第4話 凍りついた口座
第4話 凍りついた口座
深夜の静寂は、死の宣告に似ていた。
零は、震える指先で何度も「更新」ボタンを連打していた。画面には、非情な英単語が並んでいる。 『Your account has been suspended due to suspicious activity.(不審な操作が検知されたため、アカウントを凍結しました)』
「嘘だ……嘘だろ……。ふざけるな、返せ……俺の金を返せッ!」
叫び声は、防音の甘い自室に虚しく響いた。 残高、三千四百万円。 一千円から始まった奇跡の数字。それは、零が色彩を捨て、魂を削り、脳を焼き切る思いで積み上げた「命の代価」だった。それが今、海外業者の気まぐれなサーバーエラー一つで、ただの無意味な文字列に成り下がっている。
「……っ、ぁ、ああ……」
胃の底から、せり上がるような吐き気がした。 口の中に広がるのは、鉄錆のような苦い酸味。全身の毛穴から冷や汗が噴き出し、新調したゲーミングチェアの座面がじっとりと濡れていく。
金が消えた。 それは、彼がようやく手に入れた「世界との接点」を断たれたことを意味していた。 この金があれば、妹に贅沢をさせ、自分を笑った奴らを見返し、この薄暗い部屋から抜け出せるはずだったのに。
その時だ。
カチャリ、と背後のドアが開いた。 結衣かと思い、零は怒声を浴びせようと振り返った。
「……誰だ」
そこに立っていたのは、妹ではなかった。 夜の闇をそのまま裁断して仕立てたような、漆黒のドレスに身を包んだ女。 彼女が踏み出した一歩から、甘く重厚な香水の香りが部屋の淀んだ空気を塗り替えていく。サンダルウッドの、どこか寺院を思わせるような、人を酔わせる香り。
「佐藤零くん。三千四百万を失った気分はどうかしら?」
「お前……響の仲間か? どこから入った!」
「窓の鍵が甘いわよ。……私はエマ。絶望している貴方に、救済(ディール)を持ちかけに来たの」
エマと名乗った女は、零の荒れたデスクを細い指でなぞり、灰色の色彩しか残っていない零の瞳を覗き込んだ。
「救済だと……?」
「その業者は、貴方の勝ちすぎに恐れをなして口座を潰した。個人が束になっても勝てない、それが表の世界のルール。でも、この世界には別の『穴』があるのよ」
エマは、一枚の黒いカードをデスクに滑らせた。 刻印されているのは、不気味な「黒い樽(ブラック・バレル)」の紋章。
「『ブラック・バレル』。そこには掛け金の上限も、卑怯な口座凍結もない。あるのは、純粋な『0か1か』の弱肉強食。……貴方のその『眼』、そこでならもっと輝けるわ」
「……俺の、眼……」
零はたじろいだ。自分の異能を、この女は知っている。 エマは零に一歩近づき、彼の頬を冷たい手で包み込んだ。彼女の指先は驚くほど白く、そして色彩を失った零の視界の中でも、彼女の唇だけは毒々しいほどに赤く「色」を持って見えた。
「今の貴方に残された道は二つ。このまま一千円の生活に戻り、一生を灰色の中で終えるか。それとも……私と一緒に、この世の真理(ミリオンダラー)を掴み取るか」
零の喉が鳴った。 恐怖はある。だが、それ以上に、一度味わってしまったあの万能感が、脳を激しく揺さぶる。 あの「白」と「黒」の世界。判定の瞬間にだけ訪れる、あの神のごとき充足感。
「……その、裏の取引所へ行けば……金は、戻るのか」
「戻るどころか、今の損失すら誤差に見えるほどの富が手に入るわ。もちろん、相応の『賭け金』が必要だけど」
エマは、零の耳元で囁いた。その吐息が、彼の冷え切った肌に熱を帯びて伝わる。
「賭け金は……もう無い。全部、凍結されたんだ……」
「いいえ、あるわ。貴方の『命』と『時間』……そして、その『眼』よ」
零は、目の前の黒いカードを掴んだ。 指先が微かに震える。だが、彼はもう、一千円しかなかったあの頃の自分には戻れない。 たとえ、その先にあるのが地獄だと分かっていても。
「……いいだろう。連れて行け。その、真っ黒な地獄へ」
零が答えた瞬間、エマの口角が吊り上がった。
「賢明な選択ね。……ようこそ、佐藤零。貴方は今日、ただの引きこもりから、世界の『審判者』になる」
零は立ち上がり、三年間閉ざしていた部屋のドアへと向かった。 一歩外へ出た瞬間、夜風が頬を叩く。 空を見上げても、やはり星の色も夜空の群青も分からない。 だが、隣を歩くエマの横顔だけが、狂おしいほど鮮明な色彩を放っていた。
「0か1か。……答えはもう、決まっている」
佐藤零は、初めて自らの意志で、色彩の消えた世界へと踏み出した。
第4話 完
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