第5話 闇の闘技場(ダーク・プール)

第5話 闇の闘技場(ダーク・プール)


エマの案内で連れてこられたのは、六本木の雑居ビルの地下深く、厳重な防音扉の先に広がる異空間だった。


そこは「カジノ」という言葉から連想される華やかさとは無縁の場所だった。壁一面に張り巡らされた巨大モニター群が、青白く冷たい光を放っている。無数のサーバーユニットが発する唸り声が地鳴りのように響き、冷房は肌が痛くなるほど効いていた。空気は無機質で、高級な葉巻の煙と、焦げ付いた電子回路のような臭いが混ざり合っている。


「……ここが、戦場か」


零の呟きは、システムの駆動音にかき消された。


「ええ。ようこそ『ダーク・プール』へ。ここでは為替の変動そのものが、神々のチェス盤になるわ」


エマが不敵に微笑む。部屋の中央には、数人の男たちが座っていた。仕立ての良いスーツを着ているが、その瞳には血の通った温かみがない。彼らの前には、超高速取引(HFT)に特化した専用端末が並んでいた。


「紹介するわ。今日の貴方の対戦相手、ヘッジファンド『レヴィアタン』のエンジニアチームよ。彼らが操るのは、過去100年分の全金融データを学習した予測AI『アザゼル』」


チームのリーダーらしき痩せこけた男が、銀縁の眼鏡を押し上げながら零を冷笑した。


「エマ、冗談だろう? こんな、陽の光も知らないようなガキが、我々の10億ドルの演算能力に勝てるとでも?」


「期待していいわよ。この子は……『視える』の。貴方たちの計算機には決して届かない場所がね」


零は椅子に座らされた。目の前のモニターには、1回の掛け金(エントリー)が「1億円」からという、正気の沙汰とは思えない取引画面が表示されている。


「……ふん。10億ドルの演算? 笑わせるな。そんな数字の積み重ねが、未来だと思っているのか」


零の声に、これまでにない刺々しい傲慢さが宿る。 彼がキーボードに手を置いた瞬間、対局が始まった。


対象はボラティリティの激しい「ポンド/円」。1分後の判定。


「『アザゼル』、予測完了。上昇確率87.6%。エントリー開始」


男の合図とともに、レヴィアタン側が「High」に数億円を叩き込んだ。画面上のロウソク足が、巨大な買い圧力によってグンと上向く。


零は動かない。 脳の奥が、焼けるように熱い。 視界が急激に彩度を落としていく。エマの赤い唇も、モニターの青い光も、すべてがすりガラスを通したような灰色の世界に溶けていく。


(……まだだ。まだ、白も黒も来ない……)


脳が軋む。心臓の音が、鼓動というよりは警鐘のように耳を打つ。 残り30秒。 AI側は余裕の表情だ。チャートは安定して上昇を続けている。


(……。……ッ!)


その時、零の網膜が、爆発したような「漆黒」に塗りつぶされた。 それは、AIの計算結果をあざ笑うかのような、奈落の底へと続く闇の予兆。


「……見つけた」


零の指が、吸い付くようにマウスを連打した。 「Low(下)」に、エマから託された軍資金5億円を全額ベット。


「馬鹿か! このトレンドで逆張りだと? 自殺志願者か、貴様は!」


男が叫ぶ。だが、零の耳にはもう届かない。 零の瞳には、AIが計算から除外した「わずか0.01%のノイズ」が、巨大な津波となって押し寄せる様が映っていた。


残り10秒。 突如、イギリスの主要通信社から、一通のショッキングな経済ニュースが速報として流れた。 マーケットが悲鳴を上げる。 「High」に賭けていた巨額の資金が、パニック売りの連鎖を引き起こし、チャートは垂直落下を始めた。


「な……っ!? なぜだ、アザゼルの予測ではこんな事象、確率の底だったはずだぞ!」


「数字を信じすぎたな、機械人形」


零は冷たく言い放つ。 判定時刻。 チャートは、零の指し示した「漆黒」の底を突き抜け、静止した。


『的中:ペイアウト 9億5,000万円』


静寂が部屋を支配した。聞こえるのは、オーバーヒートしそうなサーバーの冷却ファンの音だけだ。 零は深く、椅子に背を預けた。 勝利の快感。しかし、それと同時に激しい眩暈が彼を襲う。


「お兄ちゃん……?」


ふと、幻聴が聞こえた。部屋の片隅に、妹の結衣が立っているような気がして目を向けたが、そこにはただ、灰色の影が落ちているだけだった。 零は自分の掌を見た。 血管の青さすらも、もう判別できない。


「素晴らしいわ、零。AIを黙らせるなんて」


エマが歩み寄り、零の肩に手を置く。その手の感触だけが、唯一の現実だった。


「……次だ。次の獲物を出せ。……まだ、何も視えなくなる前に」


零の瞳は、もはや勝利を喜んでなどいなかった。 彼は、色彩と引き換えに手に入れた「残酷な真実」を追い求める、数字の奴隷へと成り果てていた。


第5話 完


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