エピローグ

第31話 新しい鍵、変わらない想い

一年後。

 

桜の季節が、また巡ってきた。

 

私は、車を走らせていた。

 

あれから一年。

 

田中さんが亡くなってから、一年と二ヶ月。

宮下さんが亡くなってから、ちょうど一年。

 

私の生活は、大きく変わった。

 

でも、同時に変わらないものもあった。

 

訪問リハビリという仕事は、続けている。

 

毎日、患者さんの家を訪れ、身体に触れ、話をする。

 

そして、時には秘密を預かる。

 

それが、私の日常だった。

 

今日は、土曜日。

本来なら休みの日だ。

 

でも、今日は特別な日だった。

 

私は、ある場所に向かっていた。

 

三十分ほど車を走らせ、墓地に到着した。

 

ここには、坂井さんの墓がある。

 

一年前、私は初めてこの墓を訪れた。

そして、坂井さんに謝った。

 

あれから、私は定期的にこの墓を訪れるようになっていた。

 

車を降り、墓地の中を歩く。

 

坂井家の墓は、奥の方にあった。

 

黒い墓石に、坂井修一の名前が刻まれている。

 

墓石の前には、新しい花が供えられていた。

 

坂井さんの妻が、最近来たのだろう。

 

私も、持ってきた花を供えた。

 

「坂井さん、また来ました」

 

私は、小さく声を出した。

 

「一年が経ちました」

「あれから、いろんなことがありました」

 

私は、墓石の前に座った。

 

「田中さんという患者さんが、亡くなりました」

「宮下さんという患者さんも、亡くなりました」

 

私は、空を見上げた。

 

青い空に、白い雲が浮かんでいた。

 

「でも、二人とも幸せだったと思います」

「秘密を一人で抱えたまま死ななくてよかったから」

 

私は、墓石を見た。

 

「坂井さん、あなたのことは、ずっと忘れません」

「あなたが教えてくれたことを」

 

私は、立ち上がった。

 

「私は、もう逃げません」

「患者さんと、ちゃんと向き合います」

 

私は、深く頭を下げた。

 

「見ていてください」

 

墓石は、静かに立っていた。

 

私は、墓地を後にした。

 

車に乗り込み、次の目的地に向かった。

 

田中さんの墓だ。

 

田中さんの墓は、別の墓地にあった。

 

車を走らせ、二十分ほどで到着した。

 

田中家の墓は、入り口近くにあった。

 

墓石には、田中ハナの名前が新しく刻まれていた。

 

私は、花を供えた。

 

「田中さん、お元気ですか?」

 

私は、小さく笑った。

 

「変な質問ですね」

「でも、田中さんなら笑って許してくれる気がします」

 

私は、墓石の前に座った。

 

「田中さんの娘さんとは、時々連絡を取っています」

「娘さんは、元気にされています」

「田中さんのことを、よく話してくれます」

 

私は、空を見上げた。

 

桜の花びらが、風に舞っていた。

 

「田中さん、あなたの秘密は、私が抱え続けています」

「一人で抱えるのではなく、娘さんと一緒に」

 

私は、墓石を見た。

 

「それが、あなたが望んだことですよね」

 

私は、立ち上がった。

 

「また来ます」

 

私は、田中さんの墓を後にした。

 

そして、次の目的地に向かった。

 

宮下さんの墓だ。

 

宮下家の墓は、さらに別の墓地にあった。

 

車を走らせ、三十分ほどで到着した。

 

墓地に入ると、見覚えのある姿があった。

 

宮下さんの娘だった。

 

娘は、墓石の前に座って、何かを話していた。

 

私は、少し離れたところで待った。

 

しばらくして、娘が立ち上がった。

 

そして、私に気づいた。

 

「井上さん!」

 

娘は、驚いたような顔をした。

 

「こんにちは」

「井上さん、お父さんのお墓参りに来てくださったんですか?」

「はい」

 

私は、頷いた。

 

「そうですか」

 

娘は、小さく笑った。

 

「実は、私も今日はお父さんに報告があって」

「報告?」

「はい」

 

娘は、嬉しそうに言った。

 

「大学で、建築学科に入ることが決まったんです」

「お父さんと同じ道を歩むことに」

 

その言葉に、私は胸が熱くなった。

 

「それは、素晴らしいですね」

「ありがとうございます」

 

娘は、墓石を見た。

 

「お父さんも、きっと喜んでいると思います」

 

娘は、涙を拭いた。

 

「井上さん、お父さんが亡くなってから一年経ちました」

「でも、お父さんとの思い出は、色褪せません」

 

