第33話 吉岡さんの息子

翌週の月曜日、私は吉岡さんの家を訪れた。

 

インターホンを押すと、ヘルパーが出迎えてくれた。

 

「お疲れ様です」

「お疲れ様です。今日の様子はどうですか?」

「今日も、息子さんが来られています」

 

その言葉に、私は少し驚いた。

 

先週に続いて、また息子が来ているのだ。

 

「毎日のように、来られているんですよ」

 

ヘルパーは、嬉しそうに言った。

 

「お母さんと、たくさん話をされています」

「そうですか」

 

私は、少し安心した。

 

息子は、母と向き合うことを選んだのだ。

 

私はリビングに入った。

 

吉岡さんは、ソファに座っていた。

そして、その隣には、息子が座っていた。

 

二人は、古いアルバムを見ていた。

 

「こんにちは、吉岡さん」

 

私が声をかけると、吉岡さんはゆっくりとこちらを向いた。

 

「あら、健三さん」

 

夫の名前で呼ばれた。

 

息子が、吉岡さんに優しく言った。

 

「お母さん、井上さんだよ」

「リハビリの先生」

「……井上さん?」

 

吉岡さんは、少し首を傾げた。

 

「ええ、そうよ」

「井上さんね」

 

吉岡さんは、小さく笑った。

 

息子が、私に頭を下げた。

 

「井上さん、いつもありがとうございます」

「いえ」

 

私は、首を横に振った。

 

息子は、アルバムを閉じた。

 

「今日、母と昔の写真を見ていたんです」

「父と母が、若い頃の写真を」

 

息子は、アルバムを撫でた。

 

「母は、時々思い出すんです」

「父のことを」

「そして、また忘れます」

 

息子の声は、穏やかだった。

 

「でも、それでいいんだと思いました」

「井上さんが言ってくださったように」

「母は、今を生きている」

 

息子は、吉岡さんを見た。

 

「それが、大切なんですよね」

「はい」

 

私は、頷いた。

 

私は、吉岡さんの隣に座った。

 

「今日は、足のリハビリをしましょうね」

「ええ、お願いします」

 

吉岡さんは、穏やかに笑った。

 

リハビリを始める。

 

息子は、少し離れたところで、じっと見ていた。

 

母が、リハビリを受けている姿を。

 

その目には、優しさが滲んでいた。

 

リハビリを続けながら、吉岡さんが話し始めた。

 

「井上さん、健三のこと、知ってる?」

 

私は、少し迷った。

 

でも、正直に答えることにした。

 

「はい、少しだけ」

「そう」

 

吉岡さんは、窓の外を見た。

 

「健三はね、優しい人だったの」

「いつも、私のことを気にかけてくれて」

 

吉岡さんの声は、穏やかだった。

 

「でも、私が病気になってから、疲れていたわ」

「私の世話が、大変だったと思う」

 

吉岡さんは、涙を流した。

 

息子が、吉岡さんに駆け寄った。

 

「お母さん」

「あら、あなた誰?」

 

吉岡さんは、息子を不思議そうに見た。

 

「息子だよ、お母さん」

「……息子?」

 

吉岡さんは、少し考えるような顔をした。

 

「ああ、そうね」

「私の息子ね」

 

吉岡さんは、小さく笑った。

 

息子は、吉岡さんの手を握った。

 

「お母さん、大丈夫だよ」

「お父さんのことは、僕も覚えているから」

 

その言葉に、吉岡さんは涙を流した。

 

「ありがとう」

 

吉岡さんは、息子の手を握り返した。

 

その光景を見て、私は胸が温かくなった。

 

息子は、母と向き合うことを選んだ。

 

過去から逃げることをやめた。

 

それは、とても勇気のいることだった。

 

リハビリを終え、吉岡さんをソファに座らせた。

 

「お疲れ様でした」

「ありがとう、井上さん」

 

吉岡さんは、私の名前を呼んだ。

 

でも、次の瞬間。

 

「あれ、あなた誰だっけ?」

 

吉岡さんは、不思議そうに私を見た。

 

また、記憶が途切れた。

 

私は、小さく笑った。

 

「井上です」

「そう」

 

吉岡さんは、穏やかに笑った。

 

息子が、私を別室に呼んだ。

 

「井上さん、少しいいですか?」

「はい」

 

私たちは、別室に移動した。

 

息子は、窓の外を見ながら話し始めた。

 

「実は、父の死について、ずっと疑問があったんです」

 

息子の声は、静かだった。

 

「父は、本当に転んで落ちたのか」

「それとも、自分で」

 

息子は、顔を伏せた。

 

「でも、もう真実は分からない」

「警察は、事故として処理しました」

「母も、覚えていない」

 

息子は、私を見た。

 

「だから、私は決めました」

「真実を探すことをやめると」

 

その言葉に、私は少し驚いた。

 

「やめる、ですか」

「はい」

 

息子は、頷いた。

 

「真実が事故でも、自死でも」

「父は、もう戻ってこない」

「それは、変わらない」

 

息子は、窓の外を見た。

 

「大切なのは、今生きている母と向き合うことです」

「過去に囚われず」

「母と、残された時間を大切にすることです」

 

その言葉が、胸に響いた。

 

息子は、過去から解放されようとしている。

 

真実を追い求めることをやめ、今を生きることを選んだ。

 

それは、とても勇気のいることだった。

 

「井上さん、先週言ってくださいましたよね」

「忘れることも、思い出すことも、人間だと」

「はい」

 

私は、頷いた。

 

「私も、そう思いました」

「母は、父のことを忘れる」

「でも、時々思い出す」

「それでいいんだと」

 

息子は、小さく笑った。

 

