第32話 一年後の訪問

一年後の春。

 

私は、新しい患者さんの家の前に立っていた。

 

キーボックスに手を伸ばし、暗証番号を入力する。

 

6143。

 

蓋が開き、鍵を取り出す。

 

七十二歳の女性。

独居で、膝の手術後のリハビリだ。

 

事前の情報によれば、手術は成功したが、一人暮らしのため、訪問リハビリが必要とのことだった。

 

玄関を開けると、古い木造住宅特有の匂いがした。

 

「こんにちは、訪問リハビリの井上です」

 

声をかけると、奥から返事が返ってくる。

 

「ああ、どうぞ」

 

私は靴を脱ぎ、廊下を歩いて居間に入った。

 

女性は、椅子に座っていた。

 

膝にはサポーターが巻かれている。

 

「初めまして。井上です」

「よろしくお願いします」

 

女性は、小さく頷いた。

 

でも、その目には、どこか警戒するような色が見えた。

 

「これから、膝のリハビリをさせていただきます」

「ええ」

 

女性の返事は、短かった。

 

私は血圧計を取り出し、女性の血圧を測った。

上が百四十、下が八十五。

少し高めだが、許容範囲だ。

 

「血圧は、少し高めですね」

「そうですか」

 

女性は、窓の外を見た。

 

私は、女性の膝の状態を確認し始めた。

 

手術の痕は、まだ新しい。

でも、傷の治りは良さそうだった。

 

「痛みは、ありますか?」

「少し」

 

女性の声は、冷たかった。

 

私は、無理のない範囲で、女性の膝を動かしていった。

 

ゆっくりと、慎重に。

 

女性は、黙って私の手に従っている。

 

でも、その表情には、何も浮かんでいなかった。

 

リハビリを続けながら、私は女性を観察していた。

 

何かを抱えている。

 

それは、確かだった。

 

一年前の私なら、ここで深入りしなかっただろう。

 

患者さんの身体だけを見て、心には触れずに帰る。

 

それが、私の仕事だと思っていた。

 

でも、今は違う。

 

田中さん、宮下さん、吉岡さん。

 

三人との出会いが、私を変えた。

 

私は、もう逃げない。

 

患者さんと向き合う。

 

それが、私の仕事だと分かった。

 

リハビリを終え、女性を椅子に座らせた。

 

「お疲れ様でした」

「ありがとうございます」

 

女性は、小さく答えた。

 

私はカバンを片付け始めた。

 

その時、女性が小さく呟いた。

 

「誰にも、言えないことって、ありますよね」

 

その言葉に、私は手を止めた。

 

「誰にも、言えないこと、ですか?」

「ええ」

 

女性は、窓の外を見た。

 

「私、実は」

 

女性は、言葉を濁した。

 

私は、女性の隣に座った。

 

「話したくなったら、いつでも聞きますよ」

 

女性は、私を見た。

 

その目には、驚きの色が浮かんでいた。

 

「聞いて、くださるんですか?」

「はい」

 

私は、頷いた。

 

「私の仕事は、身体のリハビリだけではありません」

「患者さんと、一緒にいることも、仕事です」

 

その言葉に、女性の目から涙が溢れてきた。

 

「実は、この膝の手術」

 

女性は、自分の膝を見た。

 

「私が、自分で決めたんです」

「娘に、相談せずに」

 

女性の声は、震えていた。

 

「娘は、手術に反対していました」

「もう七十過ぎているんだから、無理しなくていいって」

「でも、私は手術を受けたかった」

 

女性は、涙を拭いた。

 

「まだ、歩きたかったんです」

「自分の足で」

「誰の世話にもならずに」

 

女性は、窓の外を見た。

 

「でも、娘は怒っています」

「勝手に手術を受けたって」

「もう、連絡もくれません」

 

女性は、顔を覆った。

 

「私、間違っていたんでしょうか」

 

その言葉に、私は何も言えなかった。

 

ただ、女性の手を握った。

 

「間違っていません」

 

私は、そう言った。

 

「自分の人生は、自分で決める権利があります」

「娘さんは、心配しているだけです」

 

