第5話


 分娩時入れた導尿カテーテルを外したり、ズタズタになった膣の内診で痛みに叫んだり、突如胸に湧いてきた母乳の重みにうろたえたりしているうちに、あっという間に退院の日がやってきた。

 

 久しぶりにパジャマ以外の服を着て新生児室に赴くと、退院着に着替えさせてもらった我が子がいる。

 退院時の赤子の服装は真っ白なフリルのドレスが一般的だが、私はあえて自分のワンピースと同じ色合い、春らしい薄緑色のカバーオールを彼女の退院着に選んだ。これはもちろん出産のその日まで私を勇気づけてくれた、ともちんの母娘コーデに憧れてのことだった。

 

 ミーハーで切実な、私の憧れを身にまとった我が子。

 今までは産院内で共通の産着を着せられ、正直他の赤ん坊と見分けの付くような付かないような感じであった。

 

 けれど、そうか。この子がお腹にいたのか。

 この子がお腹にいて、計画性のない母親の海外旅行にもついてきてくれたのか。

 帰国後、エコーの砂嵐の中に脈打つ心臓を見て、罪悪感と安堵で人目もはばからず涙ぐんだ。あの日絶対に守るのだと誓った健気な脈拍だったのに、分娩中「心音落としてみぃひん?」と脳内で交渉したことを恥じた。

 

 無事に産まれてくれたことが、しみじみと嬉しい。そして同時にたまらなく寂しかった。

 

 いくら同じ色の服に身を包んでも、私とこの子はもう完全に別の人間である。胎盤も羊水もへその緒も、あの分娩室へ置いてきた。

 文句のひとつも言わず長旅に付き合ってくれた我が子。片時も離れなかった私の一部。ちいかわカレーのシールが増えるたび、味覚すらも共有している錯覚に陥った。

 

 これからはもう、どう頑張ったって「片時も離れない」ことはありえない。

 それでも今このひとときが一番彼女に近くて、これからは「そうだった、別の人間だった」と気付くことばかりが増えていくのだろう。

 コットの中、カバーオールからのぞく小さな足は、やがて自分の意思で歩き出す。そこにかつて「名堀みや乃ベビー」と書かれたタグが巻かれていたことを大切に覚えているのは、きっと私ばかりだ。

 

 退院手続きを終えて乗ったエレベーターで、年配のご夫婦に声をかけられた。

「大事にしてあげてねぇ。換気よ、健康には換気が大事よ」

 たどたどしく赤ん坊を抱く私と夫に助言をくれた奥様の後ろで、ご主人が「生まれたてやんけぇ!」と朗らかに笑っていた。

「名堀さん」

 ご夫婦に見送られ、実母と合流したところで呼び止められる。振り返ると主治医の姿があった。麻酔用カテーテル挿入時、私を叱った先生だった。叱ってくれた先生だった。

 

「お疲れ様でした。大きいベビーだったから大変でしたね」

「あ、はい、まあ……」

 こちらが感謝を述べる前に切り出されてしまって、曖昧な返事しかできなかった。

「無痛分娩どうでした?痛かったですか」

「それは、はい」

 それはもう痛かった。本当に途中まででも麻酔があって良かった。

「赤ちゃんも頑張りましたね。最後まで元気でしたもんね」 

「はい」

 私の方が先にへばってしまった。あの場で一番頑張っていたのは、やはり赤ん坊だったのだ。

「あら、鼻の高い赤ちゃん。エコーで見た通りでしょ」 

「はい」

「あらっ、起きちゃった。お腹の中でも私の声で起きちゃいましたよね。私、うるさいのかな」

「はい、あ、いえ。これは『うるさいのかな』に対しての『はい』ではなくて、『お腹の中でも』、」

 私の喉を詰まらせたのは、唐突な涙だった。

 

 なにしろ私は、ずっと娘に会いたかったのだ。

 麻酔針に怯えた分娩室。シールだらけの自宅。シンガポールのビビットな夏空に、眠らぬビル街の淡い夜。娘に会いたくてたまらなかった十月十日の景色が、まぶたの裏で熱い涙に溶けてゆく。

 

 先生が、どうか幸せでありますように。

 彼女と強く目が合って、不意に思った。

 目の前のこの人、私の目に映る貴女が、どうか幸せでありますように。

 

 娘を無事取り上げてくださった感謝は当然ある。けれど私の胸を満たしたこの願いは、もっと身勝手な理由から来たものだった。

 

 我が子が幸せでありますように。そのために、これからこの子が生きてゆく世界、この世界を生きる貴女たちが、すでに幸せでありますように。

 

 私の両脇に立つ夫と母も。助産師さんたちも。それに、あの日私を搭乗ゲートに押し込んでくれた友人。かつて軽口を交わした同僚や、勝ち組ワンピースの先輩。ともちんとそのお嬢さん。顔も知らない隣の分娩室の親子。エレベーターの老夫婦。かつて誰かの赤ちゃんだったすべての人。

 

 


 

 

 

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分娩室のエビ~痛くなくはない無痛分娩記録~ 名堀 みや乃 @neapolis608

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