第9話 オール・オア・ナッシング

第9話 オール・オア・ナッシング


窓のない部屋。冷たいコンクリートの壁。 そこには、三年前の引きこもり部屋のような「聖域」の安らぎは一欠片もなかった。


佐藤零は、鋼鉄の椅子に拘束されていた。頭部には無数の電極が貼り付けられ、眼の前には壁一面を埋め尽くす超高精細モニターが並んでいる。


「……気分はどうだい、零くん」


背後で、あのヘッジファンドリーダーの男の声がした。隣には、もはや視線を合わせようともしないエマが立っている。


「最悪だ。……この状況で、株の予想でもしろってのか?」


「予想? いや、そんな生ぬるいものじゃない。君には、世界経済の『引き金』を引いてもらう」


男が操作すると、モニターに複雑な数式と、巨大な資本の動きを示すグラフが表示された。


「明日、米連邦公開市場委員会(FOMC)の発表がある。そこで我々は、人為的なフラッシュ・クラッシュ(瞬間的暴落)を引き起こす。君の役目は、その『特異点』を君の眼で見極めることだ。君が『黒(下降)』を視たと同時に、我々の全システムが世界中の市場に売りを浴びせる。君の直感と我々の資本力が結びつけば、世界中の富を数分で吸い上げることができる」


零は乾いた声で笑った。


「断れば?」


「君の妹、結衣くんだったかな。彼女の安全は保証できない。……それに、君自身もね」


零の心臓が、一際大きく脈打った。 ドクン、ドクン。 心臓の音が、モニターのクリック音のように規則正しく、そして冷たく脳内に響く。


(利用され、捨てられ、今度は世界の喉元を締める道具にされるのか……)


零の視界は、今や完全なモノクロームだった。色彩は死に、光と影のコントラストだけが、彼の世界を構成している。 だが、その暗い深淵の底で、何かが静かに燃え始めていた。


「……分かった。協力するよ」


零は俯きながら答えた。 エマが微かに息を呑む気配がした。後悔か、あるいは憐憫か。そんなものは、今の零には「色のないノイズ」でしかなかった。


翌日。作戦決行の時刻が迫る。 市場には異様な緊張感が漂っていた。零の脳は、電極を通じて直接サーバーとリンクされている。


「さあ、始めようか。未来を視せろ、零」


男の命令と共に、モニターのチャートが狂ったように踊り始めた。 零は深く、自らの意識の深淵へと潜っていった。


(視えろ……視えろ……)


脳の奥が、焼きごてを押し当てられたように熱い。 代償として失ってきた色彩。家族の愛、友人との思い出、空の青。すべてを差し出して手に入れた、この忌々しくも愛しい「眼」。


モニターの数字が加速する。 組織の連中は、零が「下降」を指し示すのを今か今かと待ち構えている。


だが、零の網膜に映し出されたのは、組織が望む「黒」ではなかった。 それは、かつての「灰色」をも超えた、眩いばかりの、純白の「光」。


「……ああ、そうだ。これが、本当の『1』だ」


零の唇が、歪に吊り上がった。


「……来たぞ! 『白』だ! 上昇の極点だッ!」


零が叫ぶと同時に、脳波を通じてシステムに信号が送られた。 組織のリーダーは狂喜した。


「よし! 総額五十億ドルの全力売りだ! 逆回転させて一気に叩き落とせ!」


組織の全資本が、下降への賭けに注ぎ込まれた。 世界中のトレーダーたちが、その異常な売り圧力に驚愕し、パニックが連鎖しようとしたその瞬間――。


「……何だと!?」


男の叫びが部屋に響いた。 チャートは、組織の売りを嘲笑うかのように、垂直に跳ね上がったのだ。 大口の投資家たちが「安値」と判断し、一斉に買い向かってきた。零の指し示した「白(上昇)」は、組織の巨額資金を飲み込み、成層圏まで突き抜けていく。


「馬鹿な! なぜだ! 零、お前は『黒』を視るはずだった!」


「……言ったはずだ。『白』が来たってな」


零は椅子に拘束されたまま、笑い声を上げた。 組織が「逆指標」として自分を利用することを知っていたからこそ、零はあえて「真実」をそのまま突きつけたのだ。組織が「逆を突く」ことを前提に賭けることを見越し、そのさらに先、組織自体が破滅するポイントを、命を賭けて射抜いた。


「お前たちが俺を道具にしたように、俺もお前たちを道具にしたんだ。……俺の全能感を、完成させるためのな!」


モニターには『不的中』『強制ロスカット』の文字が、血のような黒で並ぶ。 五十億ドル。組織の積み上げてきた闇の資金が、一瞬にして電子の藻屑と化した。


「貴様ぁッ!」


男が銃を抜く。 だが、その時、部屋に赤い非常警報が鳴り響いた。金融当局、あるいは対立組織か。破滅の連鎖は、止まらない。


零は、混乱の中でエマと目が合った。 彼女の瞳には、かつてないほどの恐怖と、そして少しの……救済が見えた気がした。


「零……逃げて……」


彼女が拘束を解くスイッチを押した。 零は自由になった身体で、崩れ落ちる組織の牙城から駆け出した。


視界は、まだ灰色のままだ。 だが、一歩踏み出すごとに、身体を流れる血の熱さが、確かな感覚として戻ってくる。 金はない。視覚もない。だが、彼は初めて「自分の意志」で、0か1かの境界線を飛び越えた。


「……これが、オール・オア・ナッシングの結末か」


出口の向こう、雨の降る外の世界へと、零は迷わず飛び込んだ。


第9話 完


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る