娘は、私を見た。

 

「それは、お父さんが最期の三ヶ月、私たちとちゃんと向き合ってくれたからです」

「たくさん話をしてくれたからです」

 

娘は、私の手を握った。

 

「それは、井上さんのおかげです」

「本当に、ありがとうございました」

 

その言葉に、私は何も言えなかった。

 

ただ、娘の手を握り返した。

 

娘は、墓参りを終えて帰っていった。

 

私は、宮下さんの墓の前に立った。

 

花を供える。

 

「浩二さん、娘さんは元気ですよ」

「建築学科に入るそうです」

「浩二さんと同じ道を歩むそうです」

 

私は、墓石の前に座った。

 

「浩二さん、あなたに出会えて本当によかったです」

「あなたのおかげで、私は変わりました」

 

私は、空を見上げた。

 

桜の花びらが、風に舞っていた。

 

ちょうど一年前、浩二さんが亡くなった日も、こんな日だった。

 

「浩二さん、あなたの秘密も、私が抱え続けています」

「あなたが生きた証として」

 

私は、立ち上がった。

 

「また来ます」

 

私は、宮下さんの墓を後にした。

 

車に乗り込み、エンジンをかけた。

 

三人の墓参りを終えた。

 

坂井さん、田中さん、宮下さん。

 

三人とも、もうこの世にいない。

 

でも、三人の秘密は、私の中に生き続けている。

 

それが、私が三人から預かったものだった。

 

私は、アクセルを踏んだ。

 

家に帰る。

 

その夜、私はソファに座って、コーヒーを飲んでいた。

 

一年前のことを、思い返していた。

 

あの頃の私は、逃げ続けていた。

 

坂井さんのことから。

責任を負うことから。

 

でも、今は違う。

 

私は、もう逃げていない。

 

患者さんと向き合い、秘密を一緒に抱えている。

 

そして、それが私の生き方になった。

 

携帯電話が鳴った。

 

吉岡さんの家のヘルパーからだった。

 

「もしもし、井上です」

「井上さん、吉岡さんの様子が少しおかしいんです」

「今すぐ行けますか?」

「はい、すぐに行きます」

 

私は、すぐに車に乗り込んだ。

 

吉岡さんの家に向かう。

 

夜道を、車が走る。

 

吉岡さんは、一年前から私が担当している。

 

認知症は、少しずつ進行している。

 

でも、吉岡さんは穏やかに暮らしている。

 

夫のことを思い出しては忘れ、忘れてはまた思い出す。

 

それを繰り返している。

 

私は、吉岡さんの秘密を知っている。

 

夫の死の真相。

 

それが事故だったのか、それとも自死だったのか。

 

真実は、分からない。

 

でも、吉岡さんはその記憶を抱えている。

 

そして、忘れることで救われている。

 

吉岡さんの家に到着した。

 

ヘルパーが、玄関で待っていた。

 

「井上さん、ありがとうございます」

「どうしました?」

「吉岡さんが、ベランダに行こうとして」

「止めたんですが、興奮してしまって」

 

私は、急いでリビングに向かった。

 

吉岡さんは、ベランダの前に立っていた。

 

「吉岡さん」

 

私が声をかけると、吉岡さんはゆっくりとこちらを向いた。

 

「あら、健三さん」

 

夫の名前で呼ばれた。

 

「井上です」

「……井上さん?」

 

吉岡さんは、少し首を傾げた。

 

「健三が、ベランダにいるの」

「呼んでも、振り向いてくれないの」

 

吉岡さんの声は、震えていた。

 

「大丈夫ですよ、吉岡さん」

 

私は、吉岡さんに近づいた。

 

「ベランダには、誰もいませんよ」

「いいえ、いるの」

 

吉岡さんは、頑なだった。

 

「健三が、そこにいるの」

 

私は、吉岡さんの手を握った。

 

「吉岡さん、今は休みましょう」

「でも、健三が」

「健三さんは、大丈夫です」

 

私は、優しく言った。

 

「私が、健三さんのこと、見ていますから」

 

その言葉に、吉岡さんは少し安心したような顔をした。

 

「本当?」

「はい、約束します」

 

吉岡さんは、小さく頷いた。

 

私は、吉岡さんをソファに座らせた。

 

ヘルパーが、温かいお茶を持ってきた。

 

吉岡さんは、お茶を飲みながら、少しずつ落ち着いていった。

 

「井上さん」

「はい」

「ありがとう」

 

吉岡さんは、小さく笑った。

 

「あなたがいてくれて、よかった」

 

その言葉に、私は胸が温かくなった。

 

