第3話

「日が暮れちまう前に帰らないとな」

 竹藪に囲まれたこの神社は陽の光が届きにくいせいか、辺りに闇が忍び寄っていた。

「大丈夫。わたし、怖くない」

 わたしは近寄る健さんをじっと見つめた。

「凛ちゃんは時々おっかねぇ目をするなぁ。凛ちゃん。こんなおじさんがこんな時間に小学生の女の子を連れ回しているって噂されたら、凛ちゃんだってお母さんだって傷つくだろう」

「わたし、気にしない。誰もわたしに興味ないもの。それに、もうこの町を出るし」

 健さんは深い溜息をついた。

「この町を出たからって同じ県内に住むんだろう。噂は怖いぞ。僕を見れば分かるだろう。真実かどうかなんて関係ない。世間では僕は殺人者だ。保険金目当てで妻を殺した男だ。凛ちゃんだって知っているだろう」

 健さんの両手は固く握られ、その拳はわずかに震えていた。

「そんなの嘘。わたし、信じてない」

 わたしは健さんに駆け寄って、抱き着いてその胴に手を回した。

「いかん、凛ちゃん、離れろ」

 健さんはわたしの腕を掴むと、勢いよく引き剝がした。その弾みで私の手からユリが離れ、宙に浮かんだあと、地面に落ちた。

 健さんはすぐにしゃがんで大切そうにユリを持ち上げると、傷みを確認するように回転させた。三本の花の根本はアルミホイルで包まれ、その上を輪ゴムで縛ってある。そのおかげでユリは飛ばされずに落下しただけで、花びらは無事だった。

「京香、ごめん」

 そう呟くと、健さんは立ち上がって、神社の裏手にあるお墓へと歩き出した。陽はほとんど沈み、この世とあの世がすれ違い、何かおどろおどろしいものに触れてしまいそうな気配がして、わたしは身震いをした。健さんのお墓参りを邪魔してはいけないと思った。それでも、あのうちには戻りたくなかった。わたしはお墓に行ったとばかり思っていた健さんが再び現れて、境内の脇にある水道の蛇口で花瓶を洗い、水を灌ぐのを見つめていた。

 健さんは顔を上げてわたしの方をしばらく眺めていたけれど、薄闇に紛れてその表情は分からない。

「帰らんのなら、こっち来い。一人の方が危ないぞ」

 硬さと柔らかさが混ざったような声で健さんはそう言って、手招きをした。わたしは頷くと、健さんのもとに駆け寄った。


 京香さんのお墓は境内の裏手の霊園にある。初めてお墓を見た時は、あまりに大きな墓石でびっくりしたけれど、健さんから、

「これは合葬墓と言ってな、色んな人の骨が入ってるんだ。壺には入れないでな」

 と聞かされて、そういうお墓もあるのだと知った。

 きっと、健さんも死んだらここに入るんだろう。そうしたら、健さんのためにお花を供える人はいなくても、いつもお花があるから寂しくないね。

 あの時、三年生だったわたしはそんなふうに思ったんだ。

「さっき、凛ちゃんを置いてここに来た時にな、花瓶が汚れているのに気づいてよ。ほら、洗ってきたんだ。お花もきれいな花瓶とおいしい水の方がいいだろう」

 健さんはお墓の前に置かれていた花を集めて花瓶に挿した。健さんのユリが一際大きく、目立っている。ユリの香りがわたしの鼻に届いて、私は思わず、

「ごめんなさい」

 と、呟いた。

 さっきは、ごめんなさい。

 わたしは手を合わせて心の中でもう一度、京香さんに謝った。さっき、健さんが戻ってきたのは花瓶が汚れていたからじゃない。わたしが心配だったからだ。健さんはそういう人。そういう優しさをわたしに教えてくれた人。

「十八歳になったら、この町に戻る」

 きっぱりとわたしは言った。健さんは手を合わせて閉じていた目を開くと、ゆっくりとこちらに顔を向けた。

「何だって?」

「だって、あそこがわたしのおうちだから」

「おうちだからって言ってもなぁ。引っ越しちまったら、別の人が住むかもしれないぞ。それにな、今はそんなこと言ってても、中学、高校に進むと変わるもんだ。部活をしたり、アルバイトをしたりしてな。忙しくなるぞ。凛ちゃんは何が不安なんだい。友達と別れるのが寂しいのか」

 いつの間にか陽は沈み、淡い闇が足元から暗闇に浸食されていくのをわたしは感じていた。健さんを困らせてはいけない。それも京香さんのお墓の前で。そんなこと、分かっていたけれど、どうしたら良いのか分からなくなっていた。わたしは足元を見つめ、下唇を強く噛んだ。そうしていないと、いつ涙がこぼれるか分らなかった。

「友達なんていない。知ってるくせに。学童から帰ってきた後に、遊んでくれたのは健さんだけだもん」

 俯いていた顔を上げて、わたしは健さんを睨んだ。あれは低学年の頃。学童から帰ってきても、夏はまだ明るくて、部屋にひとりぼっちだったわたしは寂しくて堪らなかった。夜間保育を卒業してから、ママの仕事のある日は、いつも部屋にひとり。テレビもスマホもあったけれど、ずっとひとりは怖かった。台風がベランダを吹き付けた日は、悲鳴を上げる鉄骨にわたしの心も悲鳴を上げた。このまま、ベランダが崩れ落ちるかもしれない。本気でそう思って、膝を抱えて震えていた。スーパーの総菜や弁当をチンしてひとりで食べる夜ご飯は、全然おいしくないし、楽しくもなかった。

「そうだなぁ。あの時間はよくタバコを吸いに外に出ていたからなぁ。道端の花を摘んだり、近くの小川でカエル見つけたり、したっけなぁ」

 困ったような懐かしいような顔をして、健さんは笑った。わたしはこの笑顔が、一番好きだ。

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