氷性の彼女

擬氷

「本当に、今日退職するのか?」


「はい。もう、決めたことです」


 そう伝えると、所長は深くため息をついて、白衣のポケットに手を突っ込んだ。


「そうか……いよいよ来週この擬氷ぎひょうを溶かすというのに。とても残念だよ」


 私はラボの中心に鎮座した、巨大なクリスタルを見つめた。透明に張り詰めた結晶の中心には、十五歳くらいの少女が閉じ込められていて、ピクリとも動かない。


 擬氷ぎひょう。それが彼女を取り囲んでいる結晶の正体だった。近づくと少しひんやりとして、まるで本当の氷のようだった。


「しかし、一体何故なんだい? 君はこの擬氷ぎひょうを溶かす研究に、一生を捧げてきた。今や君はこの分野の第一人者だ。きっと世界中を探しても、君ほどの研究員はいないだろう。きっと我が国最初の女性科学者として持て囃されることになる。いよいよ明日全てが結実するというのに、どうして自分のものにしない?」


「確かに研究者として生きるなら、私の行動はあまりに常軌を逸していると思います。五十年間、研究一筋でしたからね。でも、人間としてなら、これが正常な選択なんですよ」


 そう伝えると、所長は首を傾げた。


「いや……もしかすると、正常に憧れているだけかも」


 擬氷ぎひょうに触れると、硬く冷たい感触が手のひらに広がった。しかし、擬氷ぎひょうは少しも溶けなかった。


 ❇︎


 本当は、研究員なんかになりたくなかった。そもそも勉強は苦手だったし、興味なんて全くなかった。それに、女性が研究員になるなんて、聞いたことがなかった。私が就職した時代はまだ女性が働くということが一般的ではなかったし、私も当然のように恋をして、結婚して、子供を産んで、主婦として生きていくのだと思っていた。


 だけど、それは叶わなかった。いや、叶えなかった。


 私にはその資格が無かったのだ。


 この人生全てを、クリスタルの中の彼女に捧げてきた。私は彼女を、子供の頃から知っていた。



 私の住んでいる地域は雪国で、一年のほとんどが雪の日だった。


 そして氷性ひょうせいの人間が生きる、数少ない地域だった。


 氷性ひょうせいの人間は、普通の人間と基本的には同じであるものの、その性質は大きく異なっていた。体温が著しく低く、食べ物や飲み物をほとんど必要としない。主食は氷や水で、凍った果実や種子を好んで食べた。睡眠時間が長く、活動時間は極端に短い。そして最大の特徴は、擬氷ぎひょうを作り出すことができることだった。


 擬氷ぎひょうは氷のように冷たいが、熱によって溶けることがない。常温でも、私たちの体温でも、常夏の国でも、そのままの性質を保つことができる。そして、彼女たちのような氷性ひょうせいの人間にしか作ることができない。いわば魔法の氷だった。


 熱で溶けないという性質を求めて、氷性ひょうせいの人間が生息している地域を有する我が国は、莫大な投資をもって研究チームを立ち上げ、このラボを作った。


 国は、人口の少ない氷性ひょうせいの人間を保護するという名目で、次々に氷性ひょうせいの人たちを捕縛した。そして施設に隔離し、研究や実験を行った。

 もちろん人権に配慮していると謳ってはいたが、閉鎖的な空間ではそれも確かではない。彼女たちは完全にモルモットであり、実質的に施設の管理品だった。


 そんな噂は、私たちの街によく届いていた。

 度々街にやってくる関係者と、氷性ひょうせいの人間の居場所を突き止めるための聞き込みは、日常茶飯事だった。


 まだ幼かった私は、そんなことなどつゆ知らずに、彼女と遊んでいた。


 遊ぶと言っても、彼女は言葉を発しないし、表情もほとんど変わらない。ただ顔を合わせて、少しだけお互いにリアクションを返す。私たちは見知った木霊みたいだった。


 私は彼女に出会うたび、その美しさに見惚れていた。フィクションの世界では白い肌が陶器に例えられているのをよく見かけるが、氷性ひょうせいの人間の肌はそういう形容では追いつかない。この世のものではないような、どこか精霊のような妖麗さを孕んだ、なんとも不思議な色だった。


