第2話

 勢いだけで飛び出したけれど、行く当てなんかない。アパートの外階段の上に立って風に吹かれていると、また微かに口笛が聴こえた。

 けんさんだ。

 その瞬間、蛇がわたしの脚に絡みつきながら這い上がり、腹から胸をぎゅうぎゅうと締め付けているような感覚がした。わたしは握りしめた手を開き、ガラスの小瓶を見つめた。小瓶の中の小さな石が沈みかけた太陽に照らされて、ぎらりと輝いた。

 気づいたら、もう駆け出していた。外階段を鳴らしながら駆け下りて、道路を足で蹴った。ガラスの小瓶をスカートのポケットに突っ込む。健さんはアパートと民家に挟まれた小道をゆっくりと歩いていた。

「待って」

 わたしは健さんの背中に言葉を投げつけた。

 待って、わたしを置いていかないで。

 健さんに駆け寄りながら、わたしはそう声に出したのだろうか。心の中で叫んだはずのその言葉が聞こえたかのように、健さんはゆっくりと振り返り、呆然とわたしを見つめた。

「凛ちゃん」

 ゆっくりとわたしの名前を呼ぶと、不安げな表情で、健さんはわたしを見つめた。わたしの方は呼吸を整えながら、何か言わなきゃとそればかり考えていたけれど、何も言葉が出ない。

「お墓に行くんだよ。お彼岸だからね」

 健さんはそう言って踵を返すと、また歩き出した。わたしはその痩せっぽちの慣れ親しんだ背中が離れていくのをしばらく見つめてから、後を追った。

「だめだよ。日が暮れたら、お母さんが心配するだろう」

 寄り添って歩くわたしを見ずに、健さんは前を向いたまま、そう言った。わたしと健さんの間には、健さんの左手に握られた三本のユリが、健さんの歩調に合わせて揺れている。ウェディングドレスのような花びらは、橙色の花粉に点々と汚されていた。わたしは、その狂ったように濃い色をした花粉をじっと見つめた。

「お母さんって呼ばないで。あんな人、お母さんじゃないから」

 健さんの方を見ないまま、わたしは息を吐きだすようにそう言った。

「またそんなことを言う。あんなきれいなお母さんだから、凛ちゃんが生まれたんだろう」

「あの人にはそれしかないから。それがなくなったら、何も残らない人。健さん、すっぴん見たことあるでしょ。全然違うもん。あの人、心が汚いから」

「凛ちゃん」

 健さんはわたしの方に顔を向けて、哀しそうな視線だけで咎めた。

「いいの。あの人はママなの。お母さんのママじゃなくて、女のママ」

 わたしは自分に言い聞かせるようにそう言うと、健さんの手からユリを引き抜いて、わたしの左手で握りしめた。花びらのスカートがふわりと揺れて、花粉が道に飛び散った。健さんは立ち止まって何かを言いたそうにわたしの顔を見つめていたけれど、沈みかけた夕陽と神社を交互に見ると、黙ってまた歩き始めた。

 わたしは外壁が汚れてまだら模様になった家や、側溝の蓋と蓋の間から伸びる雑草を眺めながら、健さんの隣を歩いた。わたしが小さい頃から見てきた風景。わたしの町。

「凛ちゃん、引っ越す家にはもう何度か行ったことがあるのか」

 健さんは前を向いたまま、そう言った。わたしは黙ったまま頭を振る。

「そうか。だけど、お相手さんには会ったことがあるんだろ」

 わたしが頷いたのを感じ取ったのか、健さんは小さな溜息をついた。

「家に出入りしてた男のうちの一人か」

 健さんはわたしとママが住む部屋のすぐ下の階に住んでいる。ママはわたしが保育園や学校に行っている間に、よく男の人を部屋に入れていた。健さんは午前中だけ「簡単な仕事」をしていて、お昼過ぎにはアパートに戻ることが多かったから、わたしよりもそのことをよく知っていたのだ。

 どんな音が聞こえていたのか。

 それを考えると、肺がぐしゃっと潰れるような気持ちになる。

「たぶん、そうだと思う。だけど、うちで会ったことは一度もないの」

 あの人だけじゃない。他の男の人とも一度もうちで顔を合わせたことも、玄関ですれ違ったこともない。ママは自分の男たちについて話すのをひどく嫌がって、いつも「友達が来たのよ」としか言わなかった。腐った脂と汗の混じったにおいが部屋中に漂い、敷きっぱなしの布団があるというのに。

「そうか」

 健さんはもうそれ以上は何も言わずに、神社の石段を上がった。竹林に囲まれたこの神社はいつもじめじめとしていたけれど、時々見かける宮司さんや近所の人たちが掃除をしているおかけで、いつ行っても清潔だった。

 健さんは鳥居の前でお辞儀をすると、お賽銭箱の前までゆっくりと歩いて、お金は入れずに手を合わせた。わたしはその丸い背中を見つめていた。健さんは竜也さんより十五歳も若い。あの人の顔や体からは脂のにおいがしたけれど、健さんからはしない。それは健さんが若いからなのか、それともおじいさんみたいに脂が抜けてしまったのか、どちらなんだろう。わたしは健さんから漂う、炒った豆のような香ばしくて懐かしい匂いが好きだ。

 健さんはお辞儀をすると、こちらを振り返り、境内の裏手にある霊園を見やった。


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