第7話 15分後の破滅
第7話 15分後の破滅
スイートルームの空気は、精密機械が発する熱気と、極限まで張り詰めた静寂で満たされていた。
21時15分。米雇用統計発表まで、あと15分。 世界のマネーが呼吸を止め、一滴の火種で爆発するのを待っている。
佐藤零は、3台のモニターの前に鎮座していた。その指先は、数日前までの震えが嘘のように静止している。だが、彼の内面では、ドロドロに溶けた鉄のような焦燥が渦巻いていた。
「……10億。全部(オールイン)だ」
喉の奥から絞り出した声は、ひどく掠れていた。 モニターに映る数字の羅列。もはや「円」という単位に実感はない。それは彼をこの世界に繋ぎ止めるための唯一の酸素であり、同時に彼を絞め殺す縄でもあった。
傍らに立つエマが、ドレスの衣擦れ音をさせて身を乗り出す。彼女の体温と、甘く重苦しい香水の香りが零の鼻腔を突いた。
「いい度胸ね、零。これが通れば、貴方は名実ともにこの界隈の頂点に立つわ。……さあ、見せて。『白』か『黒』か」
零は深く息を吸い込み、異能の深淵へ意識を沈めた。 脳の奥が、熱いナイフで抉られるように疼く。 これまでは、目を凝らせば即座に世界が反転した。上昇の「白」、下降の「黒」。その二色だけが、彼にとっての絶対的な福音だった。
だが。
「……っ、なんだ……これ」
零の瞳が見開かれた。 網膜に映し出されたのは、輝く白でも、沈み込む黒でもなかった。 それは、どろりとした、濁った「灰色」の霧。
「視えない……? 何でだ、何で色が……ッ!」
視界の端々がチカチカと明滅する。 これまで代償として失ってきた色彩。青も、緑も、赤も、すべてが奪い去られた後に残ったのは、判定不能(ノイズ)という名の無の世界だった。
「どうしたの、零? 早くしなさい。あと10分よ」
エマの声が、遠くの洞窟から聞こえるように反響する。 零の額から、大粒の汗が滴り落ち、キーボードを濡らした。
「視えないんだ……灰色なんだよ! 全部が、濁って……何も視えないんだッ!」
零は頭を抱えて叫んだ。 初めての事態だった。絶対無敵だった「神の眼」が、最も重要な局面で沈黙している。 心臓が肋骨を突き破らんばかりに暴動を起こす。ドクン、ドクン。その音だけが、色彩を失った部屋の中に生々しく響いていた。
「落ち着きなさい! 貴方の眼が曇るはずがない。もっと深く……深淵を覗くのよ!」
エマの鋭い声が飛ぶ。 残り5分。 チャートは小刻みに震え、まるで巨大な獣が飛びかかる直前の唸り声を上げている。
零は血走った瞳で画面を凝視した。 (視えろ……視えろよ! 俺にはこれしかないんだ。これを外したら、俺はただの、何も持たない灰色に逆戻りだ……!)
歯を食いしばり、奥歯が軋む音がした。口の中に広がるのは、鉄錆の味。 だが、視界を覆う霧は晴れない。それどころか、霧の中から妹・結衣の泣き顔や、かつて自分が捨てた日常の断片が、亡霊のように浮かんでは消える。
(ノイズだ。消えろ。俺には金が……『1』が必要なんだ!)
残り1分。 世界中のトレーダーたちが指先をキーに乗せる。 零の脳内では、回路が焼き切れるような高音が鳴り響いていた。
「……あ、あ、あああああッ!」
半狂乱になった零は、思考を放棄した。 視えない。なら、賭けるしかない。 これまでの成功体験が、彼を狂気へと押し出す。
「上がる……上がるはずだ! ずっとそうだった。俺が選ぶ道は、いつだって『白』だったはずだ!」
判定時刻30秒前。 零は、狂ったようにマウスを連打し、「High」に全財産10億を叩き込んだ。
「……っ」
エマが息を呑む。 21時30分。統計発表。
瞬間、画面上のロウソク足が、物理法則を無視したような動きを見せた。 上に、下に、激しく乱高下を繰り返し、モニターが閃光を放つ。
「……あ」
零の口から、魂が漏れ出したような音が漏れた。 激しい乱高下の末、チャートが選んだのは――。
一筋の、冷徹な下落(黒)。
零が賭けた「High」のラインを無残に踏みにじり、レートは底なしの深淵へと突き抜けていった。
『判定終了:不的中』 『残高:0』
静寂が訪れた。 サーバーのファンが回る音。遠くで鳴る救急車のサイレン。 零は、糸が切れた操り人形のように椅子から崩れ落ちた。
「……ゼロ……? 全部、消えた……?」
自分の指先を見る。 爪の色も、指紋の溝も、もう判別できない。 そこにあるのは、ただの無機質な灰色の塊だった。
「あら。……残念ね、零」
エマの声から、先ほどまでの熱が急速に失われていく。 彼女は冷めた瞳で、床に這いつくばる零を見下ろした。
「15分前までは『神』だったのに。……やっぱり、貴方もただの人間だったということかしら」
「……待て、エマ。もう一度、もう一度だけチャンスを……」
零が彼女の靴を掴もうと手を伸ばすが、エマは軽やかにそれをかわした。
「0か1か。貴方は0を選んだ。それだけのことよ」
彼女は背を向け、一度も振り返ることなく部屋を出て行った。 バタン、と重厚なドアが閉まる。
10億の資産、神の称号、そして唯一自分を認めてくれた(と思っていた)女。 すべてを失った。 零の視界は、ついに完全な「無」……何も視えない灰色に塗りつぶされた。
「……っ、う、あああああッ!」
暗闇よりも深い灰色の中で、零の絶叫が、虚しく、どこまでも虚しく響き渡った。
第7話 完
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