 彼女の長く透き通った髪が揺れるたびに、私は心が高鳴るのを感じていた。


 雪の柔らかい日に出掛けると、彼女は雪の中からひょっこりと顔を出した。私が彼女に手を振ると、彼女も振り返してくれた。


 それくらいの関係だった。


 それでも私は彼女との時間を、宝物のように感じていた。

 だから聞き込みに訪れた関係者たちに自慢したかったのかもしれない。彼女のことを聞かれた時、私は意気揚々と居場所を伝えてしまった。


 自分の行動が彼女の自由を奪ったことに気付いたのは、物心ついてからだった。


 成長して研究所のことを理解し、彼女と出会うことがなくなったことに、ようやく合点がいった。


 私が何も知らずに無邪気に遊んでいた間に、彼女は連れて行かれてしまった。私が彼女を捕まえたようなものだった。


 最初は罪悪感などなかった。彼女を連れていったのは施設の人間だし、私は聞かれたことに素直に答えただけだ。その事実は変わらない。だけど、彼女のことを話した、その時の心の妙な高鳴りと、彼女のことなど忘れて無邪気に生きていた間の自分のことが、小さな破片のように、心に混じっていった。


 成長するにつれ、寒さが強くなる日は特に、心に不思議な異物感を覚えるようになった。私はその異物を握りしめてみる。微かに冷たくて、硬い、小さな破片が、いつもそこにあった。


 そしてそれは、少しずつ大きな結晶に育っていた。


 思春期になると、体調に出始めた。


 私は心に浮かぶ破片を見ないように努めた。だけど何をしても溶けない。何をやっても忘れられない。意識に沈んだと思えば、不意に浮かび上がっていく。


 徐々に弱っていった。心身の全部が、その破片に奪われてしまわないか、いつも怯えながら過ごした。


 苦しかった。


 だから決めた。私は研究員になることにした。


 きっと、どう足掻いてもそれしか選ぶことができなかった。勉強に没頭するようになって、体は幾分か強くなった。元気ではない。でも強くなった。未来のことを考えている間は、楽に息ができた。


 大学受験に合格したら、次は院に、博士に、研究員に。


 次々に目標を移して息をしてきた。



 そして、ついに、ラボの中で彼女と再会した。


 彼女はクリスタルの中に閉じ込められていた。


 資料では事故となっていたが、おそらく研究に嫌気が差して彼女が自らを擬氷ぎひょうの中に閉じ込めたのだろう。


 彼女はひときわ強い氷性ひょうせいの人間だったのだと思う。擬氷ぎひょうに包み込まれている間は仮死状態ではあるものの、上手く溶かせば息を吹き返すかもしれないという調査結果が出ていた。


 擬氷ぎひょうを生み出す研究は進んでいたが、溶かす研究はまだ疎かだった。私は奇しくも、その担当となり、毎日彼女の擬氷ぎひょうを研究した。


 研究所での日々は忙しかった。辛いことも多かったが、彼女に向き合っていると、なぜか許されたような気持ちになれた。実際は彼女のために捧げた時間と、その忙しさに酔っていただけだと思う。だけど、それでもよかった。


 長い月日が過ぎ、研究はついに終わりを迎えた。とうとう彼女の擬氷ぎひょうを溶かし、彼女を生きたまま、擬氷から出す準備が整った。


 この、巨大な擬氷ぎひょうを、いよいよ溶かせる。


 長年の研究が大成したというのに、私の心は一層ざわめいていた。


 彼女とどう相対していいのかわからないのだ。


 せっかくクリスタルで身を守った彼女から、私はそれを奪おうとしている。私は彼女から奪ってばかりだ。それなのにまた奪おうとしている。

 それにもし擬氷ぎひょうを溶かすことに本当に成功して、彼女が蘇ったら、研究員たちは彼女に何をするだろう?

