第6話 代償の色彩

第6話 代償の色彩


「ダーク・プール」での圧勝から数日。佐藤零は、エマが用意した最高級ホテルのスイートルームにいた。


かつて憧れたはずの成功の証――大理石の床、シルクのシーツ、そして壁一面のパノラマウィンドウ。だが、零がそこから外を眺めたとき、胸を突いたのは感動ではなく、心臓を直接氷で撫でられたような戦慄だった。


「……嘘だろ」


窓の向こう、広大な空が広がっているはずだった。だが、そこに「青」はなかった。 かつて抜けるような群青だったはずの冬の空は、まるで汚れたコンクリートのように、生気のない「灰色」に塗り潰されていた。


「青が……ない。どこにも、ない……」


零は震える手で、テーブルに置かれたペットボトルの水を掴んだ。ラベルの青色も、光に透ける水の冷涼な輝きも、すべてが煤けた鉛色に沈んでいる。


「お目覚めかしら。顔色が悪いわね、零」


背後からエマの声が響く。彼女は今日も鮮やかな赤いドレスを纏っているようだったが、その赤すらも、零の目にはどこか枯れた血のような、どす黒い茶色に見え始めていた。


「エマ……空が、変なんだ。真っ暗じゃないのに、色が……青色が消えたんだ」


「それが貴方の払っている『通行料』よ」


エマは優雅な所作でシャンパングラスを傾ける。炭酸が弾けるパチパチという音が、今の零には神経を逆撫でするノイズに聞こえた。


「色彩を捨て、数字の深淵に触れる。貴方は今、人間を超えた存在……『投資の神』へと近づいているの。素晴らしいことじゃない?」


「神……? 笑わせるな。俺は、空の色も思い出せなくなってるんだぞ!」


零はエマに詰め寄った。だが、彼女の首筋を流れる香水の甘い香りが鼻をくすぐった瞬間、脳の奥で「カチリ」と、あの異能のスイッチが入る。


視界の端で、デスクに置かれたトレード用端末が明滅した。 ポンドの急落。その予兆が、零の網膜に強烈な「黒(下降)」の閃光を焼き付ける。


「……っ!」


零はエマを突き放し、モニターへ飛びついた。 恐怖。喪失感。それらを一瞬で上書きしたのは、脊髄を駆け上がるような強烈な「全能感」だった。


「青が消えたなら……金で塗り潰せばいい。一千万、二千万……、億だ。億を稼げば、こんな恐怖なんて……!」


指先がキーボードを叩く。カチカチカチ、と小気味よい音が、彼にとっての唯一の福音となる。 色彩を失う恐怖よりも、判定を当てる快感が勝る。脳が焼けるような熱を帯び、零は歪な笑みを浮かべた。


「そうよ、零。その意気よ。貴方の『眼』は、もう誰にも止められない」


エマが背後から、零の首筋に冷たい指を這わせる。 その指の感触すら、どこか現実味を欠いていた。今の彼にとって「本物」なのは、画面上で増殖していく無機質な数字だけだ。


「……あはは! 見ろよエマ、また当たった! 百万ドルがゴミみたいに増えていく!」


零は叫んだ。だが、その声はひび割れ、狂気を帯びている。 彼はふと、窓ガラスに映る自分の顔を見た。 そこには、二十代の若者の面影はなかった。目の下には深い隈が刻まれ、肌は土気色。そして何より、その瞳からは「生命の光」が消え失せ、代わりにガラス細工のような冷徹な輝きが宿っていた。


「俺は……死んでない。負けてない……」


自分に言い聞かせるように呟く。 その時、スマホに一件のメッセージが届いた。妹の結衣からだった。


『お兄ちゃん、今日お母さんの誕生日だよ。忘れてない?』


零はその文字を眺めた。 「誕生日」「母」「家族」……。それらの言葉に付随していたはずの温かな感情の「色」が、どうしても思い出せない。 彼に視えているのは、メッセージの背景にある白い余白と、黒い文字の羅列だけ。


「……誕生日だと? くだらない」


零はスマホを床に投げ捨てた。 カシャン、と画面が割れる音がした。


「今の俺に、そんな『余計なノイズ』は必要ないんだ。俺にはこれ(・・)がある。白か黒か。0か1か。それだけでいい……それだけで!」


零は再びモニターにかじりついた。 外の空がどんな色をしていようと、海がどんなに深く青かろうと、今の彼には関係なかった。 色彩を失うたびに、残高は跳ね上がる。 人間を辞めるたびに、神へと近づく。


「……もっとだ。もっと見せろ。……世界の終わりまで、俺の『色』で埋め尽くしてやる」


灰色の世界で、零はただ一人、数字という名の猛毒に酔いしれていた。 彼の心からは、恐怖さえもが色彩と共に抜け落ち、ただ純粋な「渇望」だけが怪物のように膨れ上がっていた。


第6話 完


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