの? ほら、もうすぐお台場だよ」


隣で結衣が、マフラーに顔を埋めながら笑う。彼女の持つ紙袋からは、先ほど買ったばかりの「いとより」の干物の、潮騒に似た香りが微かに漂っていた。高級フレンチではなく、今夜の夕食は家で静かに和食を囲む。それが、今の佐藤家の「聖夜」だった。


「いや、ただの独り言だ。……時雨が来るかな、と思って」


空は低く、今にも泣き出しそうな鈍色をしていた。かつて零が「黒」と呼んで忌み嫌った下降の色は、今では「時雨」を予感させる自然の情緒として、彼の網膜に優しく馴染んでいる。


駅を降りると、海風が刃のように頬を撫でた。 「うぅ、寒い……! お兄ちゃん、早く行こう」


二人が向かったのは、華やかなイルミネーションの影にひっそりと佇む日本庭園だった。そこには、クリスマスという狂騒から切り離された、別の時間が流れている。


「……雪吊(ゆきづり)だ。綺麗だな」


零は足を止めた。幾何学的な円錐の形をした縄の筋が、老松の枝を支えている。それは、来るべき重圧から命を守るための、古(いにしえ)の知恵。かつて自分を守るための壁として、引きこもり部屋という名の「雪吊」を作っていた頃を思い出す。だが、今の零を支えているのは、物理的な壁ではなく、隣で鼻を赤くしている妹の存在だった。


「お兄ちゃん、あっちの茶屋に『行火(あんか)』があるって。温まっていこうよ」


茶屋の暖簾を潜ると、炭の爆ぜるパチパチという音と共に、鼻を突く「炭斗(すみとり)」の乾いた香りが迎えてくれた。


「……温かいな」


零は、差し出された足温(あしあたため)に足を入れ、深く息を吐いた。 「日向ぼこ(ひなたぼこ)」をしている猫のように、全身の強張りが解けていく。かつては一分一秒の遅れが数百万の損失に直結する世界にいた。だが、ここでは炭が灰に変わるまでの、ゆっくりとした時間の経過だけが支配している。


「……ねえ、お兄ちゃん。これ」


結衣が、カバンから一冊の手帳を取り出した。それは、去年の「古暦(ふるごよみ)」を再利用した、彼女手作りの家計簿だった。


「一千万はなくても、こうやって一円一円を書き留めるの、案外楽しいよ。……お兄ちゃんが教えてくれたんだよ。数字には、人の想いが乗ってるんだって」


零は、その不器用な数字の羅列に指で触れた。 かつての異能はもうない。だが、指先から伝わる紙の質感、そして結衣が丁寧に書き込んだ鉛筆の跡から、彼は「一」という数字の持つ本当の重みを感じていた。


ふと、外の景色に目をやる。 庭園の奥にある小さな滝が、厳しい寒さに打たれて、その勢いを失っていた。


「瀧涸る(たきかる)……。止まっているようでいて、春を待っているんだな、あれも」


零の言葉に、結衣が小さく頷く。 足元には、冬の寒さの中でひっそりと背を伸ばす「冬の花蕨(ふゆのはなわらび)」が、銀色の綿毛を揺らしていた。誰に気づかれることもなく、けれど確かに、そこにある命。


「お兄ちゃん、そろそろ帰ろ? お腹空いちゃった」


「ああ、そうだな」


茶屋を出ると、空からは予感通り、細かな雨が降り始めていた。 だが、それは冷たい絶望の雨ではない。 聖夜を彩る光を反射して、零の視界を何色にも染め上げる、祝福の時雨だった。


零は、かつてスマホを投げ捨てた自分の手を、強く握りしめた。 全財産も、異能も、神の座も、ここにはない。 あるのは、冷えた指先を温める自分の吐息と、隣を歩く家族の体温だけ。


「メリークリスマス、結衣」


「えっ、今更!? お兄ちゃん、照れくさいよ!」


二人の笑い声が、ゆりかもめの駅へと向かう道すがら、冬の夜気へと溶けていく。 白でも黒でもない、無限の色彩に満ちた世界で。 元「バイナリー・ゴッド」だった青年は、今、ただの「兄」として、愛おしい日常の一歩を踏み出していた。


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『バイナリー・ゴッド ―0か1かの異能境界線―』 春秋花壇 @mai5000jp

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