第1話 残高1,000円の覚醒

第1話 残高1,000円の覚醒


カーテンを閉め切った六畳間は、酸えた汗の臭いと、埃っぽい機械の熱気に満ちていた。 佐藤零は、骨が浮き出た指で、カチカチとマウスのホイールを回し続けている。胃袋はもう数時間前から、内側から自分自身を食い破るような鈍い痛みを訴えていた。


「……あと、千円か」


モニターの隅に表示された銀行口座の残高。それは、零という人間がこの世に繋ぎ止められている、最期の命綱だった。 三年間、この部屋で現実を拒絶してきた。だが、現実は「空腹」という卑俗な暴力を使って、ドアの隙間から這い入ってくる。


「死ぬか。……それとも、これ(・・)で遊んでから死ぬか」


零は自嘲気味に呟き、ブックマークの隅に追いやられていたバイナリーオプションのサイトを開いた。 画面には、せわしなく上下を繰り返す折れ線グラフ――ロウソク足が並んでいる。上がるか、下がるか。当てるだけで金が二倍になる。そんな甘い言葉に誘われて、かつて数万円を溶かしたゴミ捨て場だ。


「どうせ死ぬなら、ゼロの方が収まりがいい」


零は、震える手で「USD/JPY」の画面を開いた。一分後の判定。 画面の中では、無数の投資家たちの欲望が、一銭単位の攻防を繰り広げている。 零は深く、淀んだ空気を吸い込んだ。その時、視界がぐにゃりと歪んだ。


「……っ、なんだ、これ」


眩暈ではない。脳の奥に、冷たい氷の楔を打ち込まれたような感覚。 耳の奥で、キーンという金属音が鳴り響き、心臓が爆発しそうなほど速く鼓動を刻む。 熱い。脳が沸騰している。


「あ、が……ああああッ!」


零は頭を抱えて蹲った。 だが、強引にこじ開けられた視界の先に、異変が起きていた。 モニターから色が消えていく。壁の色も、床に散らばったゴミも、すべてが灰色に沈んでいく中で――。


一分後の未来を示すはずのグラフの先から、まばゆい「白(しろ)」が溢れ出した。


「白……? いや、光ってるのか?」


それは、ただの光ではなかった。 「確定した未来」が放つ、暴力的なまでの純白。 今、この瞬間から三十秒後、レートは必ず今より高い位置にある。その事実が、数式でも予測でもなく、絶対的な「像」として脳に焼き付いた。


「……これだ。ここだッ!」


零は迷わず、全財産の千円を『High』に叩き込んだ。 クリックした瞬間、心臓の鼓動が止まったかのように錯覚する。 画面上のカウントダウンが始まる。六十、五十九、五十八……。


「来い。裏切るなよ、僕の眼……!」


喉の奥がカラカラに乾き、唾液を飲み込むことすら忘れる。 判定ラインの下を這っていたレートが、残り十秒で、まるで透明な階段を駆け上がるように跳ね上がった。 零の瞳に、その白い光が反射する。


『的中:1,880円』


「……っ、はは。はははは!」


乾いた笑いが、狭い部屋に響いた。 偶然じゃない。確信があった。あの瞬間に視えた「白」は、この世界で唯一信じられる真実だった。 零は、すぐさま次のチャンスを求めて画面を凝視した。


脳が軋む。代償だろうか、目の前のキーボードの色が、少しずつ煤けたように黒ずんで見える。だが、そんなことはどうでもよかった。 今の零にとって、このモニターから放たれる「白」と「黒」だけが、唯一の栄養源だった。


「次は……あそこだ。暗い……黒が視える」


視界が真っ白に染まる時、それは「上昇(勝ち)」を意味し。 視界が真っ黒に塗り潰される時、それは「下降(勝ち)」を意味する。 どちらにせよ、零が選ぶべきは、その色が示す「勝利」の方向だけだ。


「いけ……墜ちろ……ッ!」


二回目のエントリー。一八八〇円を全額ベット。 数分後、残高は三五三四円へ。 三回目。全額。六六四三円へ。


「ああ、気持ちいい。脳が、溶けそうだ……」


零は、飢えを忘れていた。 代わりに、今まで味わったことのない万能感が、血管を駆け巡っていた。 社会に居場所がなく、誰にも必要とされず、ただ消えていくだけだった自分が、今、世界の経済という巨大な波の頭を、自らの指先で叩いている。


一時間、二時間。 どれほどの時間が過ぎたのか。 気づけば、残高の数字は、引きこもり生活三年間で一度も見たことのない領域に達していた。


『残高:52,400円』


「……五万。たった一時間で、五万か」


零は、マウスから手を離した。 指先は痙攣し、全身が嫌な汗でベタついている。 視界を戻そうとして、彼は息を呑んだ。


「……なんだよ、これ。冗談だろ」


ふと見上げた、妹の結衣が置いていったはずの観葉植物。 かつては鮮やかな緑色をしていたその葉が、今は、まるで古いモノクロ映画のように、味気ないグレーに変色していた。


「色が……消えてる……?」


零は自分の手を眺めた。血の通ったはずの皮膚の色が、どこか遠い。 恐怖が、冷たい指先で背中をなぞる。 だが。


『チャンス到来:USD/JPY 急変動予測』


モニターが、新たな獲物を告げて明滅した。 その光を見た瞬間、恐怖は消し飛んだ。 零の瞳は、吸い寄せられるように画面へと戻っていく。


「……いいさ。空の色なんて、最初から嫌いだった」


零は歪んだ笑みを浮かべ、再びマウスを握りしめた。 「次だ。次は……十万まで一気にいく」


カチリ。 また一つ、世界から色彩が消え、数字の神が微笑んだ。 それは、引きこもりの青年が、地獄の王座へと登り始める最初の足音だった。


第1話 完


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