第8話 引きこもりの外出

第8話 引きこもりの外出


高級ホテルのスイートルームは、今や10億の墓標と化した。 零は、もぬけの殻となった部屋の真ん中で、震える膝を抱えていた。


視界は最悪だ。霧雨の降るモノクロ映画の中に閉じ込められたように、あらゆる輪郭がぼやけている。 「……外に。外に、行かなきゃ……」


3年間、彼にとって外の世界は「死」と同義だった。だが、今の彼を突き動かしているのは、死への恐怖を上回る「渇き」だ。なぜ、あの瞬間に異能は死んだのか。なぜ、エマは自分を捨てたのか。


零は、クローゼットに残された安物のパーカーを羽織り、よろめきながら廊下へ出た。


ホテルの自動ドアが開いた瞬間、暴力的な「世界」が零を襲った。


「が……っ、は、ぁ……!」


肺に流れ込んできたのは、雨混じりの排気ガスと、濡れたアスファルトの重苦しい臭い。3年間、密閉された無菌室のような部屋にいた彼にとって、外気は毒のように刺激が強すぎた。 さらに、四方八方から押し寄せるノイズ。車の走行音、見知らぬ誰かの話し声、街頭ビジョンの音声――。色彩を失い、視覚が機能不全に陥っている分、聴覚と嗅覚が異常なほど鋭敏に世界を拾い上げてしまう。


「うるさい……静かにしろ……ッ!」


零は耳を塞ぎ、壁を伝って歩き出した。 視界の端で、ぼんやりと光る巨大な液晶モニターが、ニュースを報じている。 『米雇用統計、歴史的な大波乱。一瞬の暴落の裏に、巨額の誤発注か?』


(誤発注……? 違う、俺が賭けて、俺が負けただけだ……)


フラフラと歩き、彼は気づけば、以前エマが連れて行ってくれた「ダーク・プール」のあった雑居ビルの裏路地に辿り着いていた。


「……いたわね。死んだかと思ったわ」


霧の向こうから、聞き慣れた、そして今は呪わしいその声が響いた。 エマだ。


零は、朦朧とする意識を無理やり繋ぎ止め、声の方向を睨みつけた。色彩のない視界の中で、彼女の姿だけが、影絵のように濃い黒となって立っている。


「エマ……。説明しろ……。あの『灰色』は何だ。なぜ、俺は負けたんだッ!」


零は彼女の肩を掴もうとしたが、その手は空を切った。エマの隣に、もう一人の男が立っていた。第5話で倒したはずの、ヘッジファンド「レヴィアタン」のリーダーだ。


「まだ分かってないのかい? 『神の眼』の持ち主さん」


男が、勝ち誇ったような低い笑い声を上げる。


「君の能力は、マーケットの『総意』を読み取るものだ。だが、あの瞬間の暴落は、総意じゃない。……我々組織が、人為的に引き起こした『エラー』だ」


「……人為的?」


「そうよ、零」 エマの声は、以前の甘さを欠いた、氷のように無機質なものに変わっていた。 「貴方のその眼は、あまりに正確すぎた。だから、貴方が『白』だと確信した瞬間に、私たちが裏で数十億ドルの逆注文を叩き込み、無理やり相場をへし折ったの。貴方の能力を、組織が『操作』するためのバグとして利用するためにね」


零の脳内で、バラバラだったピースが最悪の形ではまった。 組織にとって、零の異能は「金儲けの道具」ですらなかった。彼が「絶対に勝つ」という確信を持ってエントリーする瞬間は、すなわち「世界中の大衆が同じ方向を向く瞬間」だ。組織はその逆を突くことで、確実に大衆から金を巻き上げる。


零の確信(白)が深まれば深まるほど、組織が作る絶望(黒)は深くなる。 あの「灰色」は、能力の暴走ではない。絶対的な正解が二つ同時に存在してしまった、論理崩壊の証だったのだ。


「俺を……餌にしたのか? 全財産を、組織の『逆指標』として使うために……!」


「そういうこと。君が自信満々に10億を張った瞬間、我々は最高の利益を得た。感謝するよ、佐藤零くん」


男が、零の胸ぐらを掴み上げた。


「君はもう用済みだ。だが、その眼の構造には興味がある。……大人しく、我々の研究所に来てもらおうか」


「ふざけるな……っ!」


零は死に物狂いで男の腕を振り払い、雨の路地へと走り出した。 後ろでエマの「追って」という冷徹な指示が聞こえる。


(逃げなきゃ……。でも、どこへ?)


色彩のない世界。右も左も、白か黒かさえ分からない、灰色の迷宮。 3年ぶりに歩くアスファルトは冷たく、逃げ惑う零の心臓は、今にも破裂しそうなほど悲鳴を上げている。


「お兄ちゃん!?」


その時、遠くで聞き慣れた声がした。 幻聴ではない。 視界の端に、ぼんやりと浮かぶ小さな影。 組織の追っ手から逃げる零の前に、彼が捨てたはずの日常が、雨に濡れながら立っていた。


「……結衣?」


色彩のない世界で、零の瞳に、ほんの一瞬だけ。 妹の泣き顔に付着した「体温」という名の色が、宿った気がした。


第8話 完


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