夏のかけら

葵 春香

第1話

 ボロボロの段ボールに教科書やノートを入れる手を止めて、わたしは部屋の隅に寝そべるママを見つめた。ハイネックの首元は萎れた花びらのようで、これもいつ買ったか分からない毛玉だらけのズボンのお尻がいやに大きく見えた。わたしの部屋とママの部屋を仕切っている襖は、真ん中の二枚が開け放たれ、汚染された川が海に流れ込むように、わたしの部屋にママの荷物が雪崩れ込んでいた。

 このアパートでのわたしの居場所は、襖の隣に置かれた学習机だけだ。ママが働いているお店の「ママ」からもらったというその焦げ茶色の机は、シールを剥がした跡が幾つもあって、マジックで書かれた落書きが薄く残っている。


 二年前、わたしが三年生になった春、この部屋に置かれた机は、大急ぎで下校した私を奈落の底に突き落とした。一目で男の子が使っていたと分かるそれは、無口で真面目そうな転校生のように、わたしの部屋の隅で縮こまっていた。きっと持ち主はこの椅子に座って静かに勉強するようなタイプではなかったんだろう。机のあちらこちらについた傷や汚れを見ながら、わたしはそう思った。あの日、狭い玄関に立ち尽くし、目の前の食卓の向こうの和室に置かれた学習机を、わたしはただぼんやりと眺めていた。

「なに、ぼおっと突っ立ってんの。机来たんだから、ローテーブル片付けてよ」

 食卓に片肘をついて、朝食だか昼食だか分からない菓子パンを頬張りながらママはそう言うと、ため息をついた。

「まったく、可愛げのない子だよ。あんたが欲しがってたから、届けてもらったんじゃないか」

 わたしは何も答えずに靴を脱ぐと、プラスチックケースの靴箱に靴を入れた。それから、黙ったまま食卓を横切り、和室に入ると、学習机に左手を乗せた。机の表面から伝わる冷たさで、手のひらがじんとした。わたしは机の木が食卓やママの部屋に置かれた折り畳み机とは違う、本物であることに気がついた。汚れているけれど本物の木。安い家具とブランドバッグが雑に置かれたこのアパートの部屋で、この机だけがなんだか浮いていた。ママが出かけたら、ママのマニキュアでこの落書きを消そう。消しゴムや雑巾を使ったら、他の汚れも落ちるかも。わたしは心の中でそう呟くと、机をそっと撫でた。


 あの日から、この机と椅子だけがわたしの居場所なのだ。わたしは立ち上がって机に左手を乗せると、あの時のようにそっと撫でた。

「その机はどうしようかねぇ。汚いだろ。竜也たつやさんの家に娘さんが使ってたっていうピンクの机があるってさ。結婚して家を出てから、ほとんど寄り付かないらしいんだ。それ、使わせてもらいな。このアパートの安っぽい家具なんて処分して、身軽に引っ越ししようよ、りん

 わたしは振り返って、肘枕をしながら欠伸をしているママを睨みつけた。

「なに、その顔。あんた、ピンクの机が欲しいってずっと言ってたじゃない。こんな男の子が使ってたような色気のない机は嫌なんだろう」

「ピンクの机が欲しかったのなんて、ずっと小さい頃。それに、この机が嫌だなんて言ったことない」

「なにさ、その机が来た時、あんた、しかめっ面して、何も言わなかったくせに。ありがとうの一言もなくてさ。可愛げのない子だよ。厭々使ってたんじゃなかったのか」

 わたしはそれには答えずに、ママの体から染み出した腐ったアルコールのにおいから逃げ出そうと、ベランダの窓を開けた。白い塗装が剥がれ落ち、鉄骨がむき出しになったベランダには、ママが干した洗濯物がしわくちゃのままワイヤーに吊るされている。その時、春風に乗って、いつもの口笛がわたしの耳に届いた。夕方になると、聞こえるあの口笛。どこかさみしくて、でもほっとする音色。だめだ、涙が出そう。わたしは学習机の本棚の隅に置かれた小さなガラス瓶を掴むと、小走りで玄関に向かった。

「あんた、どこ行くのよ。引っ越しは明々後日しあさってなんだからね。早く片付けちゃいなさいよ」 

 背中に浴びせられた罵声を振り払うように、わたしはうちを飛び出した。

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