「こちらこそ、吉岡さんがいてくれてよかったです」

 

吉岡さんは、穏やかに笑った。

 

しばらくして、吉岡さんは眠り始めた。

 

ヘルパーと一緒に、吉岡さんをベッドに寝かせた。

 

「井上さん、ありがとうございました」

「いえ、何かあったらいつでも連絡してください」

「はい」

 

私は、吉岡さんの家を出た。

 

車に乗り込み、エンジンをかけた。

 

吉岡さんは、今夜も夫を探していた。

 

ベランダにいると信じて。

 

でも、もう夫はいない。

 

五年前に、亡くなっている。

 

それでも、吉岡さんは夫を探し続ける。

 

忘れては、思い出し。

思い出しては、また忘れる。

 

それを繰り返す。

 

それが、認知症の残酷さだった。

 

でも、同時に、それが救いでもあった。

 

忘れることで、苦しみから解放される。

 

一時的に。

 

そして、また思い出す。

 

でも、それでいい。

 

吉岡さんが、生きているのだから。

 

私は、アクセルを踏んだ。

 

家に帰る。

 

その夜、私はベッドに横になった。

 

一年前と、今。

 

何が変わったのだろう。

 

私は、もう逃げていない。

 

患者さんと向き合い、秘密を一緒に抱えている。

 

それが、私の生き方になった。

 

でも、同時に、変わらないものもあった。

 

坂井さんのことは、今でも時々思い出す。

 

あなたは、裏切り者だ。

 

その言葉は、今でも心に残っている。

 

でも、もうその言葉に囚われていない。

 

坂井さんの妻に謝ることができた。

坂井さんの墓を訪れることができた。

 

そして、坂井さんから学んだことを、今の仕事に活かしている。

 

それが、私にできる贖罪だった。

 

私は、目を閉じた。

 

明日も、また患者さんの家を訪れる。

 

新しい鍵を受け取り、新しい家に入り、新しい人と出会う。

 

そして、いつか秘密を預かるかもしれない。

 

その秘密を、一緒に抱える。

 

それが、私の仕事だった。

 

鍵を預かる人。

 

いや、秘密を預かる人。

 

それが、私の生き方だった。

 

翌週の月曜日、私は新しい患者さんの家を訪れた。

 

六十五歳の男性。

パーキンソン病のリハビリだ。

 

家の前には、キーボックスがあった。

 

事前に聞いていた暗証番号を入力する。

 

4298。

 

蓋が開き、鍵を取り出す。

 

玄関を開けると、コーヒーの匂いがした。

 

「こんにちは」

 

声をかけると、奥から返事が返ってくる。

 

「ああ、井上さん。お待ちしていました」

 

私は靴を脱ぎ、廊下を歩いてリビングに入った。

 

男性は、ソファに座っていた。

 

「初めまして。井上です」

「よろしくお願いします」

 

男性は、小さく頷いた。

 

私は血圧計を取り出し、男性の血圧を測った。

 

そして、リハビリを始めた。

 

リハビリを続けながら、私は男性を観察していた。

 

男性は、少し緊張しているようだった。

 

初めての訪問リハビリだから、当然だろう。

 

「どうぞ、リラックスしてください」

「はい」

 

男性は、小さく笑った。

 

リハビリを終え、男性をソファに座らせた。

 

「お疲れ様でした」

「ありがとうございます」

 

男性は、水を飲んだ。

 

私はカバンを片付け始めた。

 

その時、男性が話し始めた。

 

「井上さん、実は、少し不安なんです」

「不安?」

「ええ」

 

男性は、窓の外を見た。

 

「この病気が、どんどん進行していくことが」

「家族に、迷惑をかけることが」

 

男性の声は、震えていた。

 

一年前の私なら、ここで「大丈夫ですよ」と言って、帰っていただろう。

 

深く関わらず、身体だけを診て、心には触れずに。

 

でも、今は違う。

 

私は、男性の隣に座った。

 

「一緒に、向き合っていきましょう」

「一緒に?」

「はい」

 

私は、頷いた。

 

「病気と向き合うのは、一人じゃありません」

「私も、一緒にいます」

 

その言葉に、男性は少し安心したような顔をした。

 

「ありがとうございます」

 

男性は、小さく笑った。

 

「実は、妻にも話していないことがあって」

 

男性は、少し迷うような顔をした。

 

私は、黙って待った。

 

急かさず、ただ待った。

 

それが、私が学んだことだった。

 

「医者から、将来的には車椅子が必要になるかもしれないと言われました」

 

男性の声は、小さかった。

 