女性は、私を見た。

 

「心配?」

「はい」

 

私は、頷いた。

 

「娘さんは、お母さんを愛しているから、心配しているんです」

「手術が失敗したら、と思って」

 

その言葉に、女性は涙を流した。

 

「そうでしょうか」

「はい」

 

私は、女性の手を握り返した。

 

「娘さんと、話してみませんか?」

「でも、娘は怒っていて」

「大丈夫です」

 

私は、女性を見た。

 

「お母さんの気持ちを、ちゃんと伝えれば、娘さんは分かってくれます」

「まだ歩きたかったこと」

「自分の足で生きたかったこと」

 

女性は、小さく頷いた。

 

「話して、みます」

「はい」

 

私は、女性の肩を叩いた。

 

「必要なら、私も一緒にいます」

 

その言葉に、女性は驚いたような顔をした。

 

「一緒に、いてくださるんですか?」

「はい」

 

私は、頷いた。

 

「それも、私の仕事ですから」

 

女性は、涙を流しながら笑った。

 

「ありがとうございます」

 

その笑顔が、とても穏やかだった。

 

私は、女性の家を出た。

 

鍵をキーボックスに戻す。

蓋を閉める。

 

6143。

 

この数字も、いつか私の記憶の中に刻まれるだろう。

 

新しい患者さんとの思い出として。

 

そして、また秘密を預かるかもしれない。

 

娘に相談せずに手術を受けたこと。

 

それは、小さな秘密かもしれない。

 

でも、女性にとっては、とても重いものだった。

 

私は、その秘密を一緒に抱える。

 

そして、女性が娘と向き合えるように、支える。

 

それが、私にできることだった。

 

車に乗り込み、エンジンをかけた。

 

一年前の私なら、ここで終わっていただろう。

 

「娘さんと話してみてください」

 

そう言って、帰っていただろう。

 

でも、今は違う。

 

私は、一緒にいる。

 

患者さんが、秘密と向き合えるように。

家族と向き合えるように。

 

それが、私の仕事だと分かった。

 

宮下さんが、教えてくれた。

 

家族に話すことの大切さを。

 

田中さんが、教えてくれた。

 

秘密を一緒に抱えることの意味を。

 

吉岡さんが、教えてくれた。

 

忘れることも、思い出すことも、人間だということを。

 

そして、坂井さんが、教えてくれた。

 

逃げてはいけないということを。

 

私は、アクセルを踏んだ。

 

次の訪問先に向かう。

 

午後は、吉岡さんの家だった。

 

インターホンを押すと、ヘルパーが出迎えてくれた。

 

「お疲れ様です」

「お疲れ様です。今日の様子はどうですか?」

「今日は、ご家族が来られています」

 

その言葉に、私は少し驚いた。

 

吉岡さんには、息子がいると聞いていた。

 

でも、これまで一度も会ったことがなかった。

 

「息子さんですか?」

「はい」

 

ヘルパーは、頷いた。

 

「今日は、お母さんのことで相談があるそうです」

「分かりました」

 

私はリビングに入った。

 

吉岡さんは、ソファに座っていた。

 

そして、その隣には、五十代くらいの男性が座っていた。

 

「こんにちは、吉岡さん」

 

私が声をかけると、吉岡さんはゆっくりとこちらを向いた。

 

「あら、井上さん」

 

今日は、私の名前を呼んでくれた。

 

男性が、立ち上がった。

 

「初めまして。吉岡睦子の息子です」

「井上です。お母さんのリハビリを担当しています」

 

私たちは、握手をした。

 

「井上さん、母のことで、少しお話ししたいことがあるんです」

「はい」

 

私は、頷いた。

 

息子は、少し迷うような顔をした。

 

「今日、リハビリの後でもよろしいですか?」

「もちろんです」

 

私は、吉岡さんの隣に座った。

 

「では、今日はリハビリをしましょうね」

「ええ、お願いします」

 

吉岡さんは、穏やかに笑った。

 

リハビリを始める。

 

息子は、少し離れたところで、じっと見ていた。

 