 彼女を危険に晒すかもしれない。少なくとも昔のような非人道的なやり方はしないと思う。所長はいい人だし、きっと良い方針を取ってくれると思う。


 それでも。


 この氷を溶かしてしまったら、私はどうやって心を保っていけばいいのか、よくわからない。

 

 彼女に依存していたのだった。自分の罪悪感を、彼女と向き合う時間で希釈していたのだ。


 なのに世間は知らない。界隈では、私は擬氷ぎひょうの第一人者であり、研究に生涯を捧げた科学者の鑑だ。


 私はただの罪人なのに。自分の心しか見ていないのに。


 だけど、それもまた人生だ。私は私の人生を悔いてはいないし、こうでなければならなかったと受け入れている。


 私は正しい人生を歩んだ。ただそれだけ。


 彼女はなんと言うだろう。もはや彼女が私を恨んでいても、そうでなくても関係がないように思えた。


 私はこの私以外の全ての私を諦めた。それでよかった。よかったのだ。


 ❇︎


 そんなことを思いながら、擬氷ぎひょうをぼうっと、見つめていた。


 ついに別れを告げる日が来た。


 もうこのラボに戻ることもない。擬氷ぎひょうに触れるとも、彼女と向き合うこともない。


 擬氷ぎひょうの中の、少女を見る。


 初めてここにきてからずっと、同じ顔で、老いることなく、彼女はそこにいる。


 青白い光に包まれながら、ふと思った。


 ああ、今、消えてしまいたい。


 どうして私には明日が来てしまうのだろう。


 もう、やるべきことはやり尽くした。これが私のできる限界だ。


 今、ここで、消えて、なくなってしまいたい。五十年という長い時間をかけても、私の思いは、ずっと変わらなかった。


 私はずっと、あの時の少女のままだった。


 ああ。なぜだろう。なぜ、今、心が溶けるのだろう。


 許されたかったの、だろうか。


 とっくに諦めたはずなのに。

 とっくの昔に、やめたはずなのに。


 心が何に震えているのかわからないまま、五十年間、ただ生きてきた。


 心を、冷たい氷に明け渡したと思っていた。そう信じて研究を続けてきた。嫌な思いもたくさんした。女だからと罵られ、邪険にされたことだって何度もある。


 だけど、その全ての仕打ちが、私には相応しいと思っていた。私は、そうされて然るべき人間なんだ。


 そう思うと、楽になれた。受け入れられた。


 はずだった。


 今になって、こんな時になって、最後の最後になって、心が何かを叫んでいる。


 悔しかった。苦しかった。辛かった。


 許せなかった。許されたかった。


 全部自分のせいなのに。


 自分で選んだことなのに。


 涙なんて、一滴も出てこない。泣くなんて、私には許されないように思えた。だからずっと遮ってきた。


 なのに、ずっと、許されたいままだったというのか。


 私の心こそ、昔から何も変わっていなかった。結局自分が、一番可愛い。


 氷に反射する自分の顔を見つめる。私は私しか見ていなかった。自分から目を背けるつもりで、ずっと自分しか見ていなかった。


 本当に罪を受け入れられているなら、明日、擬氷ぎひょうを溶かす最後の実験に、私も向き合うべきなのだ。


 ああ、私は、やっぱり弱かったのだ。


 こんなに長い時間を費やしても、私は自分で、歩き出すことも、諦めることも、自分の罪を認めることも、できない人間だった。


 それを、彼女が教えてくれた。


 もしかしたら彼女はずっとここで、私の弱さを見張ってくれていたのかもしれない。


「ありがとう」


 自然と、そんな言葉が出た。そんなことを思えたのは、研究所に来てから初めてだった。


 擬氷ぎひょうに触れると、いつものように少しだけ冷たく、私の熱を奪ってくれる。


 私は、大きく深呼吸した。


 そして、出ていくことにした。これくらいはせめて、許して欲しい。


「さようなら」


 私は擬氷ぎひょうを背に、研究所を出た。

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