第2話 複利の悪魔

第2話 複利の悪魔


カーテンを閉め切った部屋の空気は、数日前とは明らかに異質だった。 かつての淀んだ「敗北者の臭い」は消え、代わりに、過熱したPCが吐き出す熱風と、神経を逆撫でするようなオゾンの香りが充満している。


佐藤零は、新調したゲーミングチェアに深く身体を沈めていた。 モニターの数は一台から三台へ。それらは深夜の闇の中で、獲物を狙う獣の眼のように鋭い光を放っている。


「……九十二万。あと一回(ワンショット)で、大台だ」


零の声は、自分でも驚くほど低く、冷え切っていた。 数日前まで、千円の残高に震えていた男はもういない。 画面上で乱舞する数字。それはもはや彼にとって「金」ですらなく、自分の全能感を証明するための「スコア」に過ぎなかった。


カチッ、カチッ。


乾いたクリック音が、静寂を切り裂く。 零の瞳は、今やモニターの光を吸い込み、底知れない闇を湛えていた。 視界の端。かつて愛読していた漫画本や、妹が差し入れに持ってきたお菓子。それらはすべて、泥のような灰色に沈んでいる。


「零、入るよ?」


不意に、背後のドアが控えめにノックされた。妹、結衣の声だ。 零は眉をひそめ、舌打ちを隠そうともせずに答える。


「……鍵、開いてる」


ドアが開き、トレイに乗ったカレーの香りが部屋に流れ込んできた。食欲をそそるはずのその香りは、今の零には「集中を乱すノイズ」でしかなかった。


「お兄ちゃん、またそんな暗いところで……。これ、夕飯。ちゃんと食べて」


「そこに置いとけ」


零は振り返りもしない。モニターの中で、ユーロ円の波形が「白く」発火するのを待っている。


「……ねえ、お兄ちゃん。なんだか、最近変だよ。その、目が。なんだか怖いの」


結衣の言葉に、零は初めて椅子を回転させ、妹を真っ正面から見据えた。 結衣は息を呑み、後ずさりした。 零の瞳は、一点の曇りもなく「傲慢」に塗りつぶされていたからだ。


「怖い? 何がだ。俺は今、人生で一番『正しい』場所にいるんだよ、結衣」


「でも、その顔……。まるで、自分だけが特別だって……」


「特別なんだよ」


零は結衣の言葉を遮り、冷たく言い放った。


「お前たちが外で、上司に媚びを売り、満員電車に揺られ、はした金のために魂を削っている間に、俺はここで、世界の心臓を握っている。一秒で、お前の年収以上の金が動く。……これが『力』だ。わかるか?」


「お金が……そんなに大事なの? 昔のお兄ちゃんは、もっと……」


「帰れ」


零は再びモニターへ向き直る。 「邪魔をするな。今、俺は神と対話しているんだ」


結衣は何かを言いかけ、唇を噛んで部屋を飛び出していった。バタン、と閉まるドアの音。 零はその振動すらも、心地よいリズムとして受け流した。


「さあ……見せてくれ。次の『真実』を」


脳の奥が、熱く脈動し始める。 待機。忍耐。そして――。


視界が、一気に「黒」く染まった。 それは深淵のような、吸い込まれるような下降の予兆。


「来たッ!」


零は迷わず、一回の取引上限である二十万円を連続で叩き込んだ。 五連打。計百万円。 複利の力で膨れ上がった軍資金が、すべて「下降」の一点に集中する。


判定までの三十秒。 心臓の鼓動が、チャートの刻みと完全に重なり合う。 ドクン、ドクン、ドクン。 全身の毛穴が開き、皮膚が粟立つ。このヒリつくような快感。 妹の涙も、家族の絆も、色彩を失ったこの世界では、すべてが薄っぺらな書割に過ぎない。


「落ちろ、落ちろ……。俺の望むままに!」


判定まで、残り五秒。 為替レートが、目に見えない巨大な手に押し潰されたかのように、崖を転がり落ちる。


『判定終了:的中』


画面に表示された払戻金(ペイアウト)は、百八十八万円。


「はは……あはははは! チョロい、チョロすぎるッ!」


零は天を仰ぎ、狂ったように笑い声を上げた。 もはや、そこにいたのは「自宅警備員」ではない。 欲望の泥沼に足を踏み入れ、自らを神と錯覚した「独裁者」だった。


彼は気づかない。 笑う彼の頬を伝う汗が、もはや透明ではなく、薄暗い灰色に染まり始めていることに。 そして、部屋の隅にある姿見に映る自分の顔から、若々しさが失われ、まるで枯れ木のような凄惨さが漂い始めていることに。


「百万円か……。いや、まだ足りない。次は一千万、その次は一億だ」


零は、カレーが冷めていくのも構わず、再び暗闇の中へ。 色彩を失った世界で、彼はただ一人、数字という名の魔物に魅入られていた。 引きこもり部屋は今、外界を嘲笑うための、冷徹な「司令部」へと完成した。


第2話 完


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