第10話 ミリオンダラー・ベイビー 最後の一撃。

第10話 ミリオンダラー・ベイビー 最後の一撃。


降りしきる雨は、鉄筋コンクリートの街を冷酷に冷やしていた。 佐藤零は、倒壊した組織のビルから遠く離れた、場違いなほど静かな公園のベンチに座っていた。


視界は、ついに完全な「無」に至ろうとしていた。 かつて色彩を奪っていった灰色の霧は、今や濃密な闇へと変わり、目前の手のひらさえも定かではない。耳を打つ雨音だけが、世界の輪郭を辛うじて繋ぎ止めていた。


「……終わったんだな」


震える手で、ポケットから一台のスマートフォンを取り出す。エマが最後に手渡した、組織の追跡を逃れた末端端末だ。そこには、組織の隠し口座から掠め取った「最後の一千万円」が残されていた。


これで、消えるか。あるいは、やり直すか。 零が画面に触れようとしたその時、背後で微かな足音がした。


「……逃げ切れると思った?」


エマだった。 彼女の足音は以前のような傲慢な響きを失い、雨に濡れた靴が泥を弾く、ひどく人間臭い音を立てていた。


「エマか。……俺を殺しに来たのか? それとも、その一千万を奪いに来たのか」


「どっちも違うわ。……ただ、見ていたいのよ。貴方の『最後の一撃』を」


エマは零の隣に腰を下ろした。彼女の体温が、冷え切った零の肩に伝わる。その微かな熱が、今の零にとっては、一千万の電子通貨よりもずっと重く、確かな価値を持っているように感じられた。


「視えないんだ、エマ。……もう、白も黒も視えない」


零は自嘲気味に笑った。 「神の眼」は死んだ。残されたのは、暗闇の中で怯える一人の引きこもり。


「……いいえ、視えるはずよ。貴方は昨日、組織を破滅させるために、異能(システム)を越えたんだから」


零は目を閉じた。 判定時刻まで、あと三十秒。 画面上では、組織崩壊の余波を受けたドル円が、断末魔のような激しい乱高下を見せている。 最後の一千万。これを「High」か「Low」か。 的中すれば、数千万の「逃走資金」が手に入る。外せば、佐藤零という人間の物語は、この公園のベンチで、一円の価値もなく幕を閉じる。


(……一か、ゼロか)


脳の奥、焼き切れたはずの回路が、不意に、静かな脈動を始めた。 それは、これまでのような「視える」感覚ではなかった。 雨音の強弱、エマの呼吸の揺らぎ、アスファルトを叩く風の向き。 世界のあらゆる「呼吸」が、零の身体を透過していく。


「……ああ、そうか」


零は悟った。 これまで彼が視ていたのは「数字」という檻の中の未来に過ぎなかった。 だが、今、彼の指先に触れているのは、もっと残酷で、もっと自由な、「今」という名の奔流だ。


三十秒前。 零の指が、画面上のボタンを叩いた。


だが、彼が選んだのは「High」でも「Low」でもなかった。 彼は、その一千万円を、どこにも賭けなかった(・・・・・・・・・・)。 代わりに、彼は「全額解約(キャンセル)」のコマンドを打ち、その金を、匿名で妹・結衣の口座へと送金する手続きを完了させた。


「……零? 何を……」


「エマ。俺はもう、賭けない」


零はスマートフォンを、雨の降り頻る池の中へと放り投げた。 ポチャン、という小さな音と共に、彼を縛り付けていた最後の「数字」が消えた。


「勝ちか、負けか。そんな二択に、俺の人生を渡すのはもう辞めだ。……俺は、ただの『ゼロ』に戻る」


判定時刻が過ぎた。 もし賭けていれば、大勝利だったかもしれない。あるいは大敗だったかもしれない。 だが、零の心を満たしていたのは、失ったことへの後悔ではなく、何にも支配されていないという、震えるほどの解放感だった。


不意に。 零の視界の端に、一点の「光」が灯った。


それは、白でも黒でもない。 雨に濡れたベンチの隙間に咲く、小さな野花の「黄色」だった。


「……色だ」


零の目から、涙が溢れ落ちた。 一つ、また一つと、色彩が戻ってくる。 雨に濡れたエマの頬の「赤」。 夜明けが近づく空の、深い「群青」。 それは、異能が与えてくれた不自然な光ではなく、彼が人間として一歩を踏み出したことで、世界が再び彼に贈った「本当の色」だった。


「視えるわね、零」


エマが、優しく微笑んだ。彼女の瞳もまた、一人の女性としての輝きを取り戻していた。


「……ああ。……眩しすぎるくらいだ」


零は立ち上がった。足取りはまだ、おぼつかない。 三年間、部屋に閉じこもり。 数週間、数字の神として君臨し。 そして今、彼はただの「無職の青年」として、雨上がりの街に立つ。


「どこへ行くの?」


「決まってる。……まずは、妹に美味いもんでも買って帰るよ。残高は、ちょうどゼロになったけどな」


零はエマに背を向け、ゆっくりと公園の出口へ向かって歩き出した。 朝日が、ビルの谷間から差し込み始める。 一千万円の富よりも、一千億ドルの予知能力よりも。 今、自分の足で冷たい地面を踏みしめているという実感が、何よりも誇らしかった。


佐藤零は、もう振り返らない。 0か1かの境界線を越えて。 彼は、色彩に満ちた「自由」という名の戦場へ、再び踏み出していった。


第10話(最終話) 完


全10話、完結いたしました。 引きこもりの青年が異能を得て、富と狂気、そして最後には人間性を取り戻すまでの旅路。この物語が、あなたの想像力を刺激する一助となれば幸いです。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る