「でも、妻には言えないんです」

「心配をかけたくなくて」

 

その言葉に、私は宮下さんのことを思い出した。

 

宮下さんも、家族に病状を隠していた。

心配をかけたくなくて。

 

でも、最終的には話すことを選んだ。

 

そして、家族との時間を取り戻した。

 

「奥様には、話したほうがいいと思います」

 

私は、そう言った。

 

「でも」

「奥様は、知る権利があります」

「そして、あなたを支える権利があります」

 

男性は、私を見た。

 

「支える、権利?」

「はい」

 

私は、頷いた。

 

「家族は、支えたいんです」

「でも、本当のことを知らなければ、支えることができません」

 

その言葉に、男性は少し考えるような顔をした。

 

「そうですね」

「話して、みます」

 

男性は、小さく笑った。

 

「必要なら、私も一緒にいます」

 

私は、そう言った。

 

男性は、驚いたような顔をした。

 

「一緒に、いてくださるんですか?」

「はい」

 

私は、頷いた。

 

「それも、私の仕事ですから」

 

男性は、涙を流した。

 

「ありがとうございます」

 

その言葉に、私は胸が温かくなった。

 

私は、男性の家を出た。

 

鍵をキーボックスに戻す。

蓋を閉める。

 

4298。

 

この数字も、いつか私の記憶の中に刻まれるだろう。

 

新しい患者さんとの思い出として。

 

そして、また秘密を預かるかもしれない。

 

その時は、ちゃんと受け止める。

一緒に抱える。

 

それが、私にできることだった。

 

車に乗り込み、エンジンをかけた。

 

次の訪問先に向かう。

 

車窓から、新緑の景色が見えた。

 

春が終わり、初夏が近づいている。

 

季節は移り変わる。

 

人も、移り変わる。

 

坂井さん、田中さん、宮下さん。

 

三人とも、もうこの世にいない。

 

でも、三人の秘密は、私の中に生き続けている。

 

そして、三人が教えてくれたことも。

 

坂井さんは、逃げてはいけないと教えてくれた。

 

田中さんは、秘密を一緒に抱えることの意味を教えてくれた。

 

宮下さんは、家族と向き合うことの大切さを教えてくれた。

 

三人の教えが、今の私を作っている。

 

そして、吉岡さんは、まだ生きている。

 

忘れることと、思い出すことを繰り返しながら。

 

でも、穏やかに暮らしている。

 

息子も、母と向き合うことを選んだ。

 

それが、とても尊いことだった。

 

私は、信号で車を止めた。

 

赤信号。

 

待っている間、私は考えた。

 

この一年で、何が変わったのだろう。

 

私は、もう逃げていない。

 

患者さんと向き合い、秘密を一緒に抱えている。

 

それが、私の生き方になった。

 

でも、それだけじゃない。

 

私は、患者さんの家族も支えるようになった。

 

宮下さんの娘。

田中さんの娘。

吉岡さんの息子。

 

そして、新しい患者さんの妻。

 

みんな、家族として患者さんを支えようとしている。

 

でも、時には迷い、悩む。

 

その時、私が一緒にいる。

 

それが、訪問リハビリという仕事の本当の意味なのかもしれない。

 

患者さんだけでなく、その家族も支える。

 

みんなで、一緒に向き合う。

 

それが、私にできることだった。

 

信号が、青に変わった。

 

私は、アクセルを踏んだ。

 

午後、私は吉岡さんの家を訪れた。

 

インターホンを押すと、ヘルパーが出迎えてくれた。

 

「お疲れ様です」

「お疲れ様です。今日の様子はどうですか?」

「今日は、とても穏やかですよ」

 

私はリビングに入った。

 

吉岡さんは、ソファに座っていた。

 

息子も、一緒にいた。

 

「こんにちは、吉岡さん」

 

私が声をかけると、吉岡さんはゆっくりとこちらを向いた。

 

「あら、井上さん」

 

今日は、私の名前を呼んでくれた。

 

息子が、立ち上がった。

 

「井上さん、いつもありがとうございます」

「いえ」

 

私は、首を横に振った。

 

息子は、嬉しそうに言った。

 

「最近、母と毎日話をしているんです」

「昔のこと、父のこと」

「母は、時々忘れますが、それでもいいんだと思いました」

 

息子は、母を見た。

 

「大切なのは、今一緒にいることですから」

 

その言葉に、私は頷いた。

 

「その通りです」

 

私は、吉岡さんの隣に座った。

 

「今日は、足のリハビリをしましょうね」

「ええ、お願いします」

 

吉岡さんは、穏やかに笑った。

 