リハビリを終え、吉岡さんをソファに座らせた。

 

「お疲れ様でした」

「ありがとう、井上さん」

 

吉岡さんは、私の名前を呼んだ。

 

息子が、吉岡さんに話しかけた。

 

「お母さん、少し休んでて」

「ええ」

 

吉岡さんは、テレビを見始めた。

 

息子は、私を別室に案内した。

 

「井上さん、実は、母のことで相談があるんです」

「どうぞ」

 

私は、椅子に座った。

 

息子も、座った。

 

「母は、認知症が進行していますよね」

「はい」

 

私は、頷いた。

 

「最近、症状が進んでいるように感じます」

「そうですか」

 

息子は、窓の外を見た。

 

「実は、私、ずっと母と距離を置いていました」

 

息子の声は、静かだった。

 

「父が亡くなってから、五年」

「母の介護は、ヘルパーさんに任せきりでした」

 

息子は、顔を伏せた。

 

「私、父の死を受け入れられなくて」

「母と向き合うことから、逃げていました」

 

その言葉に、私は胸が詰まった。

 

逃げていた。

 

それは、かつての私と同じだった。

 

「でも、最近思ったんです」

「このままじゃいけないって」

「母と、ちゃんと向き合わなきゃいけないって」

 

息子は、私を見た。

 

「井上さん、母は、本当に父のことを忘れているんでしょうか」

 

その問いに、私は少し考えた。

 

そして、答えた。

 

「忘れている時もあります」

「でも、思い出す時もあります」

 

息子は、じっと私を見た。

 

「思い出す時?」

「はい」

 

私は、頷いた。

 

「吉岡さんは、時々ご主人のことを話します」

「ベランダにいると」

「呼んでも振り向いてくれないと」

 

その言葉に、息子の顔が曇った。

 

「やはり、母は覚えているんですね」

「父が、ベランダから落ちたことを」

 

息子の声は、震えていた。

 

私は、何も言わなかった。

ただ、黙って聞いていた。

 

「あの日、私も家にいたんです」

 

息子が、話し始めた。

 

「母の介護に疲れた父が、ベランダで一人でいました」

「私が声をかけようとしたその時」

 

息子は、顔を覆った。

 

「父は、落ちました」

「転んだのか、それとも」

 

息子の声は、かすれていた。

 

「分かりません」

「でも、母は、ずっとそのことを抱えているんですね」

 

息子は、涙を流した。

 

私は、息子の隣に座った。

 

そして、手を握った。

 

「吉岡さんは、忘れることで救われています」

 

私は、そう言った。

 

「辛い記憶を、忘れることができる」

「それは、認知症の残酷さでもあり、優しさでもあります」

 

息子は、私を見た。

 

「優しさ、ですか」

「はい」

 

私は、頷いた。

 

「吉岡さんは、ご主人の死を何度も思い出します」

「でも、すぐに忘れます」

「そして、また穏やかに暮らします」

 

私は、息子の目を見た。

 

「それが、吉岡さんにとっての救いなんです」

 

息子は、涙を拭いた。

 

「そうですか」

「母は、それでいいんですね」

「はい」

 

私は、頷いた。

 

「大切なのは、吉岡さんが穏やかに暮らせることです」

「過去に囚われず、今を生きることです」

 

息子は、小さく笑った。

 

「分かりました」

「私も、母と向き合います」

「過去に囚われず」

 

息子は、立ち上がった。

 

「ありがとうございました、井上さん」

「母を、よろしくお願いします」

 

その言葉に、私は頷いた。

 

「はい、任せてください」

 

私は、吉岡さんの家を出た。

 

車に乗り込み、エンジンをかけた。

 

吉岡さんの息子も、過去から逃げていた。

 

父の死から。

母と向き合うことから。

 

でも、今日、向き合うことを選んだ。

 

それは、とても勇気のいることだった。

 

私も、かつて逃げていた。

 

でも、今は違う。

 

向き合い続けている。

 

そして、その姿を見て、息子も変わろうとしている。

 

それが、とても尊いことだと思った。

 

私は、アクセルを踏んだ。

 

家に帰る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る