プロローグ
部屋の隅に積み上がったコンビニ弁当の空き容器が、発酵したプラスチックのような、鼻を刺す嫌な臭いを放っている。カーテンを閉め切った六畳間。唯一の光源である液晶モニターの青白い光が、佐藤零の死人のように青白い頬を照らしていた。
「……はぁ、はぁ……」
零の呼吸は浅い。マウスを握る右手は、汗でじっとりと湿っている。指先から伝わるプラスチックの硬質な感触が、妙に遠く感じられた。
画面の中では、一本の細い光の線がのたうち回っている。ドル・円の為替チャート。それは数百万人の欲望が編み上げた、現代の巨大な鎖だ。
「あと、三十秒……」
心臓の鼓動が耳の奥で、重いドラムのように鳴り響く。ドクン、ドクン。そのリズムが、チャートの刻みと同期していく。視界がチカチカと明滅し、焦点が合わなくなる。極限の空腹と不眠、そして「負ければ終わり」という恐怖が、彼の脳を異界へと押し出そうとしていた。
その時だった。
カチッ。
脳内で、何かが外れる音がした。
突如として、視界から不純なノイズが消えた。モニターから発せられる熱気、部屋の淀んだ空気、皮膚を這う不快な湿り気。それらすべてが遠のき、世界が「意志」を持ったかのように、一つの答えを提示し始めた。
「……え?」
零の瞳が、黄金色に弾ける。
目の前のチャート。今までランダムなノイズにしか見えなかった折れ線グラフが、不意に、意志を持った生き物のように「未来の形」を描き出した。
視界が、真っ白に染まる。
雪のような白ではない。それは、勝利が約束された「光」そのもの。脳を直接叩くような、暴力的なまでの確信。
「……上がる」
掠れた声が、自分の喉から出たとは思えなかった。
零の指が、吸い付くように左クリックを叩く。 「High(高)」に全財産の、最後の一千円。
「来い……来いよッ!」
その瞬間、世界はスローモーションに突入した。
判定時刻までの十秒間。一秒一秒が、永遠の苦行のように長い。唾液を飲み込む音すら、部屋中に響き渡る。喉の奥がカラカラに乾き、鉄の味がした。
残り五秒。 為替レートが、ガクンと下に振れる。 一瞬、血の気が引く。心臓が握りつぶされるような痛みが走った。「やっぱりダメか」という絶望が、冷たい水のように背筋を駆け下りる。
だが、零の「瞳」だけは、まだ白く輝いていた。
「まだだ……まだ、死んでない」
残り二秒。 弾かれたように、光の線が跳ね上がった。それはもう、経済の動きなどではない。零の意志が、強引にグラフの尻尾を掴み上げたかのような、不自然なまでの急騰。
『判定終了:的中』
画面に踊る無機質な文字。 残高一千円が、一八八〇円に。
「……っ、ぁ、あああ……っ!」
零は椅子から転げ落ちた。床に散乱した雑誌の角が脇腹に刺さるが、その痛みすらも心地よい。脳内に、麻薬のような快感が奔流となって押し寄せる。全身の細胞が、歓喜の産声を上げていた。
指先が、ガタガタと震えている。 だが、その震えを止めるために零が伸ばした手は、再びマウスを握りしめていた。
「もう一度……もう一度、あの白(いろ)を……」
彼は気づいていなかった。 再び画面を見据えたその瞳から、わずかに、現実の色彩が抜け落ちていることに。 先ほどまで視界の隅にあった、妹が置いていったオレンジ色のマグカップ。その色が、心なしかくすんで見えたことに。
「おい、もっとだ。もっと見せろ……この先の『一(イチ)』を!」
零の唇が、歪な弧を描いて吊り上がる。 引きこもりの部屋。腐敗と静寂に支配されていた聖域で、一人の怪物が産声を上げた。
世界を二つに切り裂く、残酷な神の眼。 次に視界が「白」に染まったとき、零は迷わず、手に入れたばかりの金をすべて注ぎ込んだ。
カチッ、カチッ、カチッ。
マウスのクリック音だけが、深夜の部屋に、狂ったメトロノームのように響き続けていた。
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