「そして、私も忘れていいんだと思いました」

「父の死の真実を追い求めることを」

 

息子は、私の手を握った。

 

「ありがとうございます、井上さん」

「あなたのおかげで、私は変わることができました」

 

その言葉に、私は何も言えなかった。

 

ただ、息子の手を握り返した。

 

「こちらこそ、ありがとうございます」

 

私は、そう答えた。

 

息子は、リビングに戻った。

 

吉岡さんは、テレビを見ていた。

 

息子が、吉岡さんの隣に座った。

 

「お母さん、一緒にお茶飲もうか」

「ええ」

 

吉岡さんは、穏やかに笑った。

 

私は、その光景を見ながら、カバンを片付けた。

 

「では、また木曜日に来ますね」

「ええ。お願いします」

 

息子が、頭を下げた。

 

「井上さん、母を、これからもよろしくお願いします」

「はい、任せてください」

 

私は、そう答えた。

 

私は、吉岡さんの家を出た。

 

車に乗り込み、エンジンをかけた。

 

吉岡さんの息子は、変わった。

 

過去から逃げることをやめ、母と向き合うことを選んだ。

 

それは、宮下さんと同じだった。

 

宮下さんも、家族から逃げることをやめ、向き合うことを選んだ。

 

そして、田中さんも、娘と向き合うことを選んだ。

 

みんな、逃げることをやめた。

 

それが、どれほど勇気のいることか。

 

私は、よく知っている。

 

なぜなら、私もかつて逃げ続けていたから。

 

坂井さんのことから。

責任を負うことから。

 

でも、もう逃げていない。

 

そして、私の姿を見て、息子も変わった。

 

それが、とても尊いことだと思った。

 

私は、アクセルを踏んだ。

 

次の訪問先に向かう。

 

午後、私は先週訪問した新しい患者さんの家を訪れた。

 

膝の手術を受けた七十二歳の女性だ。

 

キーボックスに手を伸ばし、暗証番号を入力する。

 

6143。

 

蓋が開き、鍵を取り出す。

 

玄関を開けると、いつもの匂いがした。

 

でも、今日は何かが違った。

 

「こんにちは」

 

声をかけると、奥から二人の声が返ってきた。

 

「どうぞ」

 

私は靴を脱ぎ、廊下を歩いて居間に入った。

 

女性は、椅子に座っていた。

 

そして、その隣には、五十代くらいの女性が座っていた。

 

娘だ。

 

「井上さん、いらっしゃい」

 

患者の女性は、明るく笑った。

 

先週とは、まったく違う表情だった。

 

「こんにちは」

 

私は、頭を下げた。

 

娘が、立ち上がった。

 

「初めまして。母がお世話になっています」

「井上です」

 

私たちは、握手をした。

 

「井上さん、実は、母と話をしました」

 

娘は、少し照れたような顔をした。

 

「母が、なぜ手術を受けたかったのか」

「まだ自分の足で歩きたかったのか」

 

娘は、母を見た。

 

「私、分かっていませんでした」

「母の気持ちを」

 

娘は、涙を拭いた。

 

「勝手に手術を受けたことに、怒っていました」

「でも、本当は、母が心配だっただけなんです」

 

娘は、母の手を握った。

 

「ごめんなさい、お母さん」

 

母は、娘の手を握り返した。

 

「いいのよ」

「あなたが、心配してくれていたこと、分かっていたから」

 

二人は、抱き合った。

 

私は、その光景を見ながら、胸が温かくなった。

 

母と娘は、向き合うことができた。

 

それは、とても尊いことだった。

 

娘が、私に頭を下げた。

 

「井上さん、母から聞きました」

「井上さんが、話を聞いてくださったと」

「一緒にいてくださると言ってくださったと」

 

娘の声は、感謝に満ちていた。

 

「ありがとうございます」

「いえ」

 

私は、首を横に振った。

 

「お母さんが、勇気を出して話してくださったんです」

 

母は、小さく笑った。

 

「井上さんがいてくれたから、話せました」

 

その言葉に、私は何も言えなかった。

 

ただ、頷いた。

 

娘は、帰り際に私に言った。

 

「井上さん、これからも母を、よろしくお願いします」

「はい、任せてください」

 

私は、そう答えた。

 

私は、患者さんの家を出た。

 

鍵をキーボックスに戻す。

蓋を閉める。

 

6143。

 

この数字も、私の記憶の中に刻まれた。

 

母と娘が、向き合えた日の数字として。

 

車に乗り込み、エンジンをかけた。

 

今日、二組の親子が向き合った。

 

吉岡さんと息子。

そして、新しい患者さんと娘。

 

二組とも、逃げることをやめた。

向き合うことを選んだ。

 

それは、とても勇気のいることだった。

 

でも、二組とも成し遂げた。

 

そして、私はその場にいた。

 

一緒にいた。

 

それが、私にできることだった。

 

私は、アクセルを踏んだ。

 

家に帰る。

 

その夜、私はベッドに横になった。

 

一年前と、今。

 

何が変わったのだろう。

 

私は、もう逃げていない。

 

患者さんと向き合い、秘密を一緒に抱えている。

 

そして、患者さんの家族も、変わり始めている。

 

逃げることをやめ、向き合うことを選んでいる。

 

それが、私の仕事の意味なのかもしれない。

 

患者さんだけでなく、その家族も支える。

 

一緒にいる。

 

それが、訪問リハビリという仕事の本質なのかもしれない。

 

私は、目を閉じた。

 

明日も、また患者さんの家を訪れる。

 

新しい鍵を受け取り、新しい家に入り、新しい人と出会う。

 

そして、一緒にいる。

 

それが、私の生き方だった。

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