第30話 鍵を預かる人
四月の終わり。
桜の季節は過ぎ、新緑の季節が訪れていた。
私は、車を走らせていた。
向かう先は、田中さんの家だった。
田中さんが亡くなってから、二ヶ月が経っていた。
今日は、田中さんの娘から連絡があり、家を訪れることになっていた。
田中さんの家の前に到着する。
キーボックスは、まだそこにあった。
私は、キーボックスを見つめた。
2784。
この暗証番号を、何度入力しただろう。
何度、この鍵を取り出しただろう。
私は、暗証番号を入力した。
蓋が開き、鍵を取り出す。
玄関を開けると、懐かしい畳の匂いがした。
でも、もう田中さんの声は聞こえない。
私は、居間に入った。
田中さんの娘が、待っていた。
「井上さん、来てくださってありがとうございます」
「こちらこそ」
私は、頭を下げた。
「母の荷物を整理していたら、これが出てきたんです」
娘は、小さなノートを取り出した。
「母の日記です」
「井上さんのことが、たくさん書いてありました」
娘は、ノートを開いた。
そして、読み始めた。
『井上さんという理学療法士が、今日初めて来た。
優しそうな人だった。
でも、どこか悲しそうな目をしていた。
何か、抱えているのかもしれない』
『井上さんに、話してしまった。
戦争中に、隣人を密告したことを。
七十年以上、誰にも話せなかったことを。
でも、井上さんは責めなかった。
ただ、私の手を握ってくれた』
『井上さんのおかげで、娘にも話すことができた。
娘は、私を責めなかった。
抱きしめてくれた。
私は、救われた』
『もうすぐ、私はこの世を去るだろう。
でも、怖くない。
井上さんが、私の秘密を一緒に抱えてくれているから。
一人じゃないから』
娘は、ノートを閉じた。
そして、涙を拭いた。
「井上さん、母は本当に幸せだったと思います」
「あなたに出会えて」
その言葉に、私は胸が熱くなった。
「こちらこそ、田中さんに感謝しています」
娘は、小さく笑った。
「井上さん、お願いがあります」
「何でしょうか?」
「この鍵を、返してください」
娘は、私の手に鍵を握らせた。
「もう、この家には誰も住みません」
「だから、キーボックスも撤去します」
私は、鍵を見つめた。
2784。
この暗証番号も、もう使うことはない。
「分かりました」
私は、鍵をキーボックスに戻した。
そして、キーボックスの蓋を閉めた。
最後に、もう一度暗証番号を確認した。
2784。
この数字は、私の記憶の中に残り続けるだろう。
田中さんの家の鍵として。
田中さんとの思い出として。
私は、田中さんの家を後にした。
車に乗り込み、エンジンをかけた。
鍵を返した。
でも、田中さんの秘密は、私の中に残り続ける。
それが、私にできることだった。
私は、アクセルを踏んだ。
次の訪問先に向かう。
午後、私は新しい患者さんの家を訪れた。
八十歳の女性。
独居で、訪問リハビリを始めたばかりだった。
家の前には、キーボックスがあった。
事前に聞いていた暗証番号を入力する。
7352。
蓋が開き、鍵を取り出す。
玄関を開けると、新しい匂いがした。
「こんにちは」
声をかけると、奥から返事が返ってくる。
「ああ、井上さん。お待ちしていました」
私は靴を脱ぎ、廊下を歩いて居間に入った。
女性は、椅子に座っていた。
「初めまして。井上です」
「よろしくお願いします」
女性は、小さく笑った。
私は血圧計を取り出し、女性の血圧を測った。
そして、リハビリを始めた。
これが、新しい始まりだった。
新しい鍵。
新しい暗証番号。
新しい患者さん。
そして、きっと新しい秘密。
私は、その秘密を一緒に抱える準備ができている。
もう、逃げない。
向き合い続ける。
一緒にい続ける。
それが、訪問リハビリという仕事の本当の意味なのかもしれない。
他人の生活に入り、身体に触れる。
それだけじゃない。
他人の秘密を一緒に抱える。
一緒にいる。
そして、ちゃんと出ていく。
田中さんの鍵は、返した。
宮下さんの鍵も、返した。
でも、二人の秘密は、私の中に残り続ける。
それが、私が預かったものだった。
鍵は返しても、秘密は返さない。
それが、この仕事のルールなのかもしれない。
私は、リハビリを続けた。
新しい患者さんと、ゆっくりと関係を築いていく。
時間をかけて、信頼を築いていく。
そして、いつか、秘密を預かるかもしれない。
その時は、ちゃんと受け止める。
一緒に抱える。
それが、私にできることだった。
リハビリを終え、私は帰る準備を始めた。
「また、木曜日に来ますね」
「ええ。お願いします」
女性は、穏やかに笑った。
玄関を出て、鍵をキーボックスに戻す。
蓋を閉める。
7352。
この数字も、いつか私の記憶の中に刻まれるだろう。
新しい患者さんとの思い出として。
私は車に乗り込み、エンジンをかけた。
坂井さんの秘密。
田中さんの秘密。
宮下さんの秘密。
吉岡さんの秘密。
そして、これから出会う人たちの秘密。
私は、それらを抱え続ける。
鍵を預かる人として。
いや、違う。
鍵を預かる人ではない。
秘密を預かる人だ。
人々の生活に入り、身体に触れ、秘密を預かる。
そして、ちゃんと出ていく。
鍵は返しても、秘密は一緒に抱え続ける。
それが、私の仕事だった。
私は、アクセルを踏んだ。
次の訪問先に向かう。
車窓から、新緑の景色が見えた。
春が終わり、初夏が近づいている。
季節は移り変わる。
人も、移り変わる。
田中さんも、宮下さんも、もうこの世にいない。
でも、二人の秘密は、私の中に生き続けている。
それが、私が二人から預かったものだった。
鍵を預かる人。
いや、秘密を預かる人。
それが、私の名前だった。
井上哲也。
三十六歳。
訪問リハビリの理学療法士。
そして、人々の秘密を預かる人。
私は、これからもこの仕事を続けていく。
新しい鍵を受け取り、新しい家に入り、新しい人と出会う。
そして、いつか秘密を預かる。
その秘密を、一緒に抱える。
それが、私の生き方だった。
車は、次の訪問先に向かって走り続けた。
私の旅は、まだ続いている。
鍵を預かる人として。
秘密を預かる人として。
そして、人と一緒にいる人として。
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