リハビリを始める。

 

息子は、母の様子をじっと見ていた。

 

その目には、優しさと愛情が滲んでいた。

 

リハビリを終え、吉岡さんをソファに座らせた。

 

「お疲れ様でした」

「ありがとう、井上さん」

 

吉岡さんは、私の名前を呼んだ。

 

私は、嬉しかった。

 

今日は、最後まで私の名前を覚えていてくれた。

 

それだけで、十分だった。

 

私は、吉岡さんの家を出た。

 

車に乗り込み、エンジンをかけた。

 

吉岡さんと息子の姿が、忘れられなかった。

 

二人は、一緒にいた。

 

過去に囚われず、今を生きていた。

 

それが、とても美しかった。

 

私は、アクセルを踏んだ。

 

家に帰る。

 

夕方、家に到着した。

 

部屋に入り、ソファに座った。

 

今日も、一日が終わった。

 

新しい患者さんと出会い、吉岡さんを訪れた。

 

みんな、それぞれの時間を生きている。

 

そして、私もその時間を共有している。

 

それが、私の仕事だった。

 

携帯電話を見ると、メッセージが届いていた。

 

坂井さんの娘からだった。

 

『井上さん、先日はありがとうございました。

お会いできて、本当に嬉しかったです。

父も、きっと喜んでいると思います。

これからも、頑張ってください。

私も、患者さんのために頑張ります。』

 

そのメッセージを読んで、私は胸が温かくなった。

 

坂井さんの娘は、看護師として頑張っている。

 

父の想いを受け継いで。

 

それが、とても尊いことだった。

 

私は、返信を書いた。

 

『こちらこそ、ありがとうございました。

お父さんの想いは、あなたに受け継がれています。

お互い、患者さんのために頑張りましょう。』

 

送信ボタンを押した。

 

私は、ソファに寄りかかった。

 

窓の外を見ると、夕日が沈んでいた。

 

オレンジ色の空。

 

美しい光景だった。

 

私は、この一年で多くのことを学んだ。

 

秘密を一緒に抱えることの意味。

向き合うことの大切さ。

一緒にいることの価値。

 

そして、逃げないことの勇気。

 

すべて、患者さんたちが教えてくれた。

 

坂井さん、田中さん、宮下さん、吉岡さん。

 

そして、これから出会う人たち。

 

私は、みんなの秘密を抱え続ける。

 

鍵を預かる人として。

秘密を預かる人として。

 

そして、人と一緒にいる人として。

 

それが、私の使命だった。

 

私の名前は、井上哲也。

 

三十七歳。

訪問リハビリの理学療法士。

 

もう、逃げていない。

 

向き合い続けている。

一緒にい続けている。

 

そして、これからも。

 

明日も、また患者さんの家を訪れる。

 

新しい鍵を受け取り、新しい暗証番号を覚える。

 

2784、7352、6143、4298。

 

それぞれの数字が、それぞれの人生を表している。

 

私は、その数字を入力し、扉を開ける。

 

そして、中に入る。

 

患者さんの生活に、人生に。

 

でも、ちゃんと出ていく。

 

鍵を返し、扉を閉める。

 

でも、秘密は抱え続ける。

 

それが、この仕事のルールだった。

 

私は、立ち上がった。

 

明日の準備をしよう。

 

カバンの中身を確認し、血圧計の電池を交換する。

 

いつもと同じ、日常の作業。

 

でも、その一つ一つが、大切だった。

 

なぜなら、それが患者さんのためだから。

 

準備を終え、私は再びソファに座った。

 

そして、手帳を開いた。

 

明日の予定が、書いてある。

 

午前十時、新しい患者さん(4298)。

午後二時、吉岡さん。

午後四時、先週訪問した患者さん(6143)。

 

一日三件の訪問。

 

いつもと同じ、日常。

 

でも、その日常が、誰かにとっての特別な時間になる。

 

それが、訪問リハビリという仕事だった。

 

私は、手帳を閉じた。

 

そして、窓の外を見た。

 

夕日は、完全に沈んでいた。

 

夜が、訪れている。

 

でも、明日はまた朝が来る。

 

そして、私は患者さんの家を訪れる。

 

それを、繰り返していく。

 

一日一日、一人一人、丁寧に。

 

それが、私の生き方だった。

 

鍵を預かる人。

秘密を預かる人。

 

そして、人と一緒にいる人。

 

それが、私だった。

 

井上哲也。

 

三十七歳。

訪問リハビリの理学療法士。

 

私の旅は、まだ続いている。

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鍵を預かる人 佐藤くん。 @satou_kenta

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