エピローグ

事件から三ヶ月が過ぎた。 街はすっかり春の陽気に包まれ、空気には沈丁花の甘い香りと、新生活を始める人々の浮き足立った熱気が混じり合っている。


佐藤零は、商店街の隅にある小さな青果店の軒先で立ち止まっていた。 「お兄さん、このデコポン、甘いよ! 食べてきな!」 威勢のいい店主の声と共に、一切れの果実が差し出される。零はそれを受け取り、ゆっくりと口に運んだ。


「……っ、酸っぱい。でも、すごく甘い」


舌の上で弾ける果汁の刺激。鼻に抜ける柑橘の爽やかな香り。かつて、全ての味覚を「ただの栄養摂取」として処理していた頃には感じられなかった、暴力的なまでの「生」の感覚がそこにはあった。


何より、零の瞳には今、世界が残酷なほど鮮やかに映っている。 積み上げられたリンゴの燃えるような赤。キャベツのみずみずしい緑。そして、見上げればどこまでも高く、吸い込まれそうなほどに青い、本当の空。


「ごちそうさまです。……これ、二個ください」


小銭入れから、使い古された百円玉を取り出す。指先に触れる金属の冷たさと、表面の凹凸。一千万、一億という数字を操っていた時よりも、このたった数百円の重みが、今の零には心地よかった。


「ただいま、結衣」


ボロアパートのドアを開けると、香ばしい醤油の焦げた匂いが鼻をくすぐった。 「あ、お兄ちゃん、おかえり! ちょうど焼けたよ」


台所から顔を出した結衣は、以前のような怯えを一切見せず、ひまわりが咲いたような笑顔を浮かべた。 テーブルの上には、結衣が焼いた不格好な焼きおにぎりと、零が買ってきたデコポンが並ぶ。


「……お兄ちゃん、最近、本当に『色』が綺麗だね」


結衣が零の顔を覗き込んで言った。 「色?」 「うん。なんだか、お兄ちゃん自身が。前は、透き通った氷みたいで怖かったけど、今は……ちゃんと、ここにいる感じがする」


零は自分の掌を見つめた。 そこには、組織にいた頃の灰色の塊ではなく、赤みの差した、泥臭くも温かい人間の皮膚がある。


「そうだな。……視えすぎるのは、もうこりごりだ」


食事を終え、零は一人、夜のベランダに出た。 遠くに見える高層ビルの明かり。かつてあの中に、自分を神だと錯覚させた虚飾の戦場があった。ふと、ポケットの中でスマートフォンが震える。


画面には、発信元不明の通知。 メッセージは一言だけだった。


『相場は今日も、0か1かで動いているわ。……戻りたくなったらいつでも言って。佐藤零』


零は、その文字を眺めて短く息を吐いた。 画面越しに、エマのあのサンダルウッドの重厚な香水が漂ってきたような気がして、彼は苦笑する。


「……悪いな、エマ。俺の今の残高は、これっぽっちだ」


零は、画面をスワイプして通知を消去した。 今の彼のスマートフォンにあるのは、トレードアプリではない。アルバイト募集サイトのブックマークと、結衣から送られてきた夕飯の献立のメモだけだ。


「お兄ちゃん、明日から仕事でしょ? 早く寝ないと!」 部屋の中から結衣の声が飛ぶ。


「分かってるよ。……今、行く」


零は最後にもう一度だけ、夜空を見上げた。 星の色は、白でも黒でもない。 瞬くたびに色を変え、決して一つの答えに定まらない。 それはまるで、明日という不確かな未来そのもののようだった。


「……よし」


零は力強く一歩を踏み出し、光の漏れる部屋の中へと戻った。 一秒後の未来すら分からない。 けれど、自分の足でその闇を歩いていく。 それこそが、彼が命を賭けて手に入れた、世界で一番贅沢な「自由」という名の報酬だった。


エピローグ 完


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