第29話 受け継がれるもの

宮下さんの葬儀は、桜の花びらが舞う穏やかな日に行われた。

 

多くの人が集まっていた。

 

宮下さんが設計した建物の関係者、仕事仲間、家族、親戚。

 

みんなが、宮下さんを偲んでいた。

 

葬儀が終わった後、娘が私に話しかけてきた。

 

「井上さん、少しお時間いいですか?」

「はい」

 

娘は、私を別室に案内した。

 

そこには、妻もいた。

 

「井上さん、本当にありがとうございました」

 

娘は、深く頭を下げた。

 

「最期まで、父のそばにいてくださって」

「いえ、約束しましたから」

 

私は、首を横に振った。

 

「井上さん、父が言っていました」

 

娘は、私を見た。

 

「井上さんがいなければ、私たちに本当のことを話せなかったって」

「一人で秘密を抱えたまま、死んでいたかもしれないって」

 

娘の声は、涙声だった。

 

「でも、井上さんがいてくれたから、父は変わりました」

「家族と向き合う勇気をもらいました」

 

娘は、涙を拭いた。

 

「だから、最期の三ヶ月は、本当に幸せでした」

「父と、たくさん話ができました」

「父の人生を、たくさん聞けました」

 

娘は、私の手を握った。

 

「ありがとうございました」

 

その言葉に、私は胸が詰まった。

 

「こちらこそ、浩二さんに感謝しています」

「浩二さんのおかげで、私は変わることができました」

 

妻が、小さな箱を取り出した。

 

「井上さん、これを」

 

妻は、箱を私に渡した。

 

「主人が、井上さんに渡してほしいと言っていました」

 

私は、箱を受け取った。

 

「ありがとうございます」

 

私は、娘と妻に挨拶をして、葬儀場を後にした。

 

車に乗り込み、箱を開けた。

 

中には、宮下さんの手紙と、小さな写真が入っていた。

 

写真には、宮下さんと娘が一緒に笑っている姿が写っていた。

展覧会の日の写真だろう。

 

私は、手紙を読んだ。

 

『井上さんへ

 

この手紙を読んでいるということは、私はもうこの世にいないのでしょう。

 

井上さん、あなたに出会えて本当によかったです。

 

私は、家族に病気のことを隠していました。

それは、家族を守るためだと思っていました。

 

でも、本当は違いました。

私は、ただ逃げていただけでした。

家族と向き合うことから。

 

あなたは、私にそのことを気づかせてくれました。

 

「あなたは、逃げている人の顔をしている」

 

その言葉を、あなたに言った時、私は自分自身のことを言っているのだと気づきました。

 

だから、私は決めました。

逃げることをやめると。

家族と向き合うと。

 

そして、あなたが一緒にいてくれました。

 

あなたがいてくれたから、私は家族に話すことができました。

 

その結果、残された時間を家族と一緒に過ごすことができました。

娘とたくさん話ができました。

妻と、これまでの人生を振り返ることができました。

 

やり残したことは、ありませんでした。

 

それは、あなたのおかげです。

 

井上さん、あなたも逃げないでください。

これからも、患者さんと向き合い続けてください。

 

あなたには、その力があります。

 

そして、お願いがあります。

 

私の秘密を、これからも抱えていてください。

私が生きた証として。

 

ありがとうございました。

 

宮下浩二』

 

私は、手紙を読みながら、涙が止まらなかった。

 

宮下さんの言葉が、胸に深く刻まれた。

 

私は、宮下さんの秘密を抱え続ける。

宮下さんが生きた証として。

 

そして、これからも患者さんと向き合い続ける。

 

もう、逃げない。

 

それが、私にできることだった。

 

私は、エンジンをかけた。

 

家に帰る。

 

その夜、私はベッドに横になった。

 

田中さんも、宮下さんも亡くなった。

 

でも、二人の秘密は、私の中に生きている。

 

田中さんの秘密。

戦争中に隣人を密告したこと。

 

宮下さんの秘密。

家族に病状を隠していたこと。

 

そして、吉岡さんの秘密。

夫の死の真相。

 

私は、それらを抱え続ける。

 

一人で抱えるのではなく、みんなと一緒に抱える。

 

それが、私にできることだった。

 

翌週の月曜日、私は仕事に戻った。

 

最初の訪問先は、吉岡さんの家だった。

 

インターホンを押すと、ヘルパーが出迎えてくれた。

 

「お疲れ様です」

「お疲れ様です。今日の様子はどうですか?」

「今日は、わりと落ち着いていますよ」

 

私はリビングに入った。

 

吉岡さんは、ソファに座ってテレビを見ていた。

 

「こんにちは、吉岡さん」

 

私が声をかけると、吉岡さんはゆっくりとこちらを向いた。

 

「あら、井上さん」

 

今日は、私の名前を呼んでくれた。

 

「今日は、足のリハビリをしましょうね」

「ええ、お願いします」

 

私は、吉岡さんの隣に座った。

 

リハビリを始める。

 

吉岡さんは、穏やかに私の手に従っている。

 

「吉岡さん、今日は私のこと、覚えていてくれたんですね」

「ええ、今日はね」

 

吉岡さんは、小さく笑った。

 

「でも、明日は忘れているかもしれないわ」

 

吉岡さんは、窓の外を見た。

 

「でも、それでもいいの」

「大切なのは、今この瞬間だから」

 

その言葉が、胸に響いた。

 

大切なのは、今この瞬間。

 

過去に囚われず、未来を恐れず、今を生きる。

 

それが、吉岡さんの生き方だった。

 

リハビリを続ける。

 

吉岡さんは、穏やかに笑っている。

 

夫のことを、今日は思い出していないようだった。

 

それでいい。

 

吉岡さんが、穏やかに暮らせていれば。

 

リハビリを終え、吉岡さんをソファに座らせた。

 

「お疲れ様でした」

「ありがとう、井上さん」

 

吉岡さんは、私の名前を呼んだ。

 

「吉岡さん、ずっと一緒にいますからね」

「ありがとう」

 

吉岡さんは、穏やかに笑った。

 

私は、ヘルパーに挨拶をして、家を出た。

 

車に乗り込み、エンジンをかけた。

 

田中さんは亡くなった。

宮下さんも亡くなった。

 

でも、吉岡さんはまだいる。

 

そして、これから出会う人たちがいる。

 

私は、その人たちと向き合い続ける。

秘密を一緒に抱え続ける。

 

もう、逃げない。

 

それが、私にできることだった。

 

私は、アクセルを踏んだ。

 

次の訪問先に向かう。

 

午後、私は新しい患者さんの家を訪れた。

 

七十五歳の男性。

脳卒中後のリハビリだ。

 

インターホンを押すと、妻が出迎えてくれた。

 

「初めまして。訪問リハビリの井上です」

「ああ、井上さん。お待ちしていました」

 

私は靴を脱ぎ、家に上がった。

 

リビングには、車椅子に座った男性がいた。

 

「初めまして、井上と申します」

「よろしくお願いします」

 

男性は、小さく頷いた。

 

私は、男性の血圧を測り、身体の状態を確認した。

 

そして、リハビリを始めた。

 

これが、新しい始まりだった。

 

新しい患者さんとの出会い。

新しい秘密との出会い。

 

私は、もう逃げない。

 

向き合い続ける。

一緒にい続ける。

 

それが、私にできることだった。

 

そして、それが、私の生き方だった。

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