第34話 坂井さんの子どもたち

四月の終わり。

桜の季節が終わり、新緑が美しい季節になった。

 

今日は土曜日。

私の休みの日だ。

 

でも、今日は特別な日だった。

 

私は、坂井さんの墓を訪れることにしていた。

 

一年に数回、私はこの墓を訪れる。

 

坂井さんに報告するために。

 

私が、どう変わったか。

今、どんな仕事をしているか。

 

車を走らせ、三十分ほどで墓地に到着した。

 

墓地に入ると、見覚えのある姿があった。

 

若い女性が、坂井家の墓の前に立っていた。

 

二十代後半くらいだろうか。

 

私は、少し離れたところで待った。

 

女性は、墓石の前で手を合わせていた。

 

そして、何かを話しかけているようだった。

 

しばらくして、女性が立ち上がった。

 

そして、私に気づいた。

 

女性は、少し驚いたような顔をした。

 

そして、私に近づいてきた。

 

「あの、もしかして」

 

女性が、私に声をかけた。

 

「井上さん、ですよね?」

 

その言葉に、私は少し驚いた。

 

「はい、井上ですが」

「やっぱり」

 

女性は、小さく笑った。

 

「私、坂井の娘です」

「坂井さんの?」

「はい」

 

女性は、頷いた。

 

「父が亡くなった時、私は小学生でした」

「でも、井上さんのこと、覚えています」

「父のリハビリをしてくださっていた先生」

 

その言葉に、私は胸が詰まった。

 

坂井さんの娘。

 

八年前、小学生だった娘が、今は成人している。

 

「お久しぶりです」

 

私は、頭を下げた。

 

「お父さんには、大変お世話になりました」

「いえ」

 

娘は、首を横に振った。

 

「井上さんこそ、父がお世話になりました」

 

娘は、墓石を見た。

 

「実は、母から聞いたんです」

「井上さんが、数年前に家を訪ねてくださったと」

「はい」

 

私は、頷いた。

 

「お父さんに、謝りたくて」

 

その言葉に、娘は少し驚いたような顔をした。

 

「謝る?」

「はい」

 

私は、娘の目を見た。

 

「お父さんが、私に助けを求めたとき」

「私は、何もしませんでした」

「お父さんを、裏切りました」

 

その言葉を口にすると、涙が溢れてきた。

 

娘は、私の手を握った。

 

「井上さん、それは違います」

 

娘の声は、優しかった。

 

「父は、井上さんを恨んでいませんでした」

 

その言葉に、私は顔を上げた。

 

「恨んで、いなかった?」

「はい」

 

娘は、頷いた。

 

「父が亡くなる数日前、私は父と話をしました」

「父は、苦しそうでした」

「でも、私たちには笑顔を見せてくれました」

 

娘は、涙を流した。

 

「そして、父は言いました」

「井上先生は、いい先生だって」

「ちゃんと、僕のことを考えてくれていたって」

 

その言葉に、私は息を呑んだ。

 

「父は、分かっていたんです」

「井上さんが、どれだけ悩んでいたか」

「家族に伝えるべきか、伝えないべきか」

 

娘は、私を見た。

 

「父は、井上さんに無理なお願いをしたと」

「そう言っていました」

 

その言葉が、胸に響いた。

 

坂井さんは、分かっていた。

 

私が、どれだけ悩んでいたか。

 

「でも、父は最期に言いました」

「井上先生は、裏切り者だって」

「それは」

 

娘は、首を横に振った。

 

「それは、父が苦しんでいたからです」

「誰かに、その苦しみをぶつけたかったんだと思います」

 

娘は、涙を拭いた。

 

「でも、父は井上さんを恨んでいませんでした」

「母も、そう言っていました」

 

その言葉に、私は涙が止まらなくなった。

 

坂井さんは、私を恨んでいなかった。

 

それを、娘が教えてくれた。

 

「井上さん」

 

娘が、私の肩に手を置いた。

 

「もう、自分を責めないでください」

「父は、井上さんに感謝していました」

「最期まで、ちゃんと向き合ってくれたことに」

 

その言葉に、私は何も言えなかった。

 

ただ、涙が溢れてきた。

 

娘は、私を抱きしめてくれた。

 

「ありがとうございます、井上さん」

「父のことを、ずっと覚えていてくれて」

 

その言葉が、胸に沁みた。

 

私たちは、しばらく墓の前に立っていた。

 

そして、娘が話し始めた。

 

「実は、私も今、医療の仕事をしているんです」

「医療の?」

「はい」

 

娘は、小さく笑った。

 

「看護師です」

「父が亡くなってから、医療の仕事に興味を持ちました」

「父のような患者さんを、支えたいと思って」

 

その言葉に、私は胸が熱くなった。

 

「素晴らしいですね」

「ありがとうございます」

 

娘は、墓石を見た。

 

「父は、最期まで私たちを愛してくれていました」

「苦しんでいたけど、笑顔を見せてくれました」

「私たちを、心配させないように」

 

娘の声は、震えていた。

 

「それが、どれだけ辛かったか」

「今なら、分かります」

 

娘は、涙を拭いた。

 

「だから、私は看護師になりました」

「父のような患者さんの、本当の気持ちに寄り添いたいと思って」

 

その言葉に、私は何も言えなかった。

 

ただ、頷いた。

 

「井上さん、お願いがあります」

「何でしょうか?」

「もし、父に伝えられなかったことがあれば」

「今、ここで話してください」

 

娘は、私を見た。

 

「私が、父に伝えます」

 

その言葉に、私は少し迷った。

 

でも、話すことにした。

 

「坂井さん」

 

私は、墓石を見た。

 

「私は、あなたの頼みを断りました」

「家族に、本当の気持ちを伝えることから、逃げました」

 

私の声は、震えていた。

 

「でも、今は違います」

「私は、もう逃げていません」

 

私は、娘を見た。

 

「あなたの娘さんは、看護師になりました」

「あなたのような患者さんを、支えるために」

 

私は、墓石を見た。

 

「あなたの想いは、娘さんに受け継がれています」

「そして、私も変わりました」

「あなたのおかげで」

 

私は、深く頭を下げた。

 

「ありがとうございました、坂井さん」

 

娘も、一緒に頭を下げた。

 

「ありがとう、お父さん」

 

私たちは、しばらく墓の前で手を合わせていた。

 

そして、娘が話し始めた。

 

「井上さん、実は、弟も今日来る予定だったんです」

「弟さんも?」

「はい」

 

娘は、時計を見た。

 

「もうすぐ来ると思います」

 

その言葉の通り、しばらくすると、若い男性が墓地に入ってきた。

 

二十代前半くらいだろうか。

 

「お姉ちゃん」

 

男性が、娘に声をかけた。

 

そして、私に気づいた。

 

「あの」

「この方は、井上さん」

「お父さんのリハビリをしてくださっていた先生よ」

 

娘が、紹介してくれた。

 

「初めまして、坂井です」

 

男性は、頭を下げた。

 

「井上です」

 

私も、頭を下げた。

 

男性は、墓石の前に立った。

 

そして、手を合わせた。

 

「お父さん、来たよ」

 

男性の声は、優しかった。

 

「今日、大学の卒業式だったんだ」

「無事に、卒業できたよ」

 

男性は、涙を流した。

 

「お父さんに、見せたかったな」

「卒業証書」

 

その言葉に、私は胸が詰まった。

 

娘が、弟の肩に手を置いた。

 

「お父さん、見てるよ」

「きっと」

 

弟は、涙を拭いた。

 

「うん」

 

私は、二人の姿を見ながら、思った。

 

坂井さんの子どもたちは、立派に成長した。

 

娘は、看護師になった。

弟は、大学を卒業した。

 

坂井さんは、もうこの世にいない。

 

でも、坂井さんの想いは、子どもたちに受け継がれている。

 

それが、とても尊いことだと思った。

 

弟が、私に話しかけてきた。

 

「井上さん、姉から聞きました」

「井上さんが、ずっと父のことを覚えていてくださっていると」

「はい」

 

私は、頷いた。

 

「お父さんのことは、忘れません」

 

弟は、小さく笑った。

 

「ありがとうございます」

「父も、きっと喜んでいると思います」

 

その言葉に、私は何も言えなかった。

 

ただ、頷いた。

 

私たちは、三人で墓の前に手を合わせた。

 

坂井修一。

 

八年前に亡くなった、四十二歳の男性。

 

妻と、二人の子どもを残して。

 

でも、その想いは、今も生き続けている。

 

子どもたちの中に。

 

そして、私の中にも。

 

墓参りを終え、私たちは墓地を出た。

 

娘が、私に話しかけた。

 

「井上さん、今日は本当にありがとうございました」

「お会いできて、嬉しかったです」

「こちらこそ」

 

私は、頷いた。

 

「お二人と話せて、私も救われました」

 

娘は、小さく笑った。

 

「井上さん、これからも頑張ってください」

「患者さんのために」

「はい」

 

私は、頷いた。

 

「あなたも、頑張ってください」

「患者さんのために」

 

娘は、深く頭を下げた。

 

「はい」

 

弟も、頭を下げた。

 

「井上さん、本当にありがとうございました」

 

私は、二人に手を振って、車に乗り込んだ。

 

エンジンをかけ、バックミラーを見た。

 

娘と弟が、手を振っていた。

 

私も、手を振り返した。

 

そして、車を発進させた。

 

坂井さんの子どもたちと、話すことができた。

 

八年間、ずっと会いたいと思っていた。

 

でも、会う勇気がなかった。

 

今日、偶然出会えた。

 

そして、坂井さんが私を恨んでいなかったことを知った。

 

それが、どれほど救いになったか。

 

私は、涙を拭いた。

 

坂井さん、ありがとうございました。

 

あなたの子どもたちは、立派に成長しました。

 

あなたの想いは、受け継がれています。

 

安心してください。

 

そして、私も変わりました。

 

もう、逃げていません。

 

患者さんと、ちゃんと向き合っています。

 

それが、私にできる恩返しです。

 

私は、アクセルを踏んだ。

 

家に帰る。

 

その夜、私はベッドに横になった。

 

今日は、特別な日だった。

 

坂井さんの子どもたちと、話すことができた。

 

そして、完全に過去と和解することができた。

 

坂井さんは、私を恨んでいなかった。

 

それを知ることができた。

 

八年間抱えてきた罪悪感が、少しずつ消えていく気がした。

 

いや、消えることはないかもしれない。

 

でも、もうその罪悪感に囚われることはない。

 

坂井さんの想いを受け継ぎ、前に進むことができる。

 

それが、私にできることだった。

 

私は、目を閉じた。

 

明日も、また患者さんの家を訪れる。

 

新しい鍵を受け取り、新しい家に入り、新しい人と出会う。

 

そして、一緒にいる。

 

それが、私の生き方だった。

 

坂井さん。

田中さん。

宮下さん。

吉岡さん。

 

そして、これから出会う人たち。

 

すべての人の秘密を、私は抱え続ける。

 

鍵を預かる人として。

秘密を預かる人として。

 

そして、人と一緒にいる人として。

 

それが、私の使命だった。

 

私の名前は、井上哲也。

 

三十七歳。

訪問リハビリの理学療法士。

 

もう、逃げていない。

 

向き合い続けている。

一緒にい続けている。

 

そして、これからも。

 

私の旅は、まだ